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大兼久

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大兼久

よみ

おおがねく

︻ 地

域名

ハニク・ウフガニク

マク名

ユアギマク

城ノロ管轄

一︑大兼久の概要

大 兼 久 は 村 の 中 央 部 に 位 置 し

︑ 大 兼 久 川 を 境 に 字 大 宜 味 と 接 す る

︒ 大 兼 久 川 の 右 岸 に 位 置 し

︑ 北 は 東 シ ナ 海 に 面 す る

︒ 兼 久 は 砂 地 に 由 来 す る 名 称 で

︑ 海浜に立地する場所に多い地名である︒

一 九 二 一

︵ 大 正 十

︶ 年 に 字 大 宜 味 か ら ム ラ 分 か れ し

︑ 独 自 の 自 治 活 動 を 発 足 し た が

︑ 一 九 四 六

︵ 昭 和 二 一

︶ 年 に は 小 字 が 大 字 大 兼 久 に 地 籍 変 更 さ れ 行 政 区 と な っ た

︒ 大 宜 味 か ら 分 か れ た 関 係 に あ り

︑ 昭 和 二 一 年 以 前 の 歴 史 は 大 宜味と同一である︒また︑伝統的な行事は全て一緒に行っている︒

大 宜 味 村

︵ ム ラ

︶ が 登 場 す る の は

︑ 一 七 一 三 年 に 編 纂 さ れ た

﹃ 琉 球 国 由 来 記﹄

が最初である︒十八世紀初頭には大宜味村

︵ムラ︶

に間切番所が設置され︑

一 時 大 宜 味 間 切 の 中 心 だ っ た が

︑ そ の 後 番 所 は 塩 屋 村 へ 移 転 し た

︒ 明 治 末 期 に 大 宜 味 村 役 場 が 塩 屋 か ら 移 転 し

︑ 一 九 二 五

︵ 大 正 十 四

︶ 年 に 旧 役 場 庁 舎 が 完成して以来︑村の行政の中心地となっている︒

大 兼 久 で は 明 治 末 期 か ら 追 い 込 み 漁 を 導 入 し て 以 来

︑ 漁 業 が 盛 ん に な り

︑ 昭 和 初 期 に は 南 洋 諸 島 ま で 進 出 し

︑ 糸 満

︑ 本 部 に 次 ぐ 漁 獲 高 を 誇 り

︑ 当 時 は 漁業の村として知られていた︒

大 宜 味

・ 大 兼 久 は

︑ 元 は 一 つ の 村

︵ ム ラ

︶ だ っ た こ と か ら

︑ 拝 所 や 神 人 も 共 通 し

︑ 年 中 行 事 を 共 同 で 行 う も の も 多 く

︑ 豊 年 祭 は 特 に 盛 大 に 行 わ れ る

︒ 合 同 の 行 事 で は

︑ ま ず 大 兼 久 の 拝 所 を 巡 っ た 後

︑ 大 宜 味 と 合 流 し

︑ 大 宜 味 内 の拝所を巡る︒大宜味御獄が大宜味・大兼久の共同の鎮守の森である︒

旧 盆 翌 日 の 十 六 日 に は

︑ ゾ ー ガ リ ー

︵ 門 嘉 例

︶ と い う 大 兼 久 だ け の 行 事 が あ る

︒ こ の 行 事 は 大 宜 味 に 間 切 番 所 が あ っ た 頃

︑ 大 兼 久 の 浜 辺 か ら 出 航 し た 上納船の航海安全と︑

来年の豊作を祈願したことに由来しており︑

中の門︵ナ ハンゾー︶や穴川︵アナガー︶で祈願する︒

大 兼 久 に あ る 旧 大 宜 味 村 役 場 庁 舎 は

︑ 一 九 二 五

︵ 大 正 十 四

︶ 年 に 建 て ら れ た 現 存 す る 県 内 最 古 の 鉄 筋 コ ン ク リ ー ト 造 の 建 築 物 で

︑ 建 築 技 術 の 導 入 や 構 造 法 の 歴 史 を 知 る 上 で 貴 重 と さ れ

︑ 県 の 文 化 財 に 指 定 さ れ て い る

︒ 字 大 宜 味 とは大兼久川を境に行政区を分かつようになったが︑

村役所︑

農協が大兼久で︑

郵便局が字大宜味にあり︑両字とも村行政の中心地である︒

﹃沖縄タイムス︱ふるさとの顔

︵ 昭和四十年︶

﹄の記事によると︑

大兼久は昔︑

村 一 番 の 貧 乏 部 落 だ っ た

︒ 分 家 の 悲 し さ で 耕 地 も ほ と ん ど な く

︑ ど の 家 も そ の 日 そ の 日 の 生 活 を ど う に か 切 り 抜 け て い る と い っ た 状 態 で

︑ 明 治 の 末 頃 か ら 大 正 の 初 め に か け て

︑ 七 人 の 若 者 が 糸 満 漁 夫 に 身 売 り さ れ た

︒ こ の 七 人 の

田嘉里 謝名城 田嘉里 謝名城 喜如嘉 喜如嘉

饒波 饒波

大宜味 大宜味

押川 押川 上原

上原 根路銘 根路銘

津波 津波

白浜 白浜 宮城

宮城 田港田港

江洲 江洲

大保 大保 屋古 塩屋 屋古 塩屋

大兼久

大兼久 2 1

3

4

6

12 8

7

17 14

15 11

16 13 10 9

5

名 称 大兼久公民館(海抜 4 m)

