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大江健三郎の想像力――想像力の機能としての隠喩とアレゴリー

ドキュメント内 総ページ数:223 頁 総文字数:263,676 字 (ページ 138-200)

前章までを通して、メディア、「疑似私小説」と「おかしな二人組ス ウ ー ド ・ カ ッ プ ル

」、そして書き直しの 観点から大江の小説についての分析を行ってきた。その際、それらに共通している主題と して「生まれ替わり」という主題が見いだせるとし、それを古義人に近しい人たちである アカリや吾良にかかわる側面と、古義人の父にかかわる側面(あるいは、くり返し描かれ る自殺と強姦の側面)とのふたつの視点から分析してきた。『さようなら、私の本よ!』、『水 死』、『晩年様式集』のそれぞれの作品において、この両方の側面を見出すことができた。

特に、三章における『水死』、『晩年様式集』の分析において、この「生まれ替わり」のふ たつの側面は、アカリの生(あるいはウナイコの性)と密接にかかわるかたちで展開され ていた。すなわち、アカリとウナイコの生(性)は外的な書き直しという暴力によって危 機的な状況にあると描かれているのだが、同時に、その危機を乗りこえることを示唆する ものも描かれている。三章で指摘したのは、「森のフシギ」という、『同時代ゲーム』と『M

/Tと森のフシギの物語』に登場する、それぞれ異なってはいるが、しかし似たところもあ る形象に、外的な書き直しの暴力に対立する、「生まれ替わり」の可能性を見ることができ るということだった。それは、エラボレーション(書き直し)に見ることのできる関係と 同一の、一のなかに全があるという「森のフシギ」のしくみだった。そこで、「森のフシギ」

を書き直しの隠喩として見ることができると述べた。

何かが何かの隠喩であるという関係は、大江の小説のなかにしばしば見出されるもので ある。いくつか確認すれば『水死』において父親がいる水底は「淼々」と「森々」の意味 が重ね合わされた状態で形容されている。古義人は、大黄とこのふたつの漢字について話 した後、次のように父の姿を思い描いている。

いま私の頭に浮かぶのは、広い海でなく大水の川底で波に転がされ、すぐにも渦巻に まき込まれようとしている父親だ。森の奥に入って行く運動感と、水に引き込まれて 行く受身の感覚、その二つを一緒に経験している父親。森々とであり、淼々とである ような……もう一つの世界をあはれ、、、

にも信じている父親……339

このように漢字の重ね合わせが、小説の最後での、雨の降る森で縊死する大黄の姿を用 意しているのである。また、『万延元年のフットボール』において、「この夏の終りに僕の 友人は朱色の塗料で頭と顔をぬりつぶし、素裸で肛門に胡瓜をさしこみ、縊死したのであ る」といわれる340、友人の死体は――物語の筋の展開においては必ずしも必要とは思われ

339 『水死』、286‐287頁。

340 『大江健三郎小説3』、11頁 この「友人」が縊死にいたった理由は明言されず、小説全体 においてそれが解明されることもなく、ただ「暴力的なるもの」におしひしがれた人物として描

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ないにもかかわらず――、本作を貫く「暴力」の力をその一身にこうむり、その力の脅威 とそれがもたらす狂気を暗示した存在となっている。主人公のひとりである鷹四は次のよ うに兄、蜜三郎に話している。鷹四は、さらに上の兄である、朝鮮人部落の住人との抗争 で死んでしまった S 兄さんの死体を、蜜三郎が運んでくるところを土間で「アメ」をなめ ながら見ていた。そのとき鷹四は、「アメ」をなめることにまつわる「おまじない、、、、、

」を考案 したという。

死体も狂気も、もっとも端的な暴力だ。だから、おれはアメを細心になめることによ って、傷口が盛りあがる肉に埋め込まれるような具合に、自分の意識が肉の中にもぐ りこんでしまい、外部の暴力的なるものにすっかり背を向けてしまえるよう希望して いたんだよ。そしておまじない、、、、、

を考案したんだ。おまじない、、、、、

がうまくゆけば、すなわ ちおれがアメの溶けてまじった唾をひとしずくもこぼさなければ、おれはすぐまぢか をうろついている恐ろしい暴力からついに逃れることができると信じたんだ。341

そしてこの後にすぐつづけて鷹四がいう、先祖と暴力的なものとの関係についての実感 は、かれが本作においてどれほど暴力的なるものを恐れ、しかしそれに魅了されていたか をほのめかすものである。鷹四は次のようにつづけている。

