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年の政変後にデフレになると、この苦しさはますます増していく。三新法のもとでは互選で戸長を決め ていたが、周りはそれゆえ「選んだ」側なので、対等もしくは見くだして言うことを聞かない→そんなのはいや

だから辞退、みたいな流れがでてきて悪循環だった。

392 1884 年改革・1888 年改革 そういう状況を踏まえ、重要な改革が行われた。1884 年の連合戸長役場の設置である。戸長が村と密着するか

らこのようなめんどくさい事態になるので、もっとこの戸長を超然的な立場にして、国の役人としての立場、権 限を作って囲い込むことにしたのだった。これも対処療法ではあったが、これによってかなり仕事はやりやすく なって、事実行政訴訟の数も減っている。いざこざ自体は減ったのである。

しかし、本質的な状況が変わったわけではない。問題が薄く広く拡散しただけであって、地域住民が行政に対し て受け身だと言う構図は変わっていないのだから、戸長の苦難は残るのである。

結局ここでは府県レベルで行った代議制を、市町村レベルでも行うしかないねということになったのだった。受 け身の抵抗を排除するためには、他に方法はないと思われたのである。そういうことで 1888 年4月、市制・町 村制が制定され、市会・町村会がここに生まれたのである。

ちなみに市町村会議員の選挙権には制限があり、納税額の多寡によって選挙権の大きさが違うと言うものであっ た。ここまではわかりやすい話。

393 境界画定の問題 厄介な問題は町村の境界設置であった。というのも、この時の状況はもともとの町や村があったとすれば複数の

村を連合させて戸長に請け負わせると言うシステムなわけだが、ちゃんと選挙システムを作るには市町村が基礎 単位としてしっかり配置される必要があるので、これにむけて 1884 年以降はモッセなどにより「地域単位」を はっきりさせるべきだと主張されたのである。

モッセは統治というものを国民に「どんなものか」知らせることで国民は「けっこうたいへんなのね」と知り、

安定に資するとかいう議論をまたまた持ち出してきたわけだが、そうすると市町村ごとに「長」がいるべきだし、

そのようなものはしっかり選挙で選ぶべきであるとした。つまり、行政官僚としての連合戸長制度を、市町村の 顔として選べるような改革が必要とされたのである。ちなみにこのため市町村長は無給。

内務卿内務大臣に任命された山形有朋は、まさにそのような新しい概念を取り込むに適任だった。

※長州には倒幕派の大きな基盤が形成されたことにつき、やはり吉田松陰の属人的な要素も無視できないと言っ た。吉田松陰は思想家として徹底していたわけだが、この系譜を山形も受け継いでいるのだろう。「自分を狂 っている」と認めきる潔さがそれを示す。※吉田の「イデオロギー」については、233段参照。

当然民権派に対する反発も執念深いものがあった。明治国家というモノに対しての対抗は、イデオロギーの否定 だからである。長州閥の内部には能力を兼ね備えた武断派が生まれ、民権派に対して(伊藤へのコンプレックス もあって)かなりの攻撃的な立ち位置につくことになる。

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だが、今言ったように地方制度の展開と言うのは、基本的には地域社会の統治上の実務的な困難を軸に展開して きたことになる。政治的解釈が強かったのは、山形というイデオロギー満載な奴がきちゃったからだった。彼は 確かに民主化には反発したが、市町村長という信頼できる地方名望家のなかからリーダーを選び、下心なしで、

名誉の無給で町村の中心になるのなら、民権運動への防波堤になるだろうと期待していただけなのである。

市町村からの制限選挙だから地方名望家層の参加は認めているし、それを防波堤に組み込める。GOOD というこ とで、受け入れる。

一方で町村単位の問題が難しかったのは、連合戸長役場ができたことで事実上問題が改善していたからである。

これをまたもとに戻せば、きっとまた村の人々に問い詰められる。さらには無給の名誉職だから、選んでくれた 人と立場的に(官僚じゃないから)再び対等になってしまう。

394 市町村大合併 以上のように、政府と地方官とで考えが対立するのだがこの対立を折り合わせるのが、市町村大合併である。

冷静になればこれは当然のことで、地方官は「小さい単位」に戻すことに問題を覚えていたのであって、合併に より一つの政治単位をもともとの「連合」に準ずるレベルで無理矢理でかくすれば問題ないのである。

