吉 用 宣 二
1. 始まる
ノーテボームが冒頭や末尾に置くモットーは,その作品の種子,想像力の誘因であろう。
だが,この小説の中で,「主人公」である「作家」が物語の萌芽を思いつくのは,偶然である。
「作家」は「別の作家」と,作家の仕事は現実に基づいているのか,それとも虚構化である のかといった議論をしている。「作家」は偶然ホールで見た軍人の肩章から「陸軍大佐と医師」
の人物をその会話の際に「発明した」。
「別の作家が尋ねた,〈君は実際に存在している人物にしたがって作業するのか〉。〈彼らは,
君が彼らを発明したその瞬間から存在している〉と少しも確信がなかったその作家は答えた」
(S. 547)。
「肩章と聴診器」は物語の種子となる。だがそれで物語がひとりでに育つのではない。そ の「作家」はスランプにある。「仕事部屋に一人で坐っている作家には言うに言われぬ悲し げなものがある。遅かれ早かれ彼らの人生には,彼らが自分の仕事を疑う瞬間が来るものだ」
(S. 549)。その仕事人生上の反省は,「考え出されたものは実際に現存しているものに接木 されなければならないか」(S. 549)という創作上の問題と重なっている。「作家」は物語を 創ることを疑う。それでも「作家」は最初の文を書く。「〈大佐は医師の妻に恋をした〉。こ の文の絶対的な陳腐さが彼に吐き気を催させた」(S. 549) 。
そうして物語は自動的に展開していくのだろうか。物語の自動的な展開も現実に由来する 概念ではないのか。「彼らによって書かれた物語が現実の何かを明瞭にするだろうと主張す る作家がいた。しかしこの明瞭さというのは読者の現実の一部にすぎないだろう。そして読 者とは物語の潜在的な対象以外の何であろうか」(S. 550) 。
すべてが物語に回収される。「作家」はその中で彼が生きる必要のない現実,それに対し て彼がすべての権力を持っている現実を考え出している。「作家」の反省が続く一方で,そ の現実に存在しない医師の外見が描写される。
「医者は青ざめていて,繊細だった。冷たいいくらか突き出た眼。〈…〉この顔全体におい
てもっとも男性的だったものは,頭部からあふれ出るように見え,ひとつの髭の原因となっ ている髪の毛であった。そしてその髭はひょっとしたら一日に二度飼いならされなければな らず,にもかかわらず青みがかった輝きとして肌の白さの下に見られるのである」。〈…〉「ス ケート靴によってまだ触れられていないところの氷の下の水のように,明るいものの下の暗 いもの」(S. 550)と「作家」は書く。そして疑問符を置き,すべてを削除する。「何か他の ことが作家の関心を引く。ある内的な,何によっても真実であることを証明されない観念の 中から存在していない人間の肉体を描写するという,一種の権力があるとすれば,この存在 していない人物に名前を与えることは,権力の頂点だろう。〈シュテファン,シュテファン〉
と大佐は言った,そして医師の胸を人差し指でつついた。〈シュテファン,私は誓うよ,こ れは終わりだ〉と」(S. 550f.)。
物語,つまり一つの虚構の現実を創るとはどういうことか,それは可能なのか,その虚構 は現実とどう違うのか。この悪循環の中に囚われていながら,「作家」は,行ったこともな いブルガリアの,100年前の物語を書いている。登場人物の顔を描写し,名前を与える。名 付けることは,一人の人間を「創造」することである。
作家が小説を書くのは,きわめて日常的な作業だが,虚構の物語を創るのは,一つの神秘 である。形而下から形而上への跳躍がある。その神秘的な跳躍は具体的には,次のように描 写される。
「何が終りだというのだと作家は考え,軽い吐き気がこみあげるのを感じた。彼は二週間 前にタバコをやめていた,そして大佐が医師の胸に当て,ほじくるようにした指はニコチン で黄色くなっていた。それは短くて幅の広い指で,大佐をとてもよく性格づけていた。とい うのは肩章がいま聴診器の上で漂っていたにしても,大佐は実際には医師よりも小さく見え たから」(S. 552)。
すでに『儀式』において見てきたように,ノーテボームは形而上学的な思索を小説の形式 の中に有機的に統合するのが実に巧みである。仮象と存在(虚構と現実)の弁証法が考察さ れているにしても,それは小説の形式の中に組み入れられている。物語が進むにつれて,大 佐と医師の物語と,その物語を書いている「作家」と「別の作家」の物語がおおよそ交互に 展開していくのだが,その異質な言説が語りの齟齬を感じさせない。物語の存在論的な考察 が具体的に,現実の出来事の経過の中で語られている。それがこの小説のテーマである。審 級の異なる二つの言説の対比が小気味よいテンポを形成する。
「作家は,何かを聞くことなしに,あるいは彼が聞いているものを知覚することなしに外 で窓ガラスをたたいている雨に耳を傾けた,それから書いた,〈ショーペンハウアーの崇拝 者であることがどのようにある人から読み取れようか〉。〈…〉作家は疑った。彼が,大佐は
東北学院大学教養学部論集 第161号
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ショーペンハウアーを愛していると決めたのは十分に権威的だ,さらに,それが外見から読 み取れるなんて」(S. 552)。
「作家」は本棚へ行き,ショーペンハウアーの本を取り出し,一時間ほど読む。「この一時 のうちに大佐は,リュベン・ゲオルギエフLjuben Georgiew,君主制主義者,騒音の敵対者,