単純な話だが、おれは暴力的なるものについて考えるといつも、自分の先祖たちがか れらをめぐる暴力的なるものに対抗してよくも生き延びる、、、、、

ことができ、おれという子 孫に生命をつたえ得たものだと不思議に思うよ。かれらは恐ろしい暴力の時代を生き たんだからね。ここにおれが生きている事実の背後に、おれにつながる人間がいった かれている。ただ、この縊死にいたる原因としてほのめかされているものとして、頭部の負傷(こ れは、アカリが生まれながらに頭部に畸形を持っていたことを想起させる。それは、あるいは小 説の主人公にとって抗いえない暴力の顕現であり、アカリはそれを身に受けて生まれてきた。大 江がその息子とそれにまつわる「暴力」からどのように逃れ、そしてどのように向き合うかを主 題として――多分に喜劇的な雰囲気があたえられフィクショナルなものとされてはいるが――

書いたのが『個人的な体験』である)によって発症した「躁鬱症」がある。「友人は、鷹四がま だ悔悛していない学生運動家として国会議事堂前にいた(1960年――引用者註)六月の真夜中、

かれ自身の政治的意志によるというより、結婚したばかりの妻が、その属している小さな新劇団 のデモに参加するのにつきそってそこへやってきており、混乱が起った時、武装警官隊の襲撃か ら妻を保護しようとして、警棒で頭を割られてしまった。単に外科的な意味あいでは、とくに重 い裂傷ではなかったが、あの青葉の匂いたてる真夜中の一撃以来、友人の頭の内部にひとつの欠 落が生じてしまい、隠微な躁鬱症が、かれの新しい属性となった」(同書、20頁)。

341 『大江健三郎小説3』、129頁。

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いどれだけの量の暴力的なるものに対抗しなければならなかったろうと思うと気が遠 くなるなあ。342

このように感懐を述べる鷹四は自身、「スーパー・マーケット」の商品の略奪という「一揆」

の指導者となる。そして小説の最後に散弾銃で自殺してしまうことで、蜜三郎の縊死した

「友人」と同様に、暴力的なるものを一身に引き受けた存在となる。鷹四にあつまり、そ して最後には自殺にまでかれを追いやる暴力は、蜜三郎の「友人」の不可解な死体が暗示 していたものなのである。

ここで重要なこととして付言すれば、この引用箇所にも「生き延びる」という言葉が見 られる。三章では、『晩年様式集』において、この言葉がしばしば使用されているのを見た が、1967年に書かれた『万延元年のフットボール』の時期から、この言葉がすでに大江に とって重要なものであったことがわかる343。「暴力」――生まれてくること自体にともなう 暴力、核兵器、放射性物質、強姦、自殺、狂気――は、その初期から一貫して大江におい て大きな主題であり、大江の小説の全体を見わたせば、それは遍在する「暴力」にどのよ うに向き合い、そこからどのような「恢復」の道を探すか、について模索した過程である ということができる。本稿において論じてきた「生まれ替わり」という、くり返し書かれ る――そしてしばしばロマンティックにすぎるようにも見える――モチーフは、この「暴 力」に対抗するためにあるものだ。その意味で、三章で見たように、『水死』、『晩年様式集』

においてアカリのカタストロフィ、そしてアカリと「森のフシギ」との関係が書かれてい たことは、アカリが、先天的な障害(暴力)によって傷ついた存在であり、そこからの「恢 復」が目指されてもいるのであることを示している。大江の小説における「アカリ」に類 する存在はすべて、つねにこの破壊と再生のまざりあう両義的な存在なのである。

つづいて、もうひとつの大江における隠喩の例として見やすいのは、短篇連作『「雨 の 木レイン・ツリー」 を聴く女たち』である。そのうちの一篇「泳ぐ男――水のなかの「雨 の 木レイン・ツリー」」で、語り手の

「僕」は、「雨 の 木レイン・ツリー」というイメージが344、「生き延びる手がかり」の「暗 喩メタファー」であり、「す でに地上から失われた」その「木」の「再生」を確認するという筋の長篇を構想していた と回想する。

僕はこの「雨 の 木レイン・ツリー」長篇の草稿を書きはじめるしばらく前から、毎日のようにプール へ出かけるようになっていた。そこで僕は「雨 の 木レイン・ツリー」長篇の舞台にプールを選び、現 実の僕にいかにも似かよっている、文筆が職業の中年男「僕」が、生き延びるための

342 同前、傍点引用者。

343 ちなみに、1969年に発表された中短篇集は『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』と題 されている。

344 註139に、そのイメージについての描写を引用した。

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