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写真一22 「天地開開」(松岡壽)

 (大阪公会堂内部天井画)

擁護灘㎜鞭

  織騨華 欝・

写真一23 上町台地から生駒山を望んで描かれ     たとされる「仁徳天皇」(松岡壽)

    (大阪公会堂内部壁画)

館)によれば、描かれる画のゆえんは次のようなものである。

 松岡壽は商工業都市にふさわしい内容を『古事記』『日本書紀』に求め、このなかから「天 地開關」「仁徳天皇」「商神すさのおのみこと」「工神ふとたまのみこと」の四つの題材を選 ぶ。画の制作は大正7年5月12Bに着手し、7月19日に完成している。

 「天地開拓」を現わす天井画はいざなぎ、いざなみの両神が国造りのため天つ神より天のぬ ぼこを授かる劇的な場面を描き(写真一22)、櫛形の壁面に描かれる「仁徳天皇」は民の困窮 を見て租税徴収免除した仁徳天皇の故事を現わしており、この構図は上町台地の紅葉寺の辺り から生駒山を望むようにして描かれている(写真一23)。

 さらに彼は大阪の繁栄を古事に託して「商業の神」と「工業の神」たる「すさのおのみこ と」と「ふとたまのみこと」を北側と南側の壁面に描く。商神「すさのおのみこと」は海辺に 立って交易をおこない、喪神「ふとたまのみこと」ははたを織る女性、鏡をもつ女性、玉を磨

く男性に囲まれて立っている。

 商と工に築かれる大阪の都の成り立ちを神話の世界に包み込むこうした壁画が美事に描かれ る。この天井画、壁画を決したものは国運と都大阪の繁栄を願った岩本栄之助の遺志に沿った ものであろう。松岡壽は亡き岩本栄之助の想いを全身全霊を込めて画に現わしたのである。こ れを国家主義や、国粋主義というのははたして妥当であるか。また世にいわれる「和魂洋才」

がそこに表現されているのでもあるまい。

 それは、ただ大阪の大地に立って商都の繁栄と国富を願うその生の証しにほかならぬ。栄之 助は商都のさらなる生の輝きを見ようとした。都市は市民のためにある。つまり、市昆の集う ところがなければならぬ。ある時には、音楽、また時には演説や講演あるいは集会、会食、た ぐいまれな英知の結集がこのことに応えようとする。『公会堂』はこれを美事に詩う。

2。思想としての文化と文明

福沢諭吉

 明治2年その建物が金三百両をもって質屋天満屋善兵衛にゆずり渡されて、懐徳堂が閉じ られる。洋学の天下となってもはや門前の雀羅はいかんともしがたかったという。(宮本又次

『上方の研究』)

 福沢諭吉が「適塾」に入る。安政2年(1855)3月9日のことである。蘭学で名高かった 緒方洪庵の塾を彼に勧めたのは大坂に居た兄三之助である。福沢百助は豊前国中津藩(大分 県)大坂堂島倉屋敷勤めの任に就いていた。福沢百助に天保5年(1835)12月12日第5子 になる男児が誕生する。男児の名、福沢諭吉は、父百助がようやく手に入れた漢籍『上諭条 例』にちなんで付けられたといわれる。

 豊前中津藩は奥平氏の支配する禄高十万石の藩である。百助はこのなかで「足軽よりは数等 よろしいけれども、士族中の下級」藩士であった。(『福助自伝』岩波文庫 2004)大坂に一 家を挙げて引越して中津藩の堂島倉屋敷に長く勤番した百助は、第5子諭吉の誕生を見て約 一年半後(天保7年6月)に他界する。このため、諭吉が数えで三歳のとき、一家は豊前中 津藩に帰郷している。

 上下の区別の厳しい下級武士のこの身分秩序は福沢諭吉につよく反骨の精神を植えつける。

学者であった父が大坂の藩邸にあって加島屋、鴻ノ池という商人と交わって藩債の事務をつと

める。

   算盤をとって金の数を数える、藩借延期の談判をする。・・…  銭を見るも汚れると   言う純粋の学者が純粋の俗事に当る。読書一偏の学者を通したかった父は不平で堪らな   い。       (『福翁自伝』)

 諭吉は自身の理想からかけ離れた父の生活をこんな風に描いている。そんな父に同情して彼 はまた「自伝」に書いている。

   こんなことを思えば、父の生涯、四十五年のその間、封建制度に束縛せられて何事も出   来ず、空しく不平を呑んで世を去りたるこそ遺憾なれ。また初生児の行末を謀り、これを   坊主にしても名を成さしめんとまでに決心したるその心中の苦しさ、その愛情の深き、私   は毎度このことを思い出し、封建の門閥制度を憤ると共に、亡父の心事を察して独り泣く   ことがあります。私のために門閥制度は親の敵で御座る。

