暦 明 和 の 大 坂 俳 壇 と 漁 焉
―
は じ め に 第
一 節 で
、 宝 暦 末 期 に 大 坂 俳 壇 の 宗 匠 が 相 次 い で 世 を 去 っ た の ち
、 明 和 年 間 の 秋 成 の 俳 諧 活 動 が 停 滞 し て い る こ と か ら
、 秋 成 の 文 事 に お け る 最 初 の 転 換 点 が 宝 暦 十 三 年 で あ る と 述 べ た
。 た だ
、 小 野 紹 廉 の 門 下 で 一 炊 庵 二 世 を 名 乗 っ た 木 田 几 掌 や
、 松 木 淡 々 門 下 の 布 門 の 子 で 五 流 斎 三 世 を 名 乗 っ た 女 媒 な ど
、 有 力 俳 人 の 門 下 は 明 和 期 以 降 も 俳 諧 活 動 を 続 け て い る
。 で は
、 秋 成 が 俳 諧 へ の 情 熱 を 再 び よ み が え ら せ る こ と が な か っ た の は 何 故 な の か
。 秋 成 の 俳 諧 活 動 に つ い て は
、 長 島 弘 明 氏 が そ の 経 歴 を 追 い
、 三 つ の 時 期 に 分 け て い る
。 第 一 期 が
、 宝 暦
・ 明 和 年 間 の 主 に 漁 焉 号 を 用 い て い た 青 年 時 代
、 第 二 期 は
、 安 永
・ 天 明 年 間 の 蕪 村 ら 夜 半 亭 一 門 と の 交 流 を 基 調 と す る 中 年 時 代
、 第 三 期 は 享 和
・ 文 化 年 間 の 京 都 で 趣 味 的 に 活 動 し て い た 晩 年 時 代 で あ る
( 1
)。 た だ
、 こ の 分 類 法 で は
、 明 和 期 に 俳 諧 か ら 距 離 を 置 い た 理 由 が 明 確 に な ら な い
。 ま た
、 こ れ ま で の 伝 記 研 究 で は
、 秋 成 の 文 業 が 発 展 す る き っ か け と し て
、 国 学 の 師 で あ
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る 加 藤 宇 万 伎 と の 出 会 い を 重 視 す る 立 場 が 大 半 で あ る
。 し か し な が ら
、 秋 成 が 加 藤 宇 万 伎 に 入 門 し て
、 国 学 を 本 格 的 に 志 す こ と に な っ た の は
、 近 年 の 研 究 成 果 に よ り
、 明 和 八 年 頃 と 考 え ら れ る
( 2
)。 そ れ 以 前 は
『 諸 道 聴 耳 世 間 猿
』 や
『 世 間 妾 形 気
』 な ど の 浮 世 草 子 の 創 作 に 手 を 染 め
、 読 本
『 雨 月 物 語
』 を 脱 稿 し て い る
。 し た が っ て
、 宇 万 伎 と の 出 会 い は 秋 成 の 半 生 に お い て 重 要 視 す べ き で は あ る も の の
、 明 和 初 年 に 文 業 の 転 換 点 が 訪 れ た 理 由 の 全 て と し て と ら え る こ と は で き な い の で あ る
。 そ こ で
、 こ の 文 事 の 転 機 は
、 当 時 の 京
・ 大 坂 俳 壇 の 動 向 と い か な る 関 連 性 を も つ の か
、 秋 成 俳 諧 に 関 わ り の 深 い 宗 匠 の 俳 歴 や 作 品 を 確 認 し な が ら 考 察 し て い く
。 ま た
、 そ の 転 機 は
、 秋 成 の 文 学 に お い て 具 体 的 に い か な る 意 義 を 持 つ も の な の か に つ い て も 言 及 し た い と 思 う
。 注
( 1
) 同 氏
「 秋 成 の 俳 歴
― 漁 焉 時 代 を 中 心 に
―
」〔 高 田 衛 編
『 共 同 研 究 秋 成 と そ の 時 代
( 論 集 近 世 文 学 5
)』
( 勉 誠 社
、 一 九 九 四 年
) 所 収
、 同 氏
『 秋 成 研 究
』( 東 京 大 学 出 版 会
、 二
〇
〇
〇 年
) 所 収
〕。
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( 2
) 根 来 尚 子
「 秋 成 の 宇 万 伎 入 門
―
『 文 反 古