自称シニック,そして独身者となった。しかしそれはもちろん前からそうだったのだ」
(S. 553)。
そして物語の中。大佐は去り,フィチェフFiˇcew医師は一人になる。「医師はため息をつ いた,そのとき彼は鏡を見ている自分を取り押さえた。鏡の中のため息をついている男。ブ ルガリアに興味を持っていない,ロシア人を憎んでいて,すぐにでも軍隊とソフィアを離れ たいと思う男。しかしどこへ。彼の前の鏡の中の男のように見える男が行くことが出来た唯 一の国はイタリアだった。光と宮殿,太陽にあふれる,大きな広場のヴィジョンと共に,彼 は外の雨の中に出た。しかしゲオルギエフ大佐についての考えは,彼を離さなかった。なぜ この男,トルコとの戦争の英雄であるこの男,76年の蜂起で重要な役割を演じたこの男,
あらゆる点で彼の反対であるこの男は最近ますます頻繁に彼を訪れてくるのだろうか。そし てなぜ彼がそれを許すのか,彼にとって謎であった」(S. 554)。
「この幅の広い,あまりにもブラガリア的な顔の中から銃身のように人に向けられている,
刺すような決してそらすことのない黒い眼,まるで誰もが部下であるかのように,とぎれと ぎれの無愛想な話し方,そして同時に奇妙な弱さ」(S. 555)。
二人の主要な人物,医師と大佐の姿がこのように導入される。「作家」の次元から,その「作 家」の書いている物語の中への移行,そしてその物語への導入が自然で,巧みに語られてい る。そして彼らの中にブルガリアの知識人の典型が見て取れると思う。ブルガリアの大地に 根付いた軍人と,祖国を嫌い外国(イタリア)に憧れる医師=知識人 ─ それは明治期以 降の日本の知識人の典型的な図式である。短い文章の中に多くが濃縮されて語られている。
舞台はブルガリアである。「作家」はブルガリアに行ったことがない。全く知らない国の,
100年前の医師と軍人の物語を書く。この疎遠さが物語の「虚構」性を際だたせる。作家は ブルガリアについてこう書く。
「以前のバルカン半島の絶望的な魔女の釜については,幾人かの切手収集家の例外を除い て誰もが何か知っているわけではなかった。ボスニア,セルビア〈…〉,このあちこちと踊 る国境,この地図の上を迷っている色〈…〉。どの国境も無益に忘れられた血で浸されて。
歴史の結合組織,それが実際に起こったこと,どのような理由からなのかを人が想像できな い苦悩。彼が書いている物語においてひょっとしたら唯一意味があるのは,次のことだった,
つまり,少なくとも彼はそれに取り組んでいるということである。たとえ彼がその百分の一
も利用しないとしても。〈…〉忘れられた大虐殺,歴史の結合組織,人が,それが実際にな にかある理由から起こったということをもう想像することができない,そのような苦悩。彼 は思った,苦悩は固有の特別な重さを持たねばならないだろう。なにかの存在している鉱石 のように眼に見えるものでなければならないだろう。その中で苦悩,血,傷,病気,屈辱が 書き留められる,変わることのない通貨,戦場や処刑場,牢獄や野戦病院に残るであろう通 貨,つねにいたるところで同じ事を意味するであろう記念碑」(S. 556)。
この小説は1981年に現れた。旧ユースラビアで「魔女の釜」が煮えたち,大虐殺が起こ るのは90年代のことである。フィクションの場として想定されたブルガリアだが,バルカ ンの歴史を捉えていて,予言的な言葉である。「現実と虚構」は交錯する。
大学図書館でブルガリアについて調べていた「作家」は「別の作家」に会う。その「別の 作家」は模範的に秩序付けられた人生を送っている。毎年小説の出版,国際的な評価。「作 家を一番魅了し,すこし羨ましくさせたのは,その別の作家にとって書くことが楽しいよう に見えることであった」(S. 557)。
この「別の作家」は「作家」に対して,大佐が医師に対するような関係にある。医師と大 佐が100年前のブルガリアにおける精神状況の対照であるとすれば,「作家」と「別の作家」
は,同じ事柄,虚構としての文学を別の側から照らし出す光源となっている。
人物造形は,単純化するとリアリティを失う。物語は虚構だが,実在するかのような仮象 を求める。英雄的な軍人である大佐は,戦争の悲惨に苦しんでいる。彼は,ロシア人の士官 と一緒に,二つの凍結した死体を巡る豚と犬の戦いを眺めたことがあった。「豚の喉を鳴ら す音が夜に大佐を追跡し,彼自身を豚のように叫ばせながら目覚めさせた。そのとき外は暗 かった。ブルガリアの夜の黒い平坦な塊が土地の上に重くのしかかっていた。一方彼の夢の イメージは不自然にどぎつい日中の光のときに演じられるものの明晰さをもっていた」
(S. 559)。
軍人はかなり類型的な人物だが,ここではトラウマに苦しむ,柔らかい魂の持主である。
一方,医師にとって「ブルガリアは野蛮である,バルカンは地獄である。愚かな無意味な戦 争の血で煮えているヤカン」(S. 561)である。そのシニシズムが,戦争の恐ろしさが医師 に触れないようにしている。その医師に大佐は告白する。「私は毎晩,悪夢を…」(S. 562)。
大佐の告白は,長いためらいと大きな克服の結果されたものである。大佐と医師の人物造形 が対比的に,類型と離反するかたちでなされた後で,大佐は医師に告白するのだ。「その時 私は見る…」(S. 562)。
そして「作家」の次元の物語に移行するのだが,それは大佐がちょうど言い始めた文を巡っ て展開される。