役場ごとに 500 くらいの市町村を担当していたのだが、合併では 300 くらいが一つにされたので、割合として は近い水準が維持されたのだった。

ただまあこれは初の試みだから、明治の合併も昭和の合併も、地域社会の混乱をある程度もたらしたが、とくに 明治の合併はその傾向が強いのは否めない。ある程度地域の意向はきいたみたいだが、最終的にはトップダウン 的にやっちゃったみたい。むしろ勝手にやった方が、まとまるすきをあたえず反発を直接にくらいにくいので好 まれた。

これによって、近世以来の職分社会が、脱制度化されたということができるだろう。変わって、地域で名望をも つものに参画を半ば義務付けていくような仕組みが出来上がった。こういう新しい単位を作るのだから、やはり オリジナルとして、以降のおもに「財政」の観点からの合併とはやはり異質で根源的である。そのぶん強引で、

混乱を招いたと言うのも仕方のないところではある。

395 一応の完成 とりあえずは 1890 年に府県制、郡制がしかれたのでこの改革は一応の完成を見た。

実はこの改革派、結局は他にも政府側に有利になるよう作られているのだった。すなわち、府県会議員は直接選 挙だったが、新しい制度によって府県会は市町村会と郡会を経た間接選挙になる。これによって民権派を登場さ せないようにしたのである。地方の統治の実際に関与する中で、きっと穏健にしろと言う話にもなる。

郡会議員の3/4は市町村会議員から選ばれるし、その郡会、市町村会議員にしか選挙権がない。そして被選挙 権を得るには国税を 12 円以上納めないといけない。府県会・郡会には参事会もあり、これも地方名望家が占め ることが期待されていた。

というふうに、地方名望家(のなかでも過激でないやつ)を選ぶ制度化を行ったのである。そうすると、農村地 域につき郡というモノが機能するかが重要になる。郡というのも町村同様、規模を大きくしようとなるのだが、

この郡の境界もまた問題になる。99 年には安定化されるのでそこでまた話そうか!

まあここでは市町村制をしっかり覚えておいてくれればいいや。

ただ、山形の思ったような効果が達成されたのか、というと微妙なところではある。混乱もあったと言ったが、

その中で独特の運用がなされたことも、ここでは触れないがお知らせだけしておく。

まがりなりにも代議制ができて住民の意向も限定的ながら反映されることになる。すでにこういう仕組みができ る以前から、民権運動で政党は盛り上がっていたのだから、代議制+憲法というコンボによって、大きな問題を 政府に残すことになる。それに立ち向かい、なんとか条約改正を進めることとなる。

400 初期議会と条約改正 見た目としての統一国家は確かにできた。しかしながら、ここにはまだ、「条約改正」がない。対等な外交がで

きない、そこにはまだ実体がない。1894 年に日清戦争が起きると議会の様相も変わるが、それまでを初期議会 と言う。初期議会は前半:財政問題の時代(このとき条約改正がまとまりかける)と、後半:条約改正の時代(こ のとき議会で条約が問題となる。大詰め)とに分けることができるだろう、もちろん他にも問題はたくさんある けどね。

410 水面下の交渉 411 青木周蔵の交渉 井上も失敗して、大隈も失敗。失敗と言うのは国内との折り合いがつかない、ということである。

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このとき、日本政府はある決断をした。それは条約改正につき、イギリスに対し完全な法権回復を訴え続けると いう芸のない方針を貫き通すことである。ここでは代償を払おうともせず、イギリス以外の国にも構わない。

つまるところ、結局イギリスが最後だとぐだぐだやっている間に文句言われるけど、スタートをイギリスにすれ ばまだ文句は言われないということである。それにいまなら「議会は開設しといたぜ」として、ちょっと仕事が 出来る奴オーラも出せる。

とにかくイギリス相手に完全な法権回復を合意させることができれば、なんとかなりそうだった…が皮肉なこと にこんな長期戦の覚悟をしたときに、イギリスとの交渉は明るい方向に向かい始めるのだった。