』 所 収 書 簡 を め ぐ っ て
」(
『 上 方 文 藝 研 究
』 一
、 二
〇
〇 四 年 五 月
)。 一
、 大 坂 俳 壇 進 出 前 の 淡 々 宝
暦 期 の 大 坂 俳 壇 は
、 淡 々 率 い る 半 時 庵 門 と 紹 廉 率 い る 一 炊 庵 門 が 中 心 勢 力 と な っ て い た
。 こ の 両 俳 系 の 周 辺 に
、 巴 人 の 門 弟 で あ る 京 の 宗 屋 や 几 圭 が い た
。 秋 成 の 句 は
、 主 に 紹 廉 の 一 炊 庵 門
、 お よ び そ れ と 親 し く 交 流 し て い た 半 時 庵 門 等 の 俳 書 に 多 く 入 集 し て い た
( 3
)。 そ こ で
、 宝 暦 年 間 の 大 坂 俳 壇 を 形 成 し て い た 俳 人 た ち に つ い て
、そ の 俳 歴 を 確 認 す る
。 淡 々 に つ い て は
、 大 坂 の 商 家 出 身 で あ る こ と が 有 力 と さ れ て い る が
、 生 年 と と も に 詳 細 は 不 明 で あ る
。『 其 角 十 七 回
』〔 享 保 八 年
( 一 七 二 三
) 刊
〕 で は
、 元 禄 六 年
( 一 六 九 三
) 頃 に 芭 蕉 に 会 い 教 え を う け
、 呂 国 と い う 俳 号 を 得 た と 述 べ ら れ て い る
( 4
)。 し か し 櫻 井 武 次 郎 氏 に よ る と
、 そ れ は 芭 蕉 を 敬 慕 す る 淡 々 の
「 芭 蕉 直 門 を 称 す る 人 た ち へ の コ ン プ レ ッ ク ス を 表 出 し た も の
」 で あ っ た
( 5
)。 実 際 は
、 元 禄 十 三 年
( 一 七
〇
〇
) に 因 角 と い う 俳 号 を
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用 い て
、 当 時 大 坂 の 俳 人 で あ っ た 祇 空
( こ の 当 時 青 流
) や 轍 士 ら と
『 菊 の 賀 集
』( 仮 題
) で 三 吟 を 詠 ん で い る
。 ま た
、 大 坂 の 談 林 系 俳 人 轍 士 が 匿 名 で 京
・ 江 戸
・ 大 坂 の 三 都 お よ び 諸 国 の 宗 匠
・ 点 者 を 遊 女 に 見 立 て て 論 評 し た
『 花 見 車
』( 元 禄 十 五 年
( 一 七
〇 二
) 三 月 成 立
) で は
、「 渭 北
」 と い う 俳 号 で 紹 介 さ れ て い る
。 著 者 轍 士 は
「 諸 事 き や う な 子
」 で あ る 淡 々 を
「 酒 も の み な ら は せ た し
」 な ど と 好 意 的 に と ら え
、「 春 た つ や は ゝ 鳥 の 羽 の 色 み ど り
」と い う 句 を 挙 げ て い る
( 6
)。 こ の よ う に
、 元 禄 末 頃 ま で 大 坂 俳 壇 の 親 し い 仲 間 内 で 俳 諧 を 楽 し ん で い た 様 子 が う か が え る
。 東 下 は 早 く と も 元 禄 十 三 年 以 後 で
、 渭 北 と い う 俳 号 で 其 角 門 と し て 活 動 す る が
、 目 立 っ た 業 績 は な か っ た
。 し か し 宝 永 元 年
( 一 七
〇 四
) 七 月 に 芭 蕉 の 足 跡 を た ど る 奥 羽 行 脚 を 行 っ た こ と が 転 機 と な っ た
。 こ の 旅 の 動 機 と し て
、 芭 蕉 へ の 敬 意 は 勿 論 あ っ た と 思 わ れ る が
、 蕉 門 の 俳 諧 師 と し て 独 り 立 ち し た い
、 そ の た め の 宣 伝 材 料 が 欲 し い と い う 計 算 も 働 い て い た で あ ろ う
。 現 に
、 行 脚 の 後 に
『 安 達 太 郎 根
』( 宝 永 二 年 以 降 刊
) と い う 処 女 撰 集 を 出 版 し て い る
( 7
)。 こ の 俳 書 の 巻 頭 で は
、『 お く の ほ そ 道
』 の 文 章 が 長 々 と 引 用 さ れ て お り
、 淡 々 の 芭 蕉 に 対 す る 追 慕 の 念 が 強 調 さ れ て い る
