前章において、ネーゲルの議論を参考にしつつ、一人称的性質と三人称的性質のギャッ プを見てきた。それは主として、一人称の主観的な記述と科学的な三人称的記述のギャッ プに関するものであった。3-1 では、他我問題を取り扱う。他人の心に関する問題もまた、
哲学の伝統において大変根深いものである。大まかにいえば、第 2 章が、心的な枠組みを 擁護する立場と物理学との対決に関する議論であったのに対し、本章では、心的な枠組み そのものに潜む問題を取り扱う。
われわれはたしかに他人の心についての知識をもっているように思われるけれども、し かし、その知識はいかにして正当化されるのであろうか。自分の心については直接確かめ られるのに対して、そのようには他人の心は確かめられない。他者に信念や経験があると いうことはどのようにして確かめられるのであろうか。本節では、その正当化の手続きと して考えられてきた、「類比による論法」や「規準による論法」を検討し、いずれの立場も うまくいかないことをみる。そして、他我問題に対して、その問題の設定の仕方自体が間 違いだったのではないか、という疑義を論じたい。
3-2では、その疑問を引き継ぎ、他我問題がデカルトの内在主義的な認識論に端を発した 特殊な問題であることを明らかにする。さらに、デイヴィドソンの「三角測量」について の議論を通じて、われわれがもつ「信念の概念」には、「自分の心に関する知識」、「他人の 心に関する知識」、「外界についての知識」の 3 つすべてが必須であることをみる。デカル トの試みは、いわば「自分の心に関する知識」から他の 2 つの知識を基礎づける試みであ った。他我問題はそうした内在主義的立場に起因するものであり、デイヴィドソンの立場 にしたがうならば、3-1で見たような他人の心についての懐疑に陥ることなく、また自分の 心と他人の心の知られ方が非対称的であることの理由が明らかになると考えられる。本節 の議論を経ることで、素朴心理学が代替可能な単なる知識ではなく、われわれにとって不 可欠の知識の源泉であることが明らかになるであろう。
3-3では、デイヴィドソンの議論に対する2つの批判に応答したい。もっとも重要な論点 は、第 1 章で見た心的なものの規範的性質と全体論的性質がもたらすデイヴィドソンの哲 学内部での緊張に対処することである。第1章と第2 章を通じて、心に関する存在論的な 問題を、翻訳や解釈や還元という記述の問題へと比重を移すように議論を展開した。それ でも物的な記述と心的な記述は、行為に関する説明等で交わらざるを得ない。本節では、
デイヴィドソンの哲学内部においても現れるそうした問題が、どの程度深刻な問題なのか を論じ、さらにその深刻さはかなりの程度解消することが可能であることを論じる。
3-1. 概念的枠組みとしての心
これまで述べてきたように、われわれは、内在的な性質をもつ心的なものの存在を目で 見るなどして、直接確かめることはできない。それは、他者の心のみならず、自分の心も 同様である。また、前章の最後で指摘したように、他者がもっている体験を私がもつこと が不可能であるとするならば、他者の心や経験が存在するというわれわれの日常的な考え
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は、確認できない存在としてさらに疑わしいものとなる。本節では、心や経験の存在はど のように確かめられるのかについて論じたい。
†形式的要件としての自己
2-4でネーゲルにしたがって、自己(一人称)の体験記述の三人称的記述への還元不可能 性を見てきた。ところで、サールによれば、自己そのものについての問い、すなわち「自 己とはなにか?」「自己を自己たらしめるものとはなにか?」という問いについては、ヒュ ームによって決着がついたと現代では考えられている。自分が内面の中に見出すことがで きるのは経験群だけであり、そうした経験群に付け加えて、自己があるわけではない、と いう考えである150。その議論は、自己の同一性にもかかわる問題であり、ヒュームは自己 の同一性を否定して、自己が経験群の継起の結果でしかないとしたのである151。自己は、
経験の対象となるようなものではない。サールは、しかし、「非ヒューム的な自己」という ものを見出す。サールは、自己を形式的な概念として考える。サールは、自己についての 経験が不在であることについて次のように述べる。
もし私が内部に注意を向けて、私がいまもっている経験のすべてを検証した場合、そ のいずれかを私が「自己」と呼ぶはずはない。私は背中にはシャツを感じ、口にはコ ーヒーの後味があり、昨夜からかすかに二日酔いの頭痛が残っており、窓の外の木々 の風景を眺める。しかしこれらのどれも自己ではないし、自己とは見なされない。そ うすると、この自己とはなんなのだろうか? ヒュームは完全に正しいと思う。自己 という存在者の経験はない。しかしそれは、そのようななんらかの存在者や形式的な 原理を想定する必要がないということを意味しない152。
われわれは様々なことを経験するが、自己は経験の対象ではない。だが、サールは、自己 というものにはもう 1 つの側面があると考える。人がもつ経験を、経験として理解可能に するためには、自己を想定する必要があるとするのだ。彼は、自己についてのアナロジー として、視覚を理解する為の「視点」について考える。
私が自分の視覚を理解するためには、それを「ある視点から......
