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第三章 第三章

第三章 本文註 本文註 本文註 本文註

1 師範学校(男子)では、翌明治456月、師範学校規程の改正で同様に武術が正科採用となる。

2 学校体操教授要目には、撃剣及び柔術の内容については以下のように示されている。「撃剣柔術ニ関 シテハ別ニ一定ノ方式ヲ示サス従来ノ方法ニ依リ適宜之ヲ授クヘシ」

3 第二次改正学校体操教授要目では、柔道の内容について以下のように示されている。「柔道ノ教授ハ乱 取ヲ以テ主トスベキモ特ニ技ノ基礎的練習ヲ重ンズベク乱取ニ於テハ投技ヲ主トシ固技ヲ従トスベ シ」さらに、具体的な技の教材配当についても明示されている。そのうち投技については、後述する 3のなかで事例⑨として抜粋し示している。

4 中村民雄(1981):近代武道教授法の確立過程に関する研究(三)-文部省主催武術講習会について

-,武道学研究,第14巻第1号,9頁.

5 大正15年(1925)の第一次改正学校体操教授要目において、「柔術」の名称が「柔道」に改称され るまで、要目(文部省)での呼称は「柔術」であった。

6 寒川恒夫(1994):「柔道一班並ニ其教育上ノ価値」講演にみる嘉納治五郎の柔道体系論,講道館柔 道科学研究会紀要,第七輯,1-10頁.

7 湯浅も同様の観点で、嘉納の講演と体操伝習所答申の関連について検証を行っている。(湯浅晃:「日 本の近代国家形成期における武道についての一考察-明治20年代における武道教育の特徴-」大阪 武道学研究,第9巻第1号,1-15頁,2000年.)

8 池田拓人(2007):嘉納治五郎による柔道教材化の試み-「体操ノ形」を中心として-,北海道大学 大学院教育学研究科紀要,第101号,72.

9 前掲4,9頁.

10 ただし、大正2年(1913)と大正10年(1921)については、官報に開催記録が見当たらず、これら の年については講習会は開催されなかったようである。

11 第一次改正学校体操教授要目には、剣道及び柔道の内容については以下のように示されている。「剣

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道及柔道ニ関シテハ一定ノ方式ヲ示ササルモ適当ナル方法ヲ定メテ之ヲ授クヘシ」

12 全国茗友会(1996):教育剣道を培った人々-東京高等師範学校・東京体育専門学校篇-,いなほ書 房,76-78頁.

13 渡邊正一(1912):文部省の開きし柔道講習会,武徳会誌26号,101-104頁.

14 第一回の柔道講習会には全国から31名の参加者があった(前掲13)。ただし、最終的に修了証書が 授与されたのは28名(『官報』第8551号,471頁)

15 乙竹と佐々木は、ともに東京高等師範学校の教育学専攻の教授である。永井は、同校の体育学専攻の 教授で、当時の体育理論研究の第一人者である。

16 横山作次郎と山下義韶は、講道館四天王と呼ばれた講道館創始以来の嘉納の高弟であり、技術指導の 第一人者と言える。一方、村上邦夫は、明治40年(1907)に東京高等師範学校の文科兼修体操専修 科に入学、修業年限が従前より1年延長されて本科と同じ4年制となった課程を修了した最初の卒業 生であった。文科を兼修するこの課程は、体操に加えて文科のいずれかの免許状も取得することとな り、高い教養を備えた体操教員を送り出した。村上は、明治44年(1911)に卒業と同時に同校嘱託 柔道教師となっており、教職教養と教科指導(柔道教授法)に精通する、将来を嘱望された若手指導 者であった。後年、同校助教授、同校附属中学校教諭(柔道科主任)などを歴任している。『東京高 等師範学校柔道部史』同刊行会,昭和62年)

17「五教の技」の制定について佐村嘉一郎は「この五教が出来たのは、・・・・(中略)・・・・恰かも講道館が小 石川下富坂町に新築された道場に移転した二年後、時は明治二十八年であったと記憶する。而して当 時このことに与った諸士は、故横山指南役、山下現指南役、永岡現指南役外数名の士であったと、永 岡指南役は語られて居た。」「五教の解説(第一回)」『柔道』6-4,昭和104月,11頁)と述べて おり、制定時期については佐村のこの回想に依拠しているが、他に裏づける資料は今のところ見当た らない。

18 山下義韶,永岡秀一,村上邦夫(1919):柔道業解説第六回乱捕業,有効乃活動5-4,36頁.

