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年 4 月から昭和 47 年 3 月までの学生時代

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『絆』

昭和 43 年 4 月から昭和 47 年 3 月までの学生時代

       

      1971 年度卒(第 6 代主将)

     佐 藤 達 男

 私が在学したのは、戦後約 25 年経過した、まさに高度経済成長の真っ只中の時代でした。 

アパートの家賃は 1 ヶ月 3,000 円で、仕送りは 10,000 円でした。 

家賃は毎年値上げされましたが、仕送りは変わりませんでしたので、この差額はアルバイト

{中央郵便局での郵便物の仕訳、長崎屋で佐々木ハム−佐々木淑恵さん(同期)の実家−の 店頭販売など}で凌いだということです。正にインフレの渦中に身を置いていました。 

 兎にも角にも、お金が無くて 3 年の時にあの関口映子さん(同期)とのデートも、大学⇔

有楽町⇔晴海埠頭と歩いて行って、帰ってその間、飲まず食わずで、御茶ノ水から定期で新 宿まで帰った、記憶があります。勿論、関口さんはあの美貌からして、私如きに奢って呉れ るわけは有りません。中学・高校とほとんど女性の居ない青春期を過ごした私にとって、仕 方ないことですが今考えればもう少しなんとか、ならなかったか残念でなりません。 

就職は、企業に行けば内定と日当・交通費が貰える、今では考えられない時代でした。 

当時は公害など経済成長の矛盾が出始めた頃で、社会の体制、大学の体制に学生が不満をぶ つけました。 

 これが、日大全共闘議長秋田明大を中心とした学生運動の始まりです。ここに社会主義的 なイデオロギーが入り込み、社学同ブンド派、民青、革共同革マル派、中核派、など各セク トは百花繚乱の呈でありました。 

 当時の記憶の一つに、学生と機動隊が衝突するのを御茶ノ水駅前の食堂の 5 階から石井恭 子さん(同期・今の妻)と 2 人で眺めていたような気がします。2 年の秋ころです。それに してもあの催涙弾は、よく目に沁みるものです。中央大学もこの嵐の中で、S43 年 10 月か ら S45 年 2 月まで学生運動排除のための、ロックアウトによる大学閉鎖になりました。 

従って、この当時在学した学生は、当然ながら授業は無く、又学年試験はレポートで私を含 めて学問的レベルは相当低いことが、想像出来ます。何しろ 4 年間の内 1 年半は何もしてい なかったのですから。 

 私は、新宿南口の6畳のアパート(風呂は銭湯・トイレは共同)に住んでおりました。当 時の新宿南口は、草、茫々の東京都の浄水場と甲州街道と文化服装学院があるだけの、夜は 真っ暗で、甲州街道を行き交う車の明かりを頼りに歩いた殺風景な地区でした。このアパー トは H3年に私が会社の東京支店に勤務した折、訪ねたところ殆んど当時と変わらずに、ま だ在りました。驚きました。 

 この時期、同好会活動も変革期にあって、他大学との対抗戦の設定(慶応、早稲田、独協 など)、関東大学同好会連盟加入、文学部の西海太郎教授(故人・皆さん合掌)にローンテ ニス部長就任のお願い、今では当たり前になった夏合宿地「東照館」の永続的使用の決定{藤 田君(同期)が奔走してくれた}、部内紅白戦の企画など色々有りましたが、大学が休校状 態であったので出来たと思います。 

 当時のスタッフは主将が私、副主将が、興銀に行った理論派の今井廣さん、マネージャー は、テニスでは目が出なかったが企画力があった藤田總夫さん、会計は、いつも現金と帳簿 が会わなかった静岡八幡屋社長の中村陽史さん、宴会担当は、何でも口を出した成城グリー ンプラザ副支配人だった澤入博雄さんの 5 人。 

 又、神田神保町のイロハ寿司(今はビルの地下に在る)には、大変お世話になりました。

「ある時払いの催促なし」を初めて実感しました。お金の工面をしたのが、2 浪 1 留の澤入さ ん。お世話になりました。 

 石井さんとは、1 年先輩の山下恒郎さん(現在独身:浜田山居住中)の紹介で 3 年の時に 音楽会(ほとんど、興味は有りませんでしたが)に 3 人で行き、それから何と無く、付き合 い初めて今日に至りました。石井さんは、当時アイドルで、優しい人でありましたが、子供 達もそれぞれ独立し、今の関心事は、孫と金しか眼中に無い、物凄く逞しいおばさんになっ てしまいました。 

 会社からそろそろ戦力外通告が来そうなのですが、家の借金が終るまで働かされそうです。 

戦力外通告とは、年収が半分になって、子会社に転籍することをいいます。そうすると、家 の借金の返済は侭ならず、従って石井さんに、どこか年収の多い会社で働いてもらうことを、

お願いしなければならない、状況になりそうです。 

 このような事もあって 51 歳の時からランニングを始めました。走っている時は、頭の中 は真っ白で、何も考えられず、リフレッシュには丁度、良いのです。 

静岡国体最終日の H15 年 10 月 30 日に、ハーフマラソンの一般市民ランナーとして出場しま した。完走者中最下位でした。エコバスタジアムの電光掲示板に名前と所属が乗りました。

感動しました。因みに現在 1km を 4 分 30 秒で 10km 走ることを目標としています。 

 

 嘘も、真実も書きました。皆さん真面目に読まないで下さい。 

 まあ次の写真をご覧頂いて、ご判断下さい。 

 

  1968 年(昭和 43 年)5 月 定期練習 於日比谷公園 

4代主将勢揃い 稲留(3代) 滝野(4代) 竹山(5代) 佐藤(6代) 

 

  1971 年(昭和 46 年) 紅白戦 於綾瀬? 

