第2章では、大戦景気や軍都との結びつきによって、公認遊廓が、軍人をはじ めとする人々に必要とされ、繁栄していったことをみてきた。しかし、昭和初期 になると、公認遊廓はそれまでの賑わいを失って行く。第3章においては、公認 遊廓の衰退について、Ⅰ.新たに登場する特殊飲食店との関係、Ⅱ.戦争との関 係からみていくことにする。
Ⅰでは、なぜ公認遊廓が衰退していったのかについて、新たに登場した特殊飲 食店との対比を中心にみていきたい。
Ⅱでは、日中戦争の長期化、第2次世界大戦への参戦を通して、日本国内も戦 時色一色に染められて行く。そんな中戦時体制の強化を受け、性風俗産業は、全 体的に縮小されていく。その中で、公認遊廓や特殊飲食店がどのような役割を果 たしていたのか、またそこで働く女性たちがどのような暮らしをしていたのか—
具体的には銃後活動にも着目し、国家の維持のために女性の性が管理され利用 されていく様子を明らかにする。そうすることで戦時下における性の問題につ いて考えたい。
Ⅰ.特殊飲食店の隆盛
1.公認遊廓の衰退と特殊飲食店の誕生
第1次世界大戦後は大戦景気に湧いた日本であったが、その後の戦後恐慌を 経て、大正11(1922)年の銀行恐慌、大正12(1923)年には関東大震災が起こ り、震災恐慌に陥ることになる。さらには世界恐慌の影響を受けて起こった昭和 恐慌は、国内において、株価、物価の大暴落、生産低下、失業者の増大など、深 刻な状況をもたらした、中でも、生糸や綿糸などの価格の暴落は農村経済に大打 撃を与えた。そうした状態のあおりをうけ、公認の遊廓は徐々に衰退の道をたど る。
当時の新聞が、衰退していく遊廓の様子を取り上げている56。
「丸山遊廓で玉代の値下げ/時勢の波には抗し得ず全花街に影響か」57
56 山家悠平『遊廓のストライキ』p178
57『大阪朝日新聞付録九州朝日』昭和7(1932)年8月28日
「娼妓を置き去りに楼主一家夜逃げ/残された2人は路頭に迷う/業界前代未聞 の出来事」58
そこでは、不況下、遊廓に登楼する客の減少によって経営が悪化し、そこで改 善をはかるべく玉代の値下げに踏み切った丸山遊廓の様子や、同じく不況下経 営が厳しくなり、娼妓を置き去りにして逃げる経営者を出した二本木遊廓の様 子が取り上げられている。
桜町遊廓が最も栄えていたのは、大正10(1921)年前後であった。『福岡県統計 書』によると、大正8(1919)年の貸座敷は25軒、娼妓数280人59、大正9(1920) 年は貸座敷数26軒、娼妓273人60、大正10(1921)年は貸座敷26軒、娼妓数284 人であった61。貸座敷数は25軒〜26軒で、娼妓数は270〜280人いたというこ とがわかる。
昭和5(1930)年になると、貸座敷数23軒、娼妓数129人となり、全盛期に 比べると、ほぼ半分の人数になっていることがわかる62。遊客数の変化は顕著で あり、例えば大正9(1920)年には63,139人いた遊客数が、昭和5(1930)年 になると、23,724 人と、半分以下になっていることがわかる。その後もじわじ わと減り続け、昭和10(1935)年には、貸座敷数20軒、娼妓数107人となり、
娼妓の数は、全盛期の半分以下となっている63。
また内閣府による『警察統計報告』によると、大正15(1926)年には全国貸 座敷免許地546、娼妓数50,800人の娼妓が働いていたが、昭和9(1934)年に は、免許地468、娼妓数45,705人まで減っていることがわかる64。このように、
公認の遊廓は明らかに衰退している。
その背景になるものの1つとして挙げられるのが、カフェーや特殊飲食店の
58 『九州新聞』昭和7(1932)年8月12日
59 福岡県編『大正八年 福岡県統計書 第四編(警察及衛生)』福岡県、大正10
(1921)年3月
60 福岡県編『大正九年 福岡県統計書 第四編(警察及衛生)』福岡県、大正11
(1922)年3月
61 福岡県編『大正十年 福岡県統計書 第四編(警察及衛生)』福岡県、大正12
(1923)年3月
62 福岡県警察部編『昭和五年 福岡県統計書 第四編 警察衛生ノ内(警察)』福岡 県、昭和7(1932)年3月
63福岡県警察部編『昭和十年 福岡県統計書 第四編 警察衛生ノ内(警察)』福岡 県、昭和11(1936)年11月
64 山家悠平『遊廓のストライキ』p177-178
隆盛であった。先が見えない不況の中、人々の中には、刹那的で享楽的な生活を 求める者が増えた。「エログロナンセンス」という言葉が流行し、エロティック あるいは怪奇なものをテーマにした書物の出版や、東京などの大都市において は扇情的なレビューが人気を集めていた。そこで、新たな享楽産業の1つとして 確立されていくのが、「特殊飲食店」であった。表向きは料理屋や飲食店、カフ ェーを装い、実質はそこで働く酌婦や女給に売春をはじめとする性的なサービ スを行わせる店である。