19 前掲18,37頁.

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20 この当時の講道館における立技重視、寝技軽視の状況について、丸山三造は次のように述べている。

「大正初年頃は、この傾向の最も著しい時代で、試合は立技、立技は大技といふことが通念となり、

試合に臨んで、寝技など用ひやうものなら「 穢きたない穢い」と口を極めて、嘲罵されといふやうなこと

になった。従って、寝技の研究も次第に怠られ、・・・(中略)・・・この状勢は滔々として一世を風靡し、

大正十年頃までは全く文字通り立技一色の世界であったが、この頃の足技・腰技は実に巧緻を極め、

変化の妙、連絡の巧、真に空前絶後を思はしめるものがあったのである。(丸山三造『日本柔道史』

大東出版社,昭和17年,166頁)

21 永木耕介(2008):嘉納柔道思想の継承と変容,風間書房,53頁.

22 嘉納治五郎(1930):道場に於ける形乱取練習の目的を論ず(其の三),柔道1-4,4頁.

23 嘉納治五郎(1930):道場に於ける形乱取練習の目的を論ず(其の五),柔道1-6,4頁.

24 前掲21,91.

25 前掲23,2.

26 前掲23,4.

27 前掲4,10.

28 著者不詳(1920):乱捕業五教の改正,有効乃活動6-11,22頁.

29 大正2年(1913)から昭和11年(1936)までを対象として、以下の教育・体育・柔道関係雑誌及び

文献を通覧した。雑誌は、『帝国教育』『教育時論』『学校教育』『教育学術界』『中等教育』『教育』『体 育と競技』『柔道』(大正4~7年)『有効乃活動』『作興』『柔道』(昭和5年~)。文献は、池田拓人

「柔道関係書の年代別出版状況に関する研究(1)『武道学研究』31-3)の表1中の当該期に発行さ れた文献。

30 岡村豊作(1916):柔道授業の計画と実験,柔道2-7,56-65頁.

31 著者不詳(1919):洛陽における高段者講習会,有効乃活動5-10,40-44頁.

32 落合幾造(1928):柔道提要,柔道後援会.

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33 戸張瀧三郎,中西元雄(1928):柔道大学,自刊.

34 村上邦夫(1928):柔道科教授細目,東京高等師範学校附属中学校教授細目,同中学校.

35 永岡秀一,桜庭武(1930):最新柔道教範(巻一~三),東京開成館.

36 嘉納治五郎(1931):柔道教本 上巻,三省堂.

37 小林元二(1933):福岡県下中等学校武道教師会議の状況,柔道4-8,30-34頁.

38 塩谷宗雄(1937):中学校柔道,成美堂書店.

39 やがて、第二次改正要目では、柔道の教授は乱取を中心とし、乱取の中でも投技を主とするというこ とが明示される。

40 嘉納治五郎『柔道教本上巻』については、同書が1・2年生用の教科書として出されたため、3年生 以上の高学年についての記述はない。なお、高学年を対象とする「下巻」は刊行されなかった。

41 前掲30,65頁.

42 前掲34,6頁.

43 前掲32,2頁.

44 前掲32,98頁.