所在地 大宜味村字大兼久 30 番地 平成 14 年 4 月 13 日落成 RC 造 2 階

(水源基金 66,359 千円)※共同店含む

平成 28 年 2 月末 人口 118 人(男 56・女 62) 59 世帯

157

― Shioya

一︑塩屋の概要

村 の 中 央 部 の 塩 屋 湾 口 の 突 き 出 た 砂 州 上 に 立 地 し

︑ 村 内 で 最 も 人 口 の 多 い 集 落 で あ る

︒ サ ー や ス ヤ と 呼 ば れ

︑﹁ 製 塩 の 地

﹂ に 由 来 す る

︒ ム ラ 発 祥 の マ ク 名はユアギマクで﹁砂がより上げた地﹂である︒

一 六 七 三 年 に 田 港 間 切 が 創 設 さ れ る ま で は 国 頭 間 切 に 属 し

︑ 同 年 に 国 頭 間 切 か ら 田 港 間 切 に 編 入 さ れ

︑ 一 六 九 二 年 よ り 大 宜 味 間 切 と な っ た

︒ 間 切 番 所 は︑

まず田港村に置かれ︑

一六九二年に大宜味村へ移転︑

さらに塩屋村に移っ て お り

︑ 一 六 九 五 年 頃 か ら 一 九

〇 八

︵ 明 治 四 一

︶ 年 ま で は 塩 屋 村 が 間 切 行 政 の中心地だった︒

集 落 中 央 に そ び え る ハ ー ミ ン ジ ョ ー の 森 は

︑ も と は 一 小 島 に し て そ の 東 側 の 砂 地

︵ 平 地

︶ は 塩 田 で あ っ た と 思 わ れ る

︒ ア サ ギ マ ー 近 く に 塩 焚 き の 窯 に 使った焼石がいくつもあり︑

またスーグチ︵潮口︶もあり︑

付近に塩田があっ た こ と を 示 し て い る

︒ そ れ ら の 史 実 は 古 典 劇 作 家

︑ 高 宮 城 親 雲 上 が 著 し た 組 踊り﹁花売りの縁﹂の主人公森川之子の伝説にもつながってくる︒

塩 屋 港 は 古 く か ら 陸 上

・ 海 上 交 通 の 要 所 で あ り

︑ 大 宜 味 間 切 の 王 府 へ の 貢 納 物 は 塩 屋 村 に 集 積 さ れ

︑ 今 帰 仁 の 運 天 港 を 経 て

︑ さ ら に 那 覇 港 や 泊 港 へ と 運ばれた︒

宮 城 島 と 白 浜 の 森 に よ っ て 風 波 が さ え ぎ ら れ

︑ 穏 や か な 湖 を 思 わ せ る 塩 屋 湾 は

︑ 昭 和 の 初 め 頃

︑ カ キ 養 殖 が 試 み ら れ た が

︑ 台 風 に 対 す る 十 分 な 備 え が な か っ た こ と か ら 失 敗 す る 業 者 が 多 く

