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6. 1904(明治 37)年日彰幼稚園改築時園舎図

(日彰尋常小学校『沿革史』(1915)より転載)

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1910(明治 43)年の『幼稚園保育要目草案』では、「本要目材料ノ配列ハ専ラ幼児心身ノ

発達ト材料ノ難易トヲ考ヘ且ツコレガ季節ヲ斟酌セリ 又材料間連絡ニツイテモ最モ意ヲ 用ヒタリ 例ヘバ談話材料ニ用ヒタルモノハ成ルベクコレヲ唱歌ニモ遊戯ニモ手技ニモ用 フルガ如クセリ」とあり、テーマ間、および各項目間の連関を重視する内容とする事が明 記されている。また、附録された遊戯の細目では、その目的が表 2-8の様に、他の保育内 容や季節と「連絡」すなわち、関連させるように意図したものであることが記載されてい る。このうち「季節」への「連絡」とは、その時期にちなんでといった意味合い以上のも のではなかった。他の保育内容への連絡としては、「実物」「躾方」「行進」「話」「唱歌」が あり、遊戯細目に示された計51種類の遊戯にうち、19種類でこれらの他の保育内容との 接続による関連化が図られていた。またとくに「舌切雀」では「躾方」と「話」、「鬼」で は「話」と「唱歌」に連関させるなど、複合的な「連絡」のありかたも検討されていた。

加えて、表 2-8 中の「ペス」は 1905(明治38)年に京都市保育会で考案し、三市連合保 育会でも披露した遊戯であったが注 114)、5 年後の 1910(明治43)年においても引き続きこ の京都で独自に考案された遊戯が用いられていたことがわかる。

表 2-8.「連絡」の意図が示された遊戯とその「連絡」対象

「連絡」する対 象

遊戯の名称

実物 「砂」

躾方 「朝ノ動作」「舌切雀」

行進 「兵隊」

話 「舌切雀」「桃太郎」「鬼」「雁」「一寸法師」

唱歌 「お日様」「蛙」「蝸牛」「藪雀」「舌切雀」「日本男子」「海上」「鬼」

「狐さん」「ペス」「汽車あそび」「砂あそび」

季節 「蝶々」「金魚」「蛙」「蝸牛」「桃太郎」「蛍」「蝉」「水鉄砲」「蜻蛉」

「園芸」「お祭」「雁」「菊」「紅葉」「落葉」「お正月」「大寒小寒」「雪」

「鶯」「春野小草」「お節句」

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なお、本幼稚園を附設していた日彰尋常小学校長・関口秀範は、1909(明治42)年および

1910(明治 43 年)に京都市保育会幹事を務めるなど、京都市保育会や京阪神連合保育会に

おいても幹部を歴任した人物であった。そして関口は、本章第4節で検討した日彰尋常小 学校における成績調査結果を『京阪神連合保育会雑誌』第 24号(1909)に投稿注 115)するな ど、幼稚園保育に理解があった。また1910(明治43)年5月の第17回連合保育会における 体格検査の議論中で「例へば煙の都といはるゝ大阪の中央の幼稚園と、林間幼稚園ともい ふべき神戸松壽幼稚園とを比較して見るとか」注 116)と、広島女学校と同じく南メソジスト 監督教会派ミッションによる幼稚園であり、宮崎カメら広島女学校附属幼稚園師範科卒業 生によって運営されていた神戸の松壽幼稚園に言及している。そして、その特徴が緑が豊 富にあって「林間」に立地しているということも知っていた。この関口が当時松壽幼稚園 において行われていた中心統合主義的な保育内容についても知識があった可能性が高く、

第 17 回大会(1910)での発言と同年の草案で連続性・系統性をとりいれることが構想され た背景の一つになったのではないかと推察される。

1917(大正 5)年の『教育要覧』(1917)によれば、この時期の日彰幼稚園の方針は「環

境を整理して、善良なる感化暗示を受けしむること」「資料と方法とは、幼児自然の内発的 要求に応すること」「個別的取扱を重んし、個性の助長を計ること」注 117)というように、

同時期以降の間接保育、心理学的知見の考慮、子ども中心的保育といった概念の萌芽を観 ることができる。また保育内容は小学校令のいわゆる四項目ではなく、その活動を心理学 的発達過程を重視し、教育学的見地からあえて「遊戯」と表現しており、直観的遊戯・文 学的遊戯・音楽的遊戯・摸倣的遊戯・技術的遊戯・思考的遊戯・運動的遊戯の7つに分別 して捉えられた。このように、1917(大正 5)年には「遊戯」が時として音楽を伴い園児に 一斉に取り組ませるものから意味合いが拡大し、他方で恩物もしくは手技は、技術的遊戯 のうち、手工や描き方と並ぶ一つの方法にすぎないという扱いになっている。そしてこれ らの遊戯は発達過程とそれぞれの効果によって構成することを原則とし、また季節や各種 遊戯の間の「連絡」を考慮に入れて定めるものと規則上も明記されるようになった。

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表 2-9. 和田實による共同的遊戯の分類(「婦人と子ども」第 8 巻第 10 号より)

上の表 2-9は1908(明治41)年に和田實によって分類された共同遊戯の分類項目注 118)で ある。日彰幼稚園の遊戯のうち、直観的遊戯については和田の分類と文言の表現が同一で あった。ほかの遊戯については日彰幼稚園の「技能的」と和田の「技術的」など対応する 部分はあるものの、異なる表現となっていた。そして日彰幼稚園では共同遊戯、すなわち 集団での一斉的な遊戯に限定せず、あらゆる活動を「遊戯」と捉えている点に特徴がある といえた。

