賃金等級制の機能は何か
萩 原 それでは第Ⅰ部の紡績はそのくらいにして,第Ⅱ部の「定期昇 給制の出現」に入りたいと思います。
賃金の決めかたや賃金構造は,労働者の技能養成に深く関係しています。
人はなんらかの物質的なインセンティブがなければ,自分の技能を高めよ うとはしないでしょう。だから熟練の形成には,熟練形成を促進するよう な昇給システムが必要不可欠である。技能促進的な賃金の支払い方法を採 用しているかどうかは,企業にとっても労働者にとっても重要なことです。
そういうことでいつごろから日本では,技能形成を促進するような,熟 練形成を刺激するような賃金の払い方を取るようになったのか。
小 池 これはインセンティブという意識はあまりなかったんです。僕 の場合は,技能がある時期まで上がっていくタイプかどうかは,何でたし かめたらいいか。そうすると,インセンティブというよりも,技能の高い 労働者を企業は保持しておきたいから,そのためには多少の定期昇給,賃 上げをするだろうというだけのことです。あまりインセンティブという考 えは,これにはなかった。でも,そのように見るべきかもしれません。
萩 原 丹生谷さんの『わが国賃金構造の史的考察』に収録されている 論文に,賃金等級制と技能形成を結びつける議論が出てきます。技能に刺 激的な賃金とかいう表現で。
小 池 はい。「技倆刺激的」というんですね。
萩 原 急速に工業化していく明治期の労働市場を考えると,労働者の 自発的な企業間移動(ターンオーバー)や企業間の引き抜きが非常にはげ しかった。企業は,労働者を定着させるために,1年でも長くいたら賃金 を上げてやるぞといった対応をせざるをえなかった。賃金等級制は,技能 形成よりも定着のためのインセンティブだったのではないでしょうか。
小 池 ただそれにしては,定期昇給の上昇率が高いんですよ。だから,
それだけでは無理ではないでしょうか。僕の場合の比較基準というのは,
結局,Bowleyのsemi‐skilledの上昇率ですが,それをはるかに超えている のだから,たぶん技能も上がるというのでなければ,経営者の採算には合 わないのではないかと思った。
単に足止めだけだったら,そんなに上げないのではないか。せいぜい2 割か3割だろうという気はあります。
萩 原 そうですね。1年で50%,あるいは倍くらい賃金が上がったり するんですね。
小 池 それから初期はセレクティブで,定昇は一部の人ですからね。
つまりそうすると,もし足止めだったら,もっとたくさんの人に払っても いいと思うんだけれども,一部の人にするということは,一部の技能を向 上させた人に払うという意味があると思います。そうは本に書いていない んですけれども。
猪 木 推論のしかた,先ほど探偵小説という話が出ましたが,どこが 一人前になっているグループなのかということをアイデンティファイする ときに,例えば5年たって,そこの賃金の幅のところにかなりの数の人が 張り付いている。分布を見ると,どうもその人たちが一生懸命やらないと,
技能を上げないと品質は高くならないはずだと,そういう議論ですよね。
小 池 よく言えば(笑)。
猪 木 B方式というのが,一人前になった人が,査定の入ったという か,定昇の入ったもので,そのあいだを評価を受けつつ上がっていく。そ うしないと励みというか技能の向上もないはずだというので,このグルー プが一人前のグループだというのをアイデンティファイするやり方に関し て,どのような苦労というか,迷いがあったのかというのを,ちょっとお 話ください。
小 池 一番困ったのは,年齢,勤続別のデータはないんです。人数の 分布だけだった。
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猪 木 要するに,賃金の分布と人数の分布?
小 池 賃金額別に何人いるか,それしかない。年齢と勤続別ではない んです。そうすると,わりと集中しているところを一人前。そこからさら に上にいるパーセントが,1900年頃のBowleyのイギリスのskilledでも,1 割くらい高い人が15%くらいいるんですよね。それを超えているかどうか で推理している。基準はあくまでもイギリス。
猪 木 私がそこまで引っ張っていいかなとふと疑問に思った点は,江 戸時代の大工の賃金の話をされて,どなたの本でしたかね。
小 池 長崎造船所を研究した中西の本?
