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小磯内閣をめぐる宮中グループ・重臣の動向と木戸幸一 ―終戦工作との 関連―

ドキュメント内 近代日本の公権力と戦争「革命」構想 (ページ 88-159)

7月18日に総辞職した東條内閣の後を襲った小磯国昭内閣は、その組閣の 大命の中には「大東亜戦争の完遂に邁進し、蘇聯関係を注意して之を悪化せ しめざる様」71)務めるべきことが述べられていた。政府の公的見解として降 伏を前提とした姿勢を表明することが極めて困難であったこと、したがって 日ソ中立関係の維持はどこまでいっても有利な交渉条件を確保するための 外交政略として意味づけられていく他なかったことが理解できる。しかし組 閣に当たって「小磯、米内両陸海大将に協力内閣の大命が下った」72)ことは、

それは裏面において和平を意識した人選であったことを物語る。この点につ いて木戸幸一は、戦後の証言のなかで「(前略)小磯陸軍大将を推薦したる 重臣会議に於ては、暗黙の間に戦争終結促進の意向は反映し居りたり。(中 略)米内海軍大将を起用して連立内閣とせしめたることも又其のあらわれに して、最初の重臣会議の翌日近衛公が余を訪問せられ米内海軍大将の起用を 提案せられたる際に、同公より米内君の動きにより戦争の終結を促進せしむ ることが出来るかも知れないとの意味の話あり。余は之に賛成したることを 記憶す」73)と回想している。木戸が小磯内閣に米内が入閣したことを以て、

「戦争の終結を促進せしむることが出来るかも知れない」と期待した近衛に

「賛成」したかどうかは厳密な検証が必要であるが、重臣が米内の起用に戦 争終結に向けた流れの加速を期待したことは事実であろう。

しかしこうした重臣層やその期待を担った米内の入閣が、ただちに陸海軍 全体を和平工作に向けて収斂させたわけではもちろんなかった。むしろ逆 に、和平への動きが裏面で進捗しつつあったことは、陸海軍の継戦派の危機 感を煽ることとなった。

海軍では米内海軍大臣の補佐に井上成美新次官(海軍中将)が着任し「ベ ストと認めらるる大臣、次官を並べた今日では、自由に二人の意見が実現で きるように結束すべきである」74)と期待が集まる一方で、マリアナ失陥後の 日本側の決戦方策を軍務二課、調査課の研究成果をまとめる形で伏下、矢部、

天川の三人が、「決戦指導緊急方策」<1944年8月1日>と題した印刷物に 纏め上げ、岡田、鈴木貫太郎、末次信正(海軍大将)、海軍省・軍令部の要 所に配布している75)。その概要は、①戦争遂行のための南方資源の重要性、

②そのための決戦戦争準備が焦眉の課題であること、②主作戦線は比島、台 湾の線にあること、④決戦のための指導機関の統合(総合的機構の確立)の 必要性、などを確認したものであった76)。まさに東條内閣倒閣に暗躍した人 物が、倒閣後は決戦指導体制構築に奔走している。これは彼等の主観に即せ ば、東條内閣弾劾もその戦争指導体制の独善性と脆弱性への不信に発してお り、必ずしも矛盾した行動ではなかったが、東條内閣弾劾が直ちには和平の 探究と結びつかないことには改めて注意しておいてよい。それら勢力も含 め、陸軍幕僚層の間には決戦指導体制の確立を求める指向が強かった。

だが一方で、そうした関心が陸軍全体、さらには陸海軍全体に共有されて いるとも言い難かった。むしろ8月10日の最高戦争指導会議の場における 審議のあり方をめぐって「本会議ノ進行振リヲ観ルニ従来ノ大本営政府連絡 会議ニ於ケル場合ト実質的ニ差異ナク依然トシテ事務当局ノ起案ニカカル 決議案ヲ審議修正スル範囲ヲ出ズ。而モ海軍側ノ陣容変更ヲ視タル関係上情 勢判断ヲ前提トスル施策立案ニ当リテハ自然陸軍当局ノ主張ヲ中心トスル 傾向認メラレ且右ハ昨年九月ノ御前会議決定ノ修正捕捉トナル形跡モ認メ ラレ、斯クテハ事態根本的ニ変化セル今日ノ状況ニ対処スル所以ニアアズ。

従ツテ最高会議ノ運営ニ当リテハ会議構成員ハ必ズシモ事務当局ノ思想ニ 束縛セラルコトナク寧ロ自由ナル立場ヨリ現状ヲ率直ニ認識シ大局的見地 ニ於テ前途ノ対策ヲ練ル為メ各自虚心坦懐ナル発言ヲナスコトヲ必要ナリ ト考ヘラレタリ」とその不備を指摘される側面を強く残していた。すなわち、