もともとカフェーは、明治44(1911)年に東京において、芸術家たちのサロ ン的な社交場として誕生したカフェ・プランタンが発祥とされているが65、そこ から女給が洋食やコーヒー、お酒を提供する空間として、次第に数を増やしてい った。しかし、急激な同業者の増加が、カフェー間の競争を生み出し、都市部に おけるカフェーにおいては、カフェーの「エロ」化がすすめられていった66。 そういった特殊飲食店は、昭和8(1933)年1月に出された「特殊飲食店営 業取締規則」によって、営業方法や構造設備など営業者また従業員の遵守事項が 定められ、風紀の維持が目指された。そこで「公安風俗上の制限」として、営業 時間は12時までとし、社交ダンス、演劇、活動写真、観物、演劇等の禁止のほ か、酌婦を店頭に立たせること(客引き)や酌婦に異様な服装をさせないことな ど細かな項目が決められた。また、酌婦の素行を十分監視すること、卑猥な行為 をなしまたはなさしめることのないよう注意が払われた。つまり、この時点で特 殊飲食店は、規則上、性風俗営業が認められていなかったことがわかる。
しかしながら、時代が「エログロナンセンス」を求めていたことから、特殊飲 食店においては、客をひきつけるためにますますサービスの激化が行われてい く。客を引きつけるために、酌婦に性的なサービスを行わせるようになっていく のである。
特殊飲食店で働く酌婦の売春やサービスの激化は、福岡県でも問題となって いたようである。昭和12(1937)年の『福岡日日新聞』には、福岡県下におけ る特殊飲食店経営者は約 2,000 人、そこで働く従業婦は 5,700 人余りで、いよ
65日本国内で最初に登場したカフェーには諸説ある。コーヒーを提供する店として最初 に開業したのは、外務省の官吏であった鄭永慶が開いた明治 21(1888)年の東京下谷区 上野黒門町の可否茶館とされている。
66寺澤ゆう「1930年代のカフェーにみる性風俗産業界—動揺の裏側にある女給の労働 実態—」『立命館大学人文科学研究所紀要』103号、2014年
いよ飲食店内における売淫行為が盛んになっているということが書かれている
67。それが問題なのは、公認遊廓と違って管理されていない場所での売春行為は、
風紀を乱すだけでなく、性病を蔓延させる結果を招いてしまう恐れがあるとい うことである。そこで、昭和13(1938)年に「特殊料理屋営業取締要綱」とい う取締規則が出され、特殊飲食店において、花柳病予防施設の完備、健康診断の 励行、風紀上の弊害を矯正する為家屋の構造を改良し、又営業地域を指定するこ と、そのほか、酌婦へ保護を加え品性を向上させるため、業者と抱酌婦との契約 標準を明示すること等が新たに明記された。ここで注目したいのが、「花柳病予 防」「健康診断の励行」といった文言である。この文言には、明らかに、特殊飲 食店の店内で、売春行為をはじめとする性的サービスが行われる想定が盛り込 まれていると言える。
もともとは準喫茶的な性格をもつ特殊飲食店であるが、大衆的な雰囲気から 中・下層の人々に人気を博し、林立して行く間に、サービスの激化が行われ、女 性がいるということから、売春営業が行われるようになったのである。
2.特殊飲食店の構造
特殊飲食店がどのような構造で、そこでどのように女性が働いていたのかと いうことを具体的に確認しておきたい。さきほど紹介した、福岡県で出された
「特殊料理屋営業取締要綱」を参考にする。
建築構造としては、昭和8(1933)年に出された「特殊飲食店営業取締規則」
では洋風の造りが決められていたが、この「特殊料理屋営業取締要綱」では、そ ういった指定は特にない。しかしながら、新たに建物内に「酌婦化粧室(居室)」
「酌婦及遊客ノ為ニ供スル浴室及洗浄所ヲ設ケ」ることが決められた68。「酌婦 化粧室(居室)」は客をとるための部屋、「浴室及洗浄所」は、性病を予防したり 身体を清潔に保つための設備で間違いない。このように、構造的にも、表向きは 料理屋であるが売春営業も行われる場所としてつくられた。
副見喬雄の『帝都における売淫の研究』には、「売淫の行はるる」特殊飲食店 の代表的型として、「階下に於ける一坪乃至数坪の客席を土間とし、数脚のテー ブルと椅子を用意し、其の傍に階段を設け、階上は三畳又は四畳半の小座敷を用 意せる」構造が描写されている69。ここから、一階部分がいわゆる飲食をする場
67『福岡日日新聞』昭和12(1937)年2月27日付の記事参照。
68「特殊料理屋営業取締要綱」(昭和13(1938)年)第3章。
69副見喬雄『帝都における売淫の研究』博文館、1928 年、p274 参照