。 そ の 後
、 宝 永 三 年 に 立 机 し
、 翌 四 年
( 一 七
〇 七
) の 其 角 没 後 は 淡 々 と 改 名 し て
、 宝 永 五 年
( 一 七
〇 八
) 冬
、 京 へ と 上 る
。 上 京 の 理 由 と し て
、 先 行 研 究 で は
、 其 角 の 死 や
、 俳 諧 以 外 に 原 因 を 求 め
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る も の な ど
、 様 々 な 説 が 出 さ れ て い る
。 た だ
、 淡 々 以 前 か ら
、 特 定 の 俳 人 に 限 ら ず
、 京
・ 大 坂 と 江 戸 の 俳 人 と の 間 の 交 流 は 盛 ん で あ り
、 淡 々 の 場 合 も 京 俳 壇 の 需 要 に 応 え て の も の で あ っ た の で は な い か と 考 え ら れ る
。 淡 々 が 江 戸 に 居 住 し て い た 頃
、 其 角 門 を 中 心 と す る 遊 戯 性 を 前 面 に 押 し 出 し た 難 解 な 洒 落 風 が 流 行 し た
。 淡 々 自 身 は
、 芭 蕉 に 対 す る 敬 愛 の 情 が 深 く
、 其 角 系 蕉 門 で あ る こ と を 自 負 し て い た
。 し か し な が ら そ の 俳 諧 は
、 江 戸 の 洒 落 風 に 独 自 の 要 素 を 加 え 発 展 さ せ て い っ た 結 果
、 芭 蕉 の 理 想 と す る 俳 風 と は 対 照 的 な も の と な っ た
。 後 に 大 坂 に 移 住 し て か ら は 雑 俳 系 の 俳 諧 に 近 く な っ て い た 位 で あ る
。 た だ 淡 々 は じ め 門 下 の 俳 人 は
、 雑 俳 と 自 分 た ち は 違 う と 強 調 し て い る( 8
)。 元 禄 末 の 京 俳 壇 で は
、 そ の 江 戸 に お け る 洒 落 風 の 隆 盛 に 注 目 が 集 ま っ て い た
。 先 述 し た 大 坂 の 俳 人 轍 士 に よ る 三 都 の 俳 人 を 論 じ た 書
『 花 見 車
』 で は
、「 前 句 に あ ら は に な じ む 事 を さ け て
、 一 句 の 曲 あ る や う に 成 た る は 六 か し き 風 躰 な り
」 と
、 難 解 な 洒 落 風 の 特 徴 で あ っ た 句 の 趣 向 を 重 ん じ る 一 句 立 て に つ い て 批 判 し て い る
。 し か し 一 方 で 同 書 は
、 江 戸 で は
「 毎 日
・ 毎 夜
、 会 合 し て 点 と り を は げ む
」 と し
、「 国 〳 〵 の 点 師 も み な 江 戸 の 風 俗 を う か ゞ ひ て
」 と 述 べ る な ど
、 江 戸 の 俳 諧 の 優 位 性 を 認 め て い た
。 以 上 の こ と に よ り
、 京 で の
、 江 戸 に 学 ぼ う と す る 機 運 が 急 速 に 高 ま っ た こ と が
、 淡 々 の 上 京 を 促 し
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た 面 は あ っ た と 考 え ら れ る
。 た だ
、上 京 後 す ぐ に 活 躍 で き た わ け で は な い
。 京 都 移 住 の 翌 年 で あ る 宝 永 六 年( 一 七
〇 九
) に は 移 住 記 念 と し て 俳 諧 撰 集
『 俳 諧 磔 山
』( 原 題 不 明
) を 刊 行 す る ほ か
、 幾 つ か の 俳 書 に 名 が 見 え る
。 し か し
、 そ の 後 は 正 徳 元 年
( 一 七 一 一
) に
『 十 歌 仙
』 を
、 翌 二 年 に
『 五 歌 僊
』 を 刊 行 す る ほ か は
、 目 立 っ た 活 動 は な い
。 ま た
『 十 歌 仙
』 は
、 京 で は な く
、 江 戸 で 旧 友 の 祇 空
( 元 青 流
) ら と 行 っ た 俳 諧 興 行 を 記 録 し た 俳 書 で あ る
。 こ の こ と に つ い て
、 櫻 井 氏 は
、 淡 々 が