︑ 戦 後 も 台 風 の 被 害 と 赤 土 流 出 に よ り 根付かせることができなかった︒

一 九 六

︵ 昭 和 三 五

︶ 年 頃 ま で

︑ 集 落 背 後 の 山 は

︑ 山 頂 ま で 傾 斜 の 急 な 段 畑 だ っ た

︒ 山 手 一 帯 は か つ て の 水 田 跡 で 立 枡

︵ タ チ マ シ

︶ と 呼 ば れ て い る

︒ ま た

︑ 大 保 集 落 の 潟 原 の 両 岸 に も 塩 屋 の 人 の 所 有 す る 水 田 が あ り

︑ 舟 で 通 い 耕作していたという︒

沖 縄 で は 珍 し い 牧 場 が 古 く か ら あ り

︑ 戦 前 は 常 時 九 十 頭 ぐ ら い い た 牛 が

︑ 終 戦 の 混 乱 に よ っ て 盗 ま れ

︑ 衰 退 し か か っ て い た が

︑ 組 合 員 三 六 人 の 牧 場 組 合は︑

押川の近くに四八町歩の土地を有し︑

イノシシの被害に悩まされる段々 畑 に 牛 を 入 れ る 計 画 を す る な ど 奮 闘 し て い た が

︑ 一 九 六

︵ 昭 和 三 五

︶ 年 頃 ま で に は な く な り

︑ ボ ク ジ ョ ウ

︵ 牧 場

︶ の 小 地 名 に 当 時 の 名 残 を 見 る の み で ある︒

そ の 頃 の 産 業 は 農 業 と 漁 業 が 中 心 で

︑ や ん ば る 名 物 の 段 々 畑 は 同 字 が 最 も 多 く

︑ 集 落 後 方 の 山 嶺 ま で 連 な る 段 々 畑 は 風 情 が あ り

︑ シ ー ク ヮ ー サ ー を は

塩 

よみ

しおや

︻ 地

域名

︼    サー・スヤ

マク名

ユアギマク

田港ノロ管轄︵四ヶ字︶

名 称 塩屋区農村集落管理施設(海抜 1.5m)

所在地 大宜味村字塩屋 371-2 番地  電 話 0980-44-2453

平成 15 年 3 月 28 日竣工 RC 造 1 階

(国庫 75,765 千円、水源基金 14,824 千円)

平成28年2月末 人口 574 人(男 292・女 282) 257 世帯

田嘉里 謝名城 田嘉里 謝名城 喜如嘉 喜如嘉

饒波 饒波

大宜味 大宜味

押川 押川 上原

上原 根路銘 根路銘

津波 津波

白浜 白浜 宮城

宮城 田港田港

江洲 江洲

大保 大保 屋古 塩屋 屋古 塩屋

大兼久

大兼久 2 1

3

4

6

12 8

7

17 14

15 11

16 13 10 9

5

      