 永く大坂にいた一家が中津に帰ってうまくいくはずがなかった。

   第一言葉が可笑しい。私の兄弟は皆大坂言葉で、中津の人が「そうじやちこ」と言うと   ころを、私共は「そうでおます」なんと言うような訳けで、お互いに可笑しいからまず話   が少ない。

 こんなことが万端に届いたことを諭吉は述べている。中津の生活は彼には不平でたまらなか った。「(藩風は貴賎上下の区別をなして藩の公用のみならず子供の交際に至るまで)私(諭 吉)などが上士族に対して、〈アナタがどうなすって、こうなすって〉と言えば、先方では く貴様がそう為やって、こう為やれ〉というような風で、万事その通りで、何でもないただ子 供の戯れの遊びにも門閥が付いてまわるから、どうしても不平がなくてはいられない」と彼は 書いている。

 彼はどうかして中津から出たかった。独りそればかり祈っていたという。そんな諭吉に助け 船が現われる。兄から蘭学のことを聞き、どうだと言われた彼は渡りに舟の調子で中津を後に して長崎に出る。安政元年(1854)のことである。このとき、十九才になった彼は「こんな

所に誰が居るものか、一度出たらば鉄砲玉で、再び帰って来はしないそ、今日こそ黒い心地だ と独り心で喜び、後向いて唾してさっさと足早にかけ出した」(「自伝」)のである。

 この長崎遊学は諭吉にとって「私の生来活動の始まり」になった。といっても食客として入 り込んだ彼の仕事は、諸事万端「有らん限りの仕事を働き、何でもしないことはない」という ものであった。

   朝夕の掃除は勿論、先生が湯に這入る時は背中を流したり湯を取ったりしてやらなけれ   ばならぬ。またその内儀さんが猫が大好き、抑が大好き、生物が好きで、猫も狛も犬も居   るその生物一切の世話をしなければならぬ。       (「自伝」)

 彼は生活の一端をこのように書いている。食客として山本物次郎という地役人で砲術家の家 に這入りこんだ彼はこの埣への漢籍の伝授も含めて、上中下一切の仕事を引き受けて文字通り 甲斐甲斐しく身を粉にして働くのである。

 ところが、この粉骨砕身が仇になる。諭吉は中津から呼び戻される。同居の家老の停奥平壱 岐といつの間にか主客が逆になっておもしろくなくなった壱岐の好計に遇う。このために「諭 吉を呼び還せ、アレが居ては停壱岐の妨げになるから早々呼び還せ、ただしソレについては母 が病気だと申し遣わせ」という厳命が中津から下る。

 彼はもとより中津に戻る気はない。何でも人間の行くべき所は江戸と決めてかかる。江戸か ら来た蘭学書生岡部同級にことの次第を打ち明け、何とかつてを見つけ、彼は江戸に向かう。

乏しい懐中の船旅からようやく大坂に着いた彼は中津藩倉屋敷の兄に逢う。

 兄は中津を避けて大坂に着いた弟を無論よしとはしない。兄は彼に言う。

   ・・…  乃公がここで貴様に面会しながらこれを手放して江戸に行けと言えば兄弟共   謀だ。如何にも済まぬではないか。おッ母さんはそれほどに思わぬだろうが、どうしても   乃公が済まぬ。それよりか大阪でも先生がありそうなものじゃ。大阪で蘭学を学ぶが宜し   い。

 諭吉はこのとき緒方洪庵を知る。これが「自伝」による諭吉の適塾入門のあらましである。

緒方洪庵のもとでの蘭学修業はこの後彼が江戸に出る安政5年10月までつづく。入門が安政 2年3月であったから約三年半の大阪修業である。適塾での精魂を込めた勉学は、江戸に出た 諭吉の自負を支える。「大阪の書生は修業するために江戸に行くのではない、行けば教えに行

くのだ」彼は「自伝」にこのように書いている。

 諭吉の江戸行きは江戸の奥平の屋敷からじつは呼び出されたものであった。奥平は彼に大阪 から中津帰藩を強いた経緯があるが、彼はこれを心中で無視して江戸に発とうとしたことは先 に述べたとおりである。諭吉はこれを表立てで荒立てることをしなかった。この処世術が功を 奏した結果になって彼は晴れて江戸行きになった訳である。

 江戸の奥平からの用向きは藩邸に開いた蘭学の塾の学者に彼を充てることであった。江戸に 出た諭吉に大きな転機が訪れる。英学である。彼は開けたばかりの横浜を見物する、が言葉が つうじない。看板がよめない。彼の落胆は大きかった。とにかく英語を知らなければならな い。これが横浜から帰った翌日の彼の決心であった。諭吉の洋学が英学へと向かった瞬間であ

る。

ドキュメント内 生としての都市 : 中之島をあるく (ページ 43-81)

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