  1970 年(昭和 45 年) 紅白戦 上高田? 

佐藤談「石井さんは優しい人でした、もちろん今でも!」 

佐藤達男(22 歳) 石井恭子(21 歳・現佐藤夫人!) 

 

  1971 年(昭和 46 年) ローン有志で伊豆旅行(堂ヶ島) 

佐藤談「関口さんはよく気の付く女性でした。今どうしているのかな?」 

関口映子(22 歳) 佐藤達男(23 歳) 

 

「ローン・クローバー・わかもの・ポーム」 

       

      1973 年度卒(第 8 代主将)

     吉 川 隆 明  

(はじめに) 

 私はローンの第8期生ということになりますか。当時の全学連やフォークソングの時代か ら40年。10年一昔の4倍、「早いものです」がまずは実感です。先日現役とテニスをし たところ、ご両親と同じ年と聞いて「恐ろしい」とも思いました。 

 さてまずはOB会を結成され長年続けて来られた初代の先輩方、そしていつもOB会に誘 って下さる諸先輩に敬意と感謝を表したいと思います。 

 いつも中心的にやってこられた現OB会会長の金子尚道氏、全方位的に面倒見の良い幹事 長の郡山利行氏、ホームページなど広報をしてくれている吉元章雄氏、現役の面倒をひたす らに見ている坂本千治氏、さらに現役を飲みに連れて行き焼き肉屋と寿司屋を「はしご」す るヘビー級おごり魔の光明一磨氏に勝手ながら誌面を借りて感謝申し上げます。 

 さて「昔のこと」折角ですので少し振り返って見たいと思います。 

   

(クローバーのこと) 

 時代は大阪万博の頃、ローンは総勢80名位。「わかもの」と「ローン」しかなかった時 代です。「創設・分裂の時代」と言えばそれまでですが、実は「クローバー」は「ローン」

から出たのであります。 

 当時キャプテンを拝命していた私にとっては、大きな「事件」というか「事変」でありま して、インパクトが強く、今でも結構トラウマになっております。自分がキャプテンの時に ローンを分裂させてしまった、申し分けない、自分の不徳のいたすところだという心境です。 

 私が2年生の終わり頃、休学してアメリカとドイツに留学されていた先輩が二人、ローン に戻ってこられ、同じ学年に編入となりました。「海外組」という感じです。また二浪の同 期が数名、この方々によってクローバーが結成されたのであります。学生時代に年が2歳違 うと私たちが子供に見えたのでしょうか、「吉川の体制は古い」とか何とか言われ、こちら も先輩から受け継いだ通りにやるとかいろいろありました。 

 極めつけは「新歓コンパ事件」です。今思えば何の罪もない新入生にとってはたまったも のではなかったと思います。新歓コンパの終わり頃、海外組の先輩と私が取っ組み合いのケ ンカになってしまったのです。ついにという感じでした。私はケンカに弱いので、押し倒さ

 その後「クローバー」ができました。しかし一番嬉しかったのは、ローンからは後輩が2 名移っただけで、後は残ってくれたことです。実際には役員以外の会員にはローンから出て 行った訳がよく分からなかったというのが真相だと思います。裏返せば、役員が会員に対す る説明責任を果たしていないということです。 

 そんな訳でその後ローンを発展させてくれた後輩に感謝を込めて、ここ10年ほど夏合宿 をはじめいろいろなイベントに参加させていただいています。 

 ところで最近になって、実はクローバーが出来たのは、創立者が私と同期の女性と一緒に テニスをしたかったので、その受け皿としてクローバーを創ったという噂を聞いてビックリ。

いろいろ悩んだ私はいったい何だったのでしょうか? 

 噂の真相をご存知のOBがいらっしゃったら教えて下さい(笑) 

   

(ポームのこと) 

 実は時を同じくして「わかもの」から「ポーム」が生まれました。創立者は逆井(さかさ い)彰氏です。確か3年の中大カップの時、逆井氏が「おい吉川、今度新しいクラブを創っ たんで宜しく、名前はポームだ!」と声をかけてきました。私は「逆井、お前はわかものの キャプテンじゃないか?」とビックリしてしまいました。現役キャプテンが新クラブを創っ てしまう、不思議な時代だったのであります。 

 逆井氏とは最近旧交を温めています。逆井は日本プロテニス協会理事長の渡辺功氏にかわ いがられ、現在は保険会社をやっています。その逆井氏が飲むと「ローンはいいよな」とよ く言うのであります。「何で?」と私が尋ねると、「だってローンにはOB会があるじゃない か」とその理由を言います。さらに「あれ、ポームにはOB会は無いの?」と尋ねると、「だ ってクラブを創るのに精一杯でOB会のことまで考えなかったし、後輩も創ってくれなかっ た。OB名簿も無いし、時々会いたくなっても連絡がとれないんだよな」とのことでした。 

 逆井氏のポームの話を聞いてOB会の活動はいろいろありますが、少なくとも懐かしい人 と、気が向いた時に連絡が取れるように「OB名簿」を地道に作成・管理してくれてきたロ ーンのOB会、これが基本だと思いますが、改めて感謝の気持ちです。 

 

(アフターテニスクラブのこと) 

 長々書いてしまって申し訳ありませんが、最後にPRを一言。実は昨年ローンのOBと私 の地元テニス仲間で「アフター」(その後という意味を込めて)という名称のクラブを創り、

東京多摩社会人リーグ(1〜15 部・300 チーム)に参戦しています。若手OBも頑張ってく れて、現在3連続優勝中です。試合の打ち上げの時にでみんなで優勝カップで飲むビールは また格別です。 

 また試合会場では1部リーグ優勝チームの徳丸豊氏をはじめ、小川満氏などけっこうロー

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