はじめに
この章の目標は、カントの実践哲学が彼の(自然の)目的論といかにして関わりうるのかを 明らかにすることである。しかし、そもそもこのことは明らかにすべき事柄であるのか、ある いは、論じるに値する事柄であるのか。というのは、カント自身が実践哲学の著作において、
つまり『基礎づけ』において「目的の国」という概念を提示し、彼の実践哲学が何らか目的論 的なものを含むゆえに、すでにこの章が下す結論についておおよその予想がつくであろうから である。理性的存在者である人間は目的の国においてはもちろんのこと、『判断力批判』にお いて示されたように自然においても目的だとし、そのことによって両者を関係させるのであろ うとの予想である。この予想は至極まっとうであり、カントの幾つかの論述をなぞるだけでこ の予想の正しさは明らかになるように見える。それゆえに、先に示したこの章の目標はほとん ど自明であるゆえに明らかにすべき事柄でもなく、論じるに値することでもないと思われるの である。従って、上に示した目標に向かってこの章が進行していくならば、この章はわかり きったことを延々と述べるか、そうでなければ、先の予想に反して進行していくかのどちらか である。そしてこの章はもちろん、後者でなければならない。
しかし、「目的の国」を背景とすることなしに、カントにおける実践哲学と自然の目的論と の関係を問題とするならば、それは問いとして漠然としすぎているであろう。普通に予想され る結論が否定されたとき、問題に対するアプローチの仕方がない、あるいは多すぎるように思 われるからである。そこでこの章では、先の目標において問われているのが何であるのかを明 確にしておくために、あらかじめ問いを立てておこうと思う。その問いに答えるのが、この章 の目指すところである。実践の主観は、認識の客観としては何であるのか、これがその問いで ある。
従って、この章において、カントにおける実践哲学と自然の目的論の関係を問うことは、実 践の主観(主体と呼びたければそれでもいい)が自然における認識の客観としては何であるの
かを問うことである。もちろんこれは、形而上学の魂論に範を取るような人間学的な問いでは ない。つまり例えば、実践の主観がもつと考えられる意志を経験の対象として考察することで はない。この問いの問題の根は「、
思、
考、
の、
主、
観Subjekt der Gedanken」(B 429)あるいは「思考
する主観 das denkende Subjekt」(B 430)の自己認識における現実存在の規定に求めることが
できる。カントは以下のように述べる。「私は思考するという命題は、それが、 私、
は、
思、
考、
し、
つ、
、 つ 現、
実、
存、
在、
す、
るich existiere denkendと同じことを述べている限り、単なる論理的機能ではなく、
主観(結局これは同時に客観である)を現実存在に関して規定するものであり、いつだって客 観を物自体としてではなく、単に現象として与える直観をもつ内的な感官なしには生じえない ものである」(B 429)。ここで思考の主観の現実存在は、経験的な感性的直観によって規定さ れている。それゆえこの限りにおいては、「私は思考するは経験的命題であり、私は現実存在 するという命題を自らのうちに含む」(B 422 Anm.)。しかしながらそれでも、「私は思考する という命題は経験的命題だと私が述べたとき、私はそのことによって、この命題中の私が経験 的表象だと述べたいわけではない。むしろその私の表象は純粋に叡智的なものであり、なぜな ら、それは思考一般に属するからである。」(B 423 Anm.)従って、思考の主観はそのものとし ては単に思考に属する叡智的なものであるが、客観としては、その現実存在は経験的に規定さ れたものである。この限りにおいて、叡智的なものは、叡智的なものとして現実存在を規定さ れることはない。それは現実存在としては感性的に規定されたものとなるからである。
このことが、実践哲学を主眼とするこの章の問題の根であると考えられる理由は、思考の主 観の現実存在についての議論の文脈における、カントの次のような意外な記述による。「しか し今後、経験においてではなく、純粋な理性使用のある種の(単なる論理的規則ではない)ア・
プリオリに確立され、われわれの現実存在に関わる諸法則において次のようなきっかけが見出 されると仮定してみよう。つまり、われわれ自身の、
現、
実、
存、
在に関して全くア・プリオリにわれ われを、
立、
法、
