対外関係において言うと、察度(サトゥ)は、1372年から、すでに中国から 中山王とみなされるようになり、1374年には、再度、陶器など大量の物質も、
この島に齎されてきた。その時代において、中山王としての察度(サトゥ)の 地元での実力は、如何なるものだったのであろう。
彼の歴史に関して言えば、先に勝連按司の婿になったのか、それとも、先に 中山王になったのか、である。王になる前に、勝連按司の婿になったという
『中山世譜』の記述は、編纂の際、人為的にこの時間的な順序を調整し、作り 上げられていった部分があったのではなかろうか。
のある地域(中部)、山以南(南部)と山以北(北部)というように、つなげ られた。
察度(サトゥ)に関する初期ごろの記録は、中山王ではなく、鍾山王である。
この鍾山を中心とする王、一地方王としての察度(サトゥ)は、いつの間にか、
誰の手によるものか、不明のままで、「鍾山王」から、中心の山と理解される
「中山王」へと改められた。さらに、琉球国の「中央王」・「統一王」と言わ れているほかの王統と肩を並べ、崇元寺で祭られるようになった。
中山王―察度(サトゥ)の生きた時代には、山南王として、承察度、汪英紫 氏、温沙道、山北王として 尼芝、 、攀安知がいた。この全員は、広く知ら れている人々であり、彼らのほかにも、その時代において、無名な英雄たちが、
『おもろ』に歌われているように、数多くいたのであろう。
汗や血、命までを賭けてきた英雄豪傑たちの中で、察度(サトゥ)は、当時 の大国―中国にもっとも重視された人物であり、中国と信頼関係を確立し、そ れを頼りながら、彼は、地元琉球での実力を確実に身につけ、男たちの夢を最 初に現実に変えた人物でもある。
そして、琉球統一と、大きな夢を最後まで見ながらも、その希望を息子であ る武寧、孫である完寧斯結らに託したまま、帰らぬ人となった。
終わりに
しかし、彼の築いてきた中国との信頼関係があったからこそ、故人となった 二十数年後、中国からの冊封は、中山、山南、山北への複数冊封から、中山王 を継承した第一尚氏へと特定されるようになり、中央王、統一王としての思 紹・尚巴志をはじめとする第一尚氏・統一王統が、ユーラシア大陸の東方、太 平洋の西方に位置する琉球列島に産声をあげた。
統一王統による崇元廟の建設も着想されるようになり、当然、その際、創業 の功を建てた察度(サトゥ)も忘れられることなく、廟主の一人として祭られ るようになったのであろう。
たしかに、一地方王としての中山王の察度(サトゥ)は、材略に富む尚巴志 をトップとする第一尚氏のように、琉球統一の大業を完成することはできなか った。また、第二尚氏ほど長期間にわたる安定的な朝廷の樹立に成功したもの
でもなかった。しかし、彼は、狭い島での、日常化していた熾烈な闘争に負け ることなく、常に目を外に向け、強い信念を持ち、この地域、土地のことをは じめて琉球という名称で、中国、朝鮮、東南アジアなど、世界に知らせた人物 として、自分の英名を海上の国―琉球とともに、世界史に残していた。