1926(大正15)年になると、国内の幼稚園に向けた初の勅令である「幼稚園令」が渙発さ

れ、遊戯は幼稚園の保育内容として益々中心的な位置づけを与えられるようになる。しか し、この『教育要覧』からは、戦前において国レベルの規則に先行し、実験的なカリキュ ラムを行うことの多かった東京女子高等師範学校附属幼稚園のみならず、地方の幼稚園で も当時現行の 1900(明治 33)年の小学校令の規定内容にこだわらない、柔軟なカリキュラ ム構成が行われていた一例として評価し得るものであった。

また、幼稚園児のクラス分けも、第一組は一年間保育を受けたもの、第二組・第三組は 満五歳以上で初めて保育を受けるもの、第四組は満四歳児の月齢の多い「年長児」、第五組 は同じく満四歳児の内月齢の少ない「年少児」といったように、発達や経験が考慮された 構成となっていた。

『教育要覧』に掲載された「保育要綱」には、保育案についても規定があり、保育案は 担任保母が前日に書き記し、放課後に後日の参考になる事項を書き加え、毎年三月の年度 末に就任に差し出すものとされた。この保育案に記すべき事項は概ね、1)保育の材料及 び方法、2)保育の成績、3)一般幼児の特別なる傾向、変化や原因と思われる事項、4)

特別な幼児の体質・性質・知能・行状に関する事項、6)観察および実際、7)意見と決 められた。このうち材料や方法を示す方法は、京都の幼稚園のごく草創期にあたる1891(明

治 24)年に作成された城巽幼稚園『明治廿四年 保育案』にも、箇条書きの記述が認めら

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れる。そして成績や実際の結果をしめす2)や6)の方法、および各園児の状況も事後的 に記入する方法は、前節で考察を加えた城巽幼稚園の『明治三十六年十一月 保育案二ノ 組』、および城巽幼稚園の『大正三年度 保育案』にもみられるものであった。このような 事前に方法を示すのみならず、事後的に評価を書き込む方法が日彰幼稚園でも 1917(大正 5)年時には採り入れられており、「保育要綱」にもその方法が明示されていたのであった。

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第7節 大阪市の幼稚園における実践にみられる保育方法の変容 (1)明治期の大阪の幼稚園概観

学制発布以来、明治期を通じて小学校の整備と就学率の向上は至上の課題であった。大

阪では1877(明治10)年において小学校就学率が 67.1%と、全府県中で最も高く注 119)、大

阪府民の教育熱の高さが伺えた。その後1880(明治 13)年からは60%前後と停滞するもの の、1878(明治11)年時点においては、72.6%と高水準の就学率を保っており、氏原鋹らを 研修生として東京女子師範学校に派遣するなど、次に整備すべき教育制度として幼稚園に ついても考慮に入れる余裕があったのだと考えられる。

大阪で最初の幼稚園である模範幼稚園は、東京女子師範学校に保姆練習科が設置

(1878(明治 11)年)される以前から、氏原鋹、木村末の二名を研修生として派遣し、彼女ら

の帰阪を待って開園したものであった。明治 10 年代の全国的な幼稚園数の増加は緩慢で あったが、文部省による学齢未満児の就学禁止の通達以降、1884(明治17)年には北区幼稚 園、西区幼稚園および管南幼稚園が整備された。1885(明治18)年の文部省年報の附録では

「幼稚園ハ人心ノ傾向スル所漸次増加ノ勢ヲ現ハシ、本年中新設セシモノ四園尚陸続設置 ノ計画ヲ為スモノアリ、然レトモ未タ保姆等其人ヲ得サルヲ以テ其実効ヲ得サルハ亦已ム ヲ得サルナリ」注 120)と、幼稚園に対する人々の関心が増しつつあるものの、保姆の確保が 十分にできないために幼稚園設置ができないでいる現状が報告されている。

この時期の幼稚園は大阪市の 4 区内でも偏在しており、「日々茲に通ふに自然伝母を要 する如きことに至る、其伝母を要するには中等以上の家計をする者にあらざれば到底なし 得べからず、下等人民の父兄に至りてはよしや其教育を受るの志あるも是等のことより遂 に知りつゝ我子の教育を勿諸にするあるは実に嘆息すべきなり」注 121)という新聞への投書 にみられるように、遠方から毎日通園させるには使用人を雇う必要があるなど経済的な余 裕が必要であった。このため同記事では「適宜の地に之を設くるには甚だ難き事にて実地 に行るべき事ならねば、堂島学校の如き追分学校の如き校内に幼稚科を設くるに至りしな るべし、就ては何れの校にても至急此に習て幼稚科を設け、一の欠点を補ハヾ日々往復の 便なるのみならず、貧困の者の子弟と雖も亦茲に入るゝに容易かるべければ此挙のあらん 事を望む」注 122)と、堂島尋常小学校や追分尋常小学校にすでに設置されていた保育科をほ かの尋常小学校にも設け、通園の便がよく貧困層の子弟でも通わせることが可能なように 整備すべきであるとの提言がなされた。

翌1885(明治18)年8月になると、大阪府布達第69号によって学齢未満の幼児の保育方

法を規定した「大阪府幼児保育規則」が制定され、第一条で「幼稚園の設置なき町村に於 て学齢未満の幼児を保育せんとするときは小学校内に於て学齢児童と分別し本則に依り保 育するものとす」注 123)とされており、幼稚園を別に設けられない場合において幼児を保育 する場合、小学校の施設の一部を割り当てて「保育科」を設けることが規定された。

この保育科の保育内容は、修身の話、庶物の話、木の積立、板排べ、箸排べ、画き方 数え方、読み方、書き方、唱歌、遊戯からなり、幼稚園の保育内容を簡易にしたものに、

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