45 京城は、当時日本統治下にあった現在の韓国ソウル。

46 『官報』第607号,166頁,大正388日。

47 『東京高等師範学校附属中学校教授細目』のなかの「柔道科教授細目」は、このとき同校柔道科主任 教諭となっていた村上邦夫が取りまとめたもの。また、永岡秀一は大正3年の講習会から、桜庭武は 大正12年の講習会で講師を務めている。なお、事例⑥『最新柔道教範』刊行時、永岡・桜庭はとも に東京高等師範学校教授であった。

48 事例⑦の『柔道教本 上巻』では技の総数が他の事例よりも少なくっているが、これは同書が1・2 生用の教科書として著されて2学年分のだけの教材配当となっているためであり、他と単純比較はで きない。

49 前掲34,3頁。

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50 村上邦夫(1931):初心者のための柔道概説(十六),柔道2-10,13頁.

51 前掲34,2頁.

52 ただし、第二次改正要目(事例⑨)およびその直後の事例⑩において、ただ一つだけ第四教の技が配 列されているのがわかる。その技は移腰である。移腰は「旧五教」「新五教」のいずれにおいても第四 教に配列されている技であり、比較的難易度の高い技として位置づけられている。表3を見てみると、

1、2年生用の教科書として出された嘉納の著作(事例⑦)を除くすべての事例でこの移腰は配当され ており、そして第二次改正要目でも残った唯一の第四教の技であった。では、なぜ移腰だけが教材配 当のなかに残っていったのかということについては、その理由を明確に示すものは見当たらない。し かしながら、移腰という技の特性を考えると、それは単独で仕掛ける技ではなく、相手の仕掛けてき た腰技などに応じて投げに入る技ということである。つまり、相手の跳腰や内股、払腰、釣込腰ある いは大外刈などから連絡変化して体を入れ替えて投げる技であるため、技としての難易度は高いが、

第一教や第二教に分類されている基礎的な技との関連性や技の理合いを考慮しながら、教材として配 列されたものと推察される。

53 事例②については、本論の中で先述したように「新五教」と対照することを妥当とした。「新五教」

との対応では、「五教の技」に該当しない技はなかった。

54 大正初期の中等学校での柔道教師の不足について、雑誌に以下のような告知が出されている。「柔道 教師聘用につきては従来良教師の得難きに苦しみ従って成績の十分ならざるを患へらるる向少からざ る由なるが、講道館に於ては、深く之を遺憾とし、及ぶ限り周旋の労を取る方針なりといふ。「柔道 教師聘用の便宜」『中等教育』第22号,112頁,大正47月.

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第四 第四 第四

第四章 章 章 章 形による教授内容・方法の確立過程 形による教授内容・方法の確立過程 形による教授内容・方法の確立過程 形による教授内容・方法の確立過程

序 序 序

序 節 節 節 節 本章の目的 本章の目的 本章の目的 本章の目的

嘉納は、「乱取」による効用として実践者の「興味・面白み」が得られること、「身体の 強化」が促されることを強調していたことは、すでにこれまでにみてきた。しかしながら、

一方で、「乱取」について、「講道館で教える乱取は、身体の円満均斉なる発育を助ける目 的をもって仕組まれてあるから、甚だしき欠陥はないはずであるが、大体競技的に行うこ とであるから、厳格にいえば、ある筋肉は多く働き、ある筋肉は比較的閑却されることは 免れ得ない」1と述べており、「身体の調和的発達」という点からは完全ではないとしてい る。そこで、その「乱取」を補うものとして「形」を位置づけるのである。

それは、すでに明治

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年(

1889)の「教育上ノ価値」講演においても、

「乱取だけで も大抵働かぬ筋肉とてはございませぬけれども、なおごく精密に調べてみますとある筋肉 は他の筋肉よりもその必要の割合によけい働いたり少なく働いたりする都合になります。

そこでその割合に少なく働く筋肉をその上に働かせるように別段に方法を設けることが 自然必要になって参ります。その方法はとりもなおさず形でございます」2と述べて、「身 体の調和的発達」の観点から「形」の必要性を強調している。

嘉納が「身体の調和的発達」にこだわったのは、明治

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年(1884)の体操伝習所答申 における、武術は「身体の発育往々平均均一を失はん」という指摘を大いに意識したためで ある3。つまり、柔道を学校体育教材として文部省に認めさせるためには、「身体の調和的

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