謝    辞

﹁大宜味村の自然﹂として大宜味村全体の地形図

︑地質図

︑植生図及び

︑各字 の地形

・地質

︑植生

・土地利用図を用いて

︑視覚的にわかりやすく

︑自然を身近 なものとして親しめるように︑

安座間安史氏︵村史編纂委員︶に執筆いただいた︒

本編の第一章は

﹁大宜味村のムラの宝物﹂とし

︑大宜味村の遺跡

︑大宜味村内 のマク

︑大宜味間切の村の変遷

︑ 史料にみる大宜味のムラの変遷

︑大宜味間切の 村と役人

︑根謝銘

︵ウイ︶グスクと按司地頭と総地頭

︑根謝銘

︵ウイ︶グスクの 御嶽とイベ

︑国頭

︵クンジャン︶は根謝銘

︵インジャミ︶

︑根謝銘

︵ウイ︶グ スクと集落と村

︵ムラ︶

︑近世の山原の方切︑

間切番所の移転︑

元文検地の印部石

︵ハ ル石︶

︑ 間切役人と地租徴収の手続き

︑大宜味間切の杣山の種類

︑大宜味間切に おける猪垣の修築

︑耕作下知方並諸物作付節附帳

︑田港御嶽と大宜味御嶽の祠の 香炉

︑明治の大宜味間切

︑﹃ 南嶋探険﹄

︵笹森儀助︶

︑大宜味間切の宿道

︑大宜味 間切のノロの遺品

︑大宜味間切の神アサギ

︑明治初期の大宜味間切の村の規模

︑ 歴史年表を掲げ構成してあります︒

大宜味村や国頭村では

︑ 今もなおマクの概念が生きており

︑遺跡や遺物散布地 からマクへ

︑ マクから古琉球のムラへ

︑ 薩摩の琉球侵攻後

︑慶長検地が行われ村 位が定められ︑古琉球の緩やかなムラとは異なる近世の村︵地割

村に税を課す︶

となる

︒ 大宜味村にはマクから古琉球の村

︑そして近世の村への変遷を知る手が かりが残っています

︒大宜味の村の変遷は

︑国頭間切から大宜味間切の分割

︑羽 地間切からの統合

︑間切番所の移転

︑田嘉里

︑ 城

︑ 田港

︑津波の四名のノロの存 在が︑

管轄村︑

祭祀の面を特徴づけており︑

元文検地の印部石の原名と現在の原

︵小 字︶の変遷をたどってみることで︑

明治以前の﹁大宜味の世界﹂が見えてきます︒

第二章は

︑村内の十七のムラ

︵字︶を北から田嘉里

︑謝名城

︑喜如嘉

︑饒波

︑ 大兼久︑

大宜味︑

根路銘︑

上原︑

塩屋︑

屋古︑

田港︑

押川︑

大保︑

白浜︑

宮城︑

江州︑

津波の順で配列し

︑概要

︑各字の自然

︑遺跡

︵散布地︶

︑ムラ名の変遷

︑小字

・ 小地名

︑ 屋号図

︑ 人口動態

︑祭祀

︑むかし話

・伝承

・ うた

︑コラム

︑ 各字の年表 と十一の項目で構成し

︑大宜味村の隅々まで踏査した形となります

︒各字それぞ

れの歴史をもち︑個性あるムラをつくり出していることがわかります︒

本編の発刊に至る過程で︑

写真や区が持っている資料の提供︑

屋号調査や小字

・ 地名の確認にも区長さんや区民みなさんの手をわずらわせました

︒また

︑印部石

︵ハル石︶の提供

︑ノロ家の遺品

︑明治の辞令書など

︑数多くの資料や情報の提 供がありました

︒福地廣昭氏の

﹃ イギミの里

・地名考︱ふぁるやま﹄をはじめ発 刊されている字誌

︑宮城昭氏

︵塩屋︶から印部石や塩田の見取り図などの提供が あり

︑活用させていただきました

︒本編ではその一部しか紹介できませんでした が︑

﹁大宜味村には姿を見せていない宝物﹂

が数多くあることに気づかされました︒

ご協力ありがとうございました︒

今後ともご協力ご支援よろしくお願い致します︒

本編の発刊に向けて

︑村史編纂室の働きを見てきました

︒原稿打ちから編集

︑ 図の作成︑

小字︑

屋号の調査や確認︑

ノロ殿内の遺品の調査︑

印部石の確認など︑

大宜味村の十七の字の隅々

︑そして字の歴史年表を整理しながら歴史を肌で感じ 取る作業をしてくれました

︒その作業は本編の発刊で終わりではなく

︑収録でき なかった項目も数多くあり

︑本編は大宜味村を見きわめていく基本的な資料と テーマが提供されたものと考えてくだされば幸いです

︒そして

︑各々のテーマを 深めていく

︑村民の学びの手がかりとなり

︑情報提供として活用してくだされば 幸いです︒

また

︑字別の原稿校正を重ねていく過程で

︑編纂室の一人ひとりが大宜味村の ムラのことを知り好きになり

︑自分のものにしていく姿は

︑村史づくりは村の土 台づくりであり

︑ 人づくりとして大きく貢献していることを実感させられていま す

︒編纂室の三名の職員の涙ぐましいほどの取り組みには頭が下がります

︒これ をもって部会長の謝辞といたします︒

  平成二八年三月二八日  

大宜味村史編纂委員会

シマジマ専門部会部会長

仲原

弘哲

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