的であるとして、この現実存在さえも規定するものとして前提するきっかけが見出 されると仮定してみよう。するとそのことによってある自発性が発見されるであろうし、その 自発性によってわれわれの現実性は規定可能であり、そのためには経験的直観の条件は必要で はないであろう。」(B 430)論点は、感性的な経験的直観なしに、理性使用における何らかの規 定によって人間の現実存在が規定可能なことである。しかもその規定は自発的であり、自らの 現実存在を自らによって規定する。思考する主観の現実存在の規定についての問題は、感性的 な経験的直観を必要としない現実存在の規定の問題へと展開する。
ここでのカントの物言いはほのめかすようなものであるが、これは純粋実践理性についての 言及である。「私に道徳的法則の意識をまず第一に啓示するかの驚くべき能力によって私は確 かに私の現実存在の規定の原理をもつだろうし、この原理は純粋に叡智的である」(B 431)と 述べられるとき、それは明らかである。問題を整理する。人間は思考の主観としては、叡智的 なものとして規定された現実存在をもちえない。なぜなら、このとき現実存在の規定には直観 が必要であり、人間の直観は感性的だからである。一方、実践においては自発性の主観として
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の人間の現実存在は、経験的直観によって感性的に規定されたものではない。実践における人 間の現実存在は叡智的に規定されたものであり、その規定は純粋実践理性によるものである。
それゆえ、人間の単に叡智的に規定された現実存在が、純粋実践理性によって可能であること がここでは示唆されている。
これは少なくとも『実践理性批判』において引き継がれる問題である*1。その序文Vorrede には一見すると実践哲学とは無関係であるような記述がある。「思弁的批判の、争いえないの ではあるが奇妙な主張、つまり、、
思、
考、
す、
る、
主、
観、
で、
す、
ら、
も、
自、
身、
に、
と、
っ、
て、
は、
内、
的、
直、
観、
に、
お、
い、
て、
単、
、 な る、
現、
象、
で、
あ、
ることが実践理性批判においても完全に確証される」(V 6)。思考する主観の現実 存在の規定についての上の議論を念頭において初めて、『実践理性批判』においてなぜこのよ うな記述があるのかが理解されうるであろう。そして、この章で自然の目的論と関係させるこ とが目指されるカントの実践哲学は、この観点において見られた実践哲学である。つまり、人 間の現実存在を、単に感性的にではなく、叡智的に規定することに関わる実践哲学である。
従って、この章において明らかにされるべきは、実践哲学において叡智的に規定された現実 存在は自然との関係においてはいかなるものとして現実にありうるのかである。というのは、
実践哲学において現実存在を叡智的に規定することは、現実存在を「叡智的な(明らかにただ 思考されるのみである)世界との関係において規定する」(B 431)ことであり、認識の客観と しての自然との関係において規定することではないからである。それゆえに、人間の叡智的に 規定された現実存在が、経験の対象としての自然といかに関わるかを問わなければならないの である。ただし、叡智的に規定された現実存在の自然における現実性の可能性を問うときに、
感性的直観の条件に頼ってしまえば元の木阿弥である。それでも認識の客観としての自然にお ける現実性を問うのであれば、直観を問わなければならない。なぜなら、人間にとって認識と は概念(思考)と直観から成る以外には考えられないからである。それゆえ、少なくとも感性 的でない直観へと至るような現実性が自然において与えられるのか否かが問題である。従って この章において、カントの実践哲学と関係づけられることが目指されている自然の目的論は、
この観点から考察されることになる。先に立てておいた問い、つまり、実践の主観は認識の客 観としての自然との関係においては何であるのかの問いの概要はおおよそ以上の通りである。
この章では、叡智的に規定された現実存在の、自然における姿を問うのである。
それゆえまずは、『基礎づけ』における「目的自体」と「目的の国」についての議論が、少な くともこの章の課題にはそぐわないことを示す。さしあたり、この議論の実態を明らかにする
(1節)。次に、その実態を認識能力としての「純粋実践理性」から捉え直し、それがこの章の
*1 単なる外的な事情を鑑みるだけでも、上述の「思考する主観」についての議論と『実践理性批判』とが密接に 関係すると考えなければならない理由は十分にある。というのは、「思考する主観」についての上述の議論が展 開されているのは、『純粋理性批判』第2版(1787)の加筆修正部分においてであり、『実践理性批判』(1788)の 直前、あるいは同時期(出版に関して、両者の間には半年ほどの期間しかない)におけるカントの思考を反映 したものであるからである。