生じるもの」として理解 しなければならない。だが視点それ自体は私が見ているものでもなければ、なんらか のかたちで知覚しているものでもない。視点とは、私の経験の特徴を理解可能にする ための純粋に形式的な要件なのである。視点それ自体はこの一つの形式的な制約、つ まり私の経験がそこから生じる点であるはずだ、という制約以外になんら実質的な特 徴をもっていない153。
視点は、それ自体を見ることはできないが、視覚経験があるかぎり、かならず伴うもので ある。視点の例と同様に、自己も、なんらかの経験が生じている場合には、経験の所有者 として必要となる。実質的に経験される自己がなくとも、自己は、人の経験の特徴を理解 可能にするために必要となる、形式的な要件なのである。
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†他我問題とその解決策の1つとしての類比論法
ここで言われている形式的な要件としての自己は、一人称的な体験記述を可能にする視 点である。他者の経験についても、同様に他者における他者自身の視点があり、初めて可 能となるはずである。しかし、その二人称的な視点を私が認識することは不可能である。
にもかかわらず、われわれはふつう他人がもつ経験が存在すると信じている。
われわれは、第 1 章でみたように、心についての知識をもっていると考える。その知識 は、自分も他人も含めたものである。デカルト的な主観性の議論によると、一人称の知識 は明確に本人に知られており、それゆえ、一人称の知識を足掛かりに、他人の知識、外界 の知識を確実なものとしていこうとする。そうした仕方は、一人称的な知識をもとにあら ゆる知識を基礎づけていこうとする仕方である。他者についての二人称の知識も、自分自 身についての知識に基礎を置くものである。そうした一人称の知識をもとにした二人称の 知識の基礎づけはいかにして行われるのだろうか。他者の問題は、こうした問題点を明ら かにする。
中才は、『心と知識』において、他者の心の問題を人々の行為を説明するための枠組み の身分の問題として位置づけ、素朴心理学を「人物」概念についての理論として捉えよう としている。以下では、他者の心の問題を通し、素朴心理学が心についての原初的な概念 をもたらす枠組みであることを見ていくことにする。
われわれはふつう、他人に心はあることは決まりきったことだ、と考える。われわれは、
他者がどのような心の状態にあるのかを認識することができると考える。コミュニケーシ ョンが可能なのは、他者の行動からその心的状態を類推することができるからである。し かし、他人に心があることを証明せよ、と言われると人は困り切ってしまうだろう。答え なければならないのは、他者に信念があるということの正当化である154。多くの場合、自 分のかつての痛みの経験をもとに、同様の状態になれば、他の人も同じように痛みをもつ だろう、と推理するのである。他者の心の状態の推理として有効なこの方法は、他我問題 においてどのように考えればよいのだろうか。
他我問題を解決する伝統的な方法の1つに、「類比論法argument from analogy」があ る。それは、自己と他者の類比に基づいて、他者に思考や感覚を帰属させる論法である。
この方法を強力に推し進めたのは A.J.エアであり、代表的な論文「他者の心についてのわ れわれの知識」を中心に、中才は類比論法を分析している155。
エアは、「他者の心についてのわれわれの知識」という論文の中で、他者の心についての 知識に問題を生じさせることになる6つの命題を次のように挙げた156。
(1) 自分以外の誰かが、「私は哲学的な問題を考えている」、あるいは「私は頭が痛 い」、あるいは「私は幽霊を見た」と言う時、その人が自分自身について言って いることは、「私は哲学的な問題を考えている」、あるいは「私は頭が痛い」、あ るいは「私は幽霊を見た」と仮に私が言った場合に、私が自分自身について言う であろうことと同じである。
(2)自分自身以外の誰かについて、「彼は哲学的な問題を考えている」、あるいは「彼 は頭が痛い」、あるいは「彼は幽霊を見た」と私が言う時、私がその人について 言っていることは、「私は哲学的な問題を考えている」、あるいは「私は頭が痛い」、