猪 木 その辺くらいから,定昇への準備はできているんだと,ブルー カラーに関してね。それは中西論文ですか。
小 池 いえいえ,今の猪木さんのは『横須賀海軍船廠史』です。要す るに中西の分析までは,江戸時代の大工なみの賃金だった。定昇はない。
ただし個人別のキャリアにわたる賃金というのは,3人しか分からないん です。
『横須賀海軍船廠史』は個人別の賃金データはまったくないわけです。賃 金の規則しかない。ただ,その規則から見ていくと,1890年代の終わりに は,一部の人に出たらしいんじゃないかという推測だけです。
猪 木 その範囲を確定して,そういう一人前になったグループがかな りのパーセントいると。
小 池 はい。
猪 木 つまり全員一斉ではない。そのグループに関して,どうも定昇 のアイデアが入っているようだというのが,明治までさかのぼれると。
小 池 そうです。大勢に広がるのは,何年でしたか。何とか飛行機メ ーカーの実例しか分からない。驚くほど,人員分布まで書いたデータはな いんです。やはり一番いいのは繊維の鐘紡。それはもちろん稿本,手書き ですから。「日本労働運動史料」しかないんです。
萩 原 Bowleyの賃金統計では,メカニック(mechanics)とマシニス
ト(machinist)を明白に区別していますね。
小 池 それは非常によくできている論文です。イギリスの労働者とい うのは,当時は3種類しかないわけです。skilledというのは機械産業の場 合はMechanicsというのが一番普通だと思います。Machinistは半熟練工で す。そういう言葉の使い方は日本の多くの研究者はあやしい。その次は semi‐skilledで,その代表がMachinistです。それからLabourer,その3種 類だけだと思う。
1例では危ないんだけれども,僕はそれ以上は,ちょっと分からなかっ たですね。
萩 原 紡績工の賃金はどうですか。精紡工(spinner),糸継工(piecer),
撚糸工(twister)などのジョッブ・クラスターがあったようですが。
小 池 Spinnerは,そこにたしか表は本に出していないけれども,注で 書いているように,1820年代のマンチェスター地区の賃率表はあるんで す。それはCohenというアメリカの学者が載せているのかな。それは地区 で単一,つまり主に番手で決まるのですが,番手で1ポンドだったか,1 かせだったか量は忘れたけれども,それができるといくら払う。その賃率 は単一でした。
萩 原 紡績工場の作業組織と労使関係について,英米を比較したI.
Cohenの研究(American Management and British Labor)ですね。
小 池 そうです。僕はそれは非常に不思議に思うんです。というのは,
出来高払いでも買い取り側が品質について見る目がある。あるいは品質に よって賃率を変えればいいんです。ところが,イギリスの少なくともCohen の限りでは,綿紡はマンチェスターが中心ですから,そのマンチェスター 地区のプライスリストは完全単一なんですよ。そうすると,結果的に品質 無視だと思います。
これは非常に危ないと思っているのですが,Cohenとかアメリカの人は,
イギリスのSpinnerの製品の品質について争いや議論があったということ は,ひと言も書いていない。それは不思議でしようがない。
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つまり日本だったら,例えばたんす職人やなんかというのは,いいたん すだったら高く払うでしょう。そういうのがないんです。だから,怪しく てしようがない。不思議ですね。
公 文 例えば135ページの英機械工,これは非常にすっきりとしたイ ギリスの典型的な熟練工のパターンですが,紡績業の場合,前から先生が よくおっしゃっているように,一番の熟練工にあたるところは,実は熟練 工ではなくて,そういうトレーニングを経て熟練工になるような紡績工で はないわけですね。
その下のほうになると,さらにsemiなのか,Labourerにあたるのか,分 からないですよね。
小 池 それは僕が直接調べたわけではなくて,一番丁寧にやったのは Lazonickで,その次はCohenです。両方一致するのですが,特にLazonick によれば,Spinnerというのはapprenticeshipを経たものではない。そうい う意味ではskilledではないんです。だけど,それ以外の意味では全部skilled です。第一,彼しか組合に入れない。
では,誰がSpinnerになれるかというと,自分が女,子どもを使っている わけです。1人が4,5人使うんです。その4,5人の中にランクがあっ て,第1がbig piecerというんですね。そのbig piecerの中から上げていく。
上げるのを指名するのは会社ではなくて,Spinnerです。その人の雇用や賃 金は全部Spinnerが払うわけです。
アメリカはそうではなくて,一人ひとりに会社が払う。本当の間接雇用 は英国の紡績のようなもので,日本は明治のときに間接雇用であるはずが ないです。ボスの下にいる部下には,やはり会社が賃金を払っていますか らね。その点,多くの研究者が間違っているのではないかと思うんですね。
萩 原 マンチェスターに本部を置く繊維(テキスタイル)の労働組合 は,僕はびっくりしたのですが,組織人員が少ないですね。全国組合であ りながら組織人員は17万人程度です。むかしの全繊同盟の綿紡部会よりも はるかに小さい。