指導部は依然として軍事務官僚の立案した構想を修正し追認する以上のこ とはなさず、またその施策立案の趣意が海軍側に共有されているとはいえな い状況が続くなど、新出の危機に対応できる方針や指導体制がとれていない ことが憂慮されていた。

この状況に対して、「最高会議ノ運営ニ当リテハ会議構成員ハ必ズシモ事 務当局ノ思想ニ束縛セラルコトナク寧ロ自由ナル立場ヨリ現状ヲ率直ニ認 識シ大局的見地ニ於テ前途ノ対策ヲ練ル為メ各自虚心坦懐ナル発言ヲナス コトヲ必要ナリ」77)というように、いわば政治主動による戦争指導の大方針 の提起が求められたが、「『ビルマ』支那方面ニ対スル作戦ヲ重視スル建前ヨ リ議論シツツア」った陸軍に対して、海軍は「主トシテ米軍主力ノ進攻ニ対 シ洋上決戦ヲ頭ニ置キ此為全戦力ヲ集中セントシ居ル」状態であり、両者の 溝は簡単には埋まらず、以後終戦まで軍全体さらには大本営と政府全体を統 括できる政戦略を安定的に打ち立てることは困難を極めた。この時ヨーロッ パ戦線においてソ連に対する独軍の劣勢が目立ち始め、日本国内において独 ソ和平交渉が取り沙汰されたが、それに対する「期待」をめぐって陸軍と外 務当局との間に温度差が存在し、それが独ソ和平への対応を定めた文書の表 現をめぐる紛糾として露見したのは、その断層の深刻さを象徴する出来事で あった。

8月15日の最高戦争指導会議の場において、過去の経緯に照らして両国間 の和平がいかに困難かを説明した外相に対して、独蘇和平を速やかに斡旋す ることにこだわる小磯首相は、「速に」の字句を削除しようとした原案には 独ソ和平締結に対する熱意が投影されていないとして反対を表明した。これ に対して外相は、「形勢ヲ無視セル議論ニハ俄ニ同意シ難シ」と応酬したう

えで、「蘇ニ対シテハ中立関係ヲ維持シ国交ノ好転ヲ図リ独蘇和平ノ実現ニ 務ムトノ趣旨ノ修正」を代案として提起したが、「速ニナル字句ノ残置ノ可 否」をめぐって両者の意見は纏まらず、結局「結論ニ達セズシテ散会」78)せ ざるを得ないありさまであった。つづく8月16日の最高戦争指導会議にお いてもなおこの字句修正の問題は尾を引いただけでなく、対ソ、対重慶工作 を含めて新に「工作ノ主体如何ノ点ニ付テ」の議論が発生し、「或ハ大東亜 大臣ナリト云ヒ或ハ本会議ニ於ケル協議ニ依ルベシト云フガ如ク意見区々 ニシテ結局協議ニ依ル建前ニ落着キタルモ真意ハ軍ニ於テ之ニ当ラントス ルモノナリヤノ印象」を残すことになった。

要するに、ここに表出した対立の要因は、ヨーロッパ戦線における独軍の 劣勢が無視できなくなるなかで対ソ宥和工作と対重慶和平工作を推進して 危機を乗り切ろうとする陸軍に対して、その見通しを楽観的と見なして制御 しようとする外務当局との外交政策の基本方針の差にあった。さらにこれら 重要事項の審議の過程において「原案ノ作成者ハ何者ナリヤトノ質疑ヲ外相 ヨリ提起シタルニ幹事ハ軍側ニ於テ単ナル参考迄ニ用意セルモノニテ外務 当局ハ関与シ居ラズト答ヘ」るなど険悪なムードが漂う一幕すらあり、両者 の根本的な確執の深さは掩うべくもなかった79)

こうした確執の克服をめざして開催された第一三回御前会議(8月19日開 催)では、前年1943年度に策定された「今後採ルベキ戦争指導ノ大綱」に 修正を加え、「昭和十九年末頃ヲ目処トスル情勢ノ推移ヲ観察シ、戦争指導 ノ方策確立」が目標とされた。ただその場での情勢判断や今後の見通しに関 しては、ヨーロッパ線戦における独逸の劣勢はもはや挽回が困難であるこ と、それとは対照的にソ連は「本年後期ニ於テハ失地ノ大部ヲ伭復スルノミ ナラズ更ニ西部波蘭並ニ東『プロシヤ』及洪牙利ノ一部ニ侵入スルト共ニ羅 馬及芬蘭ノ大部ヲモ掌握スル」可能性が否定できないこと、ゆえにソ連が対 独和平を締結する可能性は低いことなど旧来とは異なる情勢判断が含まれ ているほかは、爾後の方針について「帝国ハ欧州情勢ノ推移如何ニ拘ラズ決

ドキュメント内 近代日本の公権力と戦争「革命」構想 (ページ 88-159)

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