「 京 の 俳 壇 に 対 し
、 当 時
、 進 出 し て い こ う と い う 野 心 の な か っ た こ と を 示 し て は い な い だ ろ う か
」 と 述 べ て お ら れ る
( 9
)。 確 か に
、 京 で は 伝 統 的 に 貞 門 が 勢 力 を 持 っ て い た
。 こ れ が 影 響 し て
、 入 京 当 時
、 俳 壇 で 孤 立 し て い た と い う こ と も 考 え ら れ る で あ ろ う
。 し か し
、 淡 々 は 俳 諧 か ら 離 れ ず
、 江 戸 に ル ー ツ を も つ 俳 人 仲 間 達 に 救 い を 求 め た
。 深 沢 了 子 氏 は
、 宝 永 六 年 刊 の
『 俳 諧 磔 山
』 か ら 正 徳 五 年 刊 の
『 六 芸
』『 十 友 館
』 ま で の 淡 々 の 俳 書 に お け る 京 俳 人 の 入 集 の 状 況 を ま と め ら れ て い る
。 そ れ に よ る と
、 か つ て 其 角 の 許 で 親 し く し て い た 沾 徳 門 の 仙 鶴 や 嵐 雪 門 の 氷 花 ら
、 先 に 江 戸 か ら 京 に 上 っ て い た 俳 人 達 の 句 が
、『 磔 山
』 に 多 く 入 集 し て お り
、 入 京 当 時 の 淡 々 と 積 極 的 に 交 友 し て い た 様 子 が う か が え る と の こ と で あ る
。 仙 鶴 ら と の 親 交 は 以 後 も 続 く が
、 正 徳 二 年 の
『 十 歌 仙
』 頃 か ら 仙 鶴 を
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通 じ て 貞 門 の 有 力 俳 人 や 談 林 派 の 団 水 系 の 俳 人 と も 交 流 を も つ よ う に な る
。 そ し て 正 徳 五 年 刊 の『 六 芸
』で は
、先 に 述 べ た 俳 系 に 加 え て
、京 の 主 要 な 門 派 の 人 々 か ら 初 心 の 人 ま で
、 さ ま ざ ま な 俳 人 の 句 の 入 集 が 確 認 さ れ る こ と と な る
( 10
)。 こ う し て
、 淡 々 は 江 戸 俳 壇 の コ ネ ク シ ョ ン を 巧 み に 使 い な が ら
、 京 俳 壇 で の 活 動 の 足 場 を 築 く
。 以 後 は 先 行 研 究 で 指 摘 さ れ て い る 通 り
、 享 保 期 の 上 方 俳 壇 に お い て 順 調 な 活 動 を 見 せ る
。 享 保 元 年
( 一 七 一 六
) に 半 時 庵 を 結 ん だ の ち
、 享 保 二 年
( 一 七 一 七
) 刊 の
『 に は く な ぶ り
』( 11
) で は 雑 恋 の 百 韻 一 巻 と 文 章 六 篇 を 載 せ
、 百 丸 と 仙 鶴 の 序
、 お よ び 自 序 と と も に
、 祇 空
・ 水 色
・ 珍 舎
・ 里 友 の 跋 文 を 収 め た
。 百 丸 は 伊 丹 の 俳 人 で
、 上 島 鬼 貫 と 親 し い 関 係 に あ っ た
。 二 年 後 の 享 保 四 年
( 一 七 一 九
) に は 淡 々 門 の 大 圭 と 李 賦 が 編 集 し た
『 花 月 六 百 韻
』( 12
) が 刊 行 さ れ る
。 大 圭 は 元 貞 門 俳 人 で あ っ た
。 こ の 書 に は 俳 友 の 敬 雨
( 祇 空
) と 百 丸 が 序 を 寄 せ て お り
、 仙 鶴
・ 雲 鼓 と い っ た 他 門 の 俳 人 が 句 を 寄 せ
、 淡 々 の 京 俳 壇 で の 勢 力 を 示 す 作 品 と な っ て い る
。 さ ら に
、 享 保 八 年
( 一 七 二 三
) に は
、 其 角 追 善 集 と し て
、 淡 々 自 ら が 全 三 冊 の
『 其 角 十 七 回
』( 13
) を 編 集 し 刊 行 し た
。 上 巻 冒 頭 に は 其 角 の 自 筆 年 譜 を 掲 げ
、 其 角 の 業 績 を 顕 彰 し
、 自 派 の 権 威 を 確 立 し よ う と す る 淡 々 の 意 図 が 見 ら れ る
。 年 譜 に つ づ い て
『 雑 談 集
』 に