青木周蔵外務大臣が交渉にあたるわけだが、これは決して日本国内の整備が整って近代国家の実質ができたから というわけではなかったのだった。刑法とかはあったけど、民法は論争もあったし。しかも、そんなに対外的な 信用があったわけでもなかった。特に外国人の権利に直結する「裁判」という場においてはそれは明らかである。

412 イギリスの事情 この点につき、ロシアのシベリア鉄道敷設によって(南下政策)、東アジアにおけるパワーバランスが変わるこ とを恐れたイギリスは、日本との連携を重視して、日本との条約改正に対して好意的になった、と言う議論はほ ぼ通説となっている。

しかし、それには疑問がないわけではない。そもそもロシアがシベリア鉄道を敷設して、一番困るのは、たぶん イギリスでなく日本である。実際、清朝との連携を取ってロシアにそなえなきゃあばばばば…とか言う人もいた し、それによって英国との立場が何か改善したということはないはずである。そして、むしろ日本はイギリスに 頼る側であり、かつ大隈がイギリスから交渉を始める!と言っていた以上は、イギリスの立場を無視できない。

榎本など、ロシアとの歩み寄りを重視して、安全保障に直結するものを持ち出して、日本が偉くなったのでなく、

協力しているだけだから要求できること以外は要求すんなよ、という人もいた。交渉の文書を見ても。ロシアと 言う言葉はあまり出てこないんだよね。

じゃあなんでだよ!ということになるが、ここではやはりパークスの危惧が当たっていたのではないかと思われ る。日本では国会が開設され、民権派がたくさんいる衆議院ができあがったわけだが、日本の議会を実は日本だ けでなくイギリス政府も恐れていたのである。

当時の総選挙と言うのは、制限選挙ではあったがやはり長い民権運動の歴史、条約改正の興奮もあり、大半は井 上、大隈に反対した民権派であった。こんな奴らが作る法律から在日イギリス人を守るためには、こいつらを怒 らせるような政策をとってはいけないと言う危機感から、怒らせるような法律・ルールを撤回することになった のである。青木のタイミングでは外国人裁判官の任用と言ったルールが撤回された。

413 行政権の問題 一方イギリス側は、拘留に関する規則は国際的に定めることで新しい条約のもとでも居留民のことを守ろうとし

て港規則などに立ち入った。しかしながら行政権回復への関心はいまだ強いのは承知の通りであり、政府内にも そこへの抵抗がある。だから法権回復に関する二大譲歩がなされても、結局また行政規則バトルになってしまう。

イギリスは譲歩したようで、これは譲歩ではなかったともいえる。

偶然にも青木はプロイセン仕込みの行政権マニアでもあったので、個別規則を条約附則にするということにも異 議を申し立て、次々と条約の改善を勝ち取ることになるのだった。

この論点でも国会の創設は関連しているのが当然で、青木の人格にも関わらず「国会ができるまでは法律と規則 は区別があいまいだった」と青木は説く。

※青木は「国会議員を馬鹿」だと思っていた結構やべーやつ。議会に協力せずきわめて不評であった。

青木「そんな時代に行政規則がなあなあで作られ、そこに重要なルールが作られた。しかし今や国会が制定され、

かつての行政権がになっていた一部分は国会が決めることになるだろう。それに対して外国側がどのような働き かけができるだろうか!かつては中身を変えられたけど、国会は合議体であって、合議体との交渉は困難だ。そ の意味で国会開設は対外的な権利の回復を不可避にするんです」

イギリスはこの議論に対抗することができなかったのである。もちろん国際条約を優先させると言う議論も出来 るけれど、国会がよりそれに抵触する条項を制定してしまえばもうどうしようもない(革命!)

そういう意味で、やはり「怒らせない」というのは大事だったのではないかと思う。まあ私見としては、ここで ドンパチやって無理矢理言うことを聞かせようとしたらロシアに隙を見せるという意味では、ロシアの存在にも 意味はあったような気がするけどね。

国会がやべーのは分かったはずだが、イギリスとしては「頼むからこれ以上悪化させないで」ということになり、

保障してやらねばならない。藩閥政府は憲法制定し、議会を認め、政党も認知していたがそれによって政府の立 場は左右されないと言う「超然主義」をとって自分たちの牙城を守ろうとしていた。