はじめに
周知のように、唐代前期には厳密な律令官制体制が存在した。しかし、時間が経つに つれて経済の仕組みと社会の情勢は変化し、徐々に硬直化した律令官制は、複雑な現状に 対応できなくなった。このような問題は、安史の乱後にさらに際立っていた。元来の経済 の基礎が崩壊すると、新たな社会経済秩序はまだ確立していなかったために、唐王朝はよ り多くの問題と困難に直面せざるを得なかった。以前の官職体制はそれに適応できず、ゆ えに、その時の事情に応じて、律令官制以外臨時に設置される差遣官の事例が増えるよう になった。使は都合によって設置されたもので、その都合が済めばまた廃止された。その 中の一部の使職は定着し、常官になることもあった。李錦繍氏は、唐代前期においては、
中央と地方の財政をつなぐ架け橋が欠けていたことが、使職が登場した最初で最大の原因 であると考えている1。杜佑は官・使の関係について、「設官以経之、置使以緯之」2と述 べた。使職は安史の乱以前は形成・発展段階にあり、安史の乱後は体系化されて慣例とな り、いくつかの重要な使職システムを確立した。その一つに、財政部門の使職システムす なわち塩鉄転運使・度支使・戸部という三司を中心にした使職システムがある3。何汝泉 氏は、「漢から唐の間で、財政職官の体制における三度目の大変革は、財政管理の担当 が、戸部から使職に転換したことである」と述べている4。財政使職は唐代中・後期の財 政運営管理システムに大きな役割を果たしていた。さらに、財政系統の使職は使職全体の 三分の一を占めた5。このことは、当時の経済領域の状況の複雑さと、唐王朝が国家経済 の運用を重視した程度を示している。
唐代前期において、左蔵庫は「諸州の庸・調及び折租等の物の応に京に送るべき者」、す なわち全国からの賦税物を収納する蔵庫であった。長官の左蔵庫令は「邦国の庫蔵の事を 掌る」とあるように、国家蔵庫の管理を職掌とする。一方、右蔵の職能は、「金・玉・珠貝・
玩好の物を掌る」であり、右蔵庫令は「邦国の宝貨の事を掌る」とあるように、国家に進 献した宝物を管理した6。元来、両者の境界は明確であり、整然と倉庫管理制度を形成した。
しかし、皇帝権力の強化に伴って、天子の私庫としての内庫が当初の小さな補充庫から規 模を拡大し、唐代中・後期の財庫システムにおいて不可欠な部分になった。
安史の乱後、唐代の財政管理システムに大きな変化が起き、同時に、財庫も大きく変化 した。右蔵庫は次第に左蔵庫と内庫に併合された7。また、武宗朝には大明宮に備辺庫が新 設された(後に延資庫に改名)。延資庫については、「属宰相、其任益重(宰相に属し、其 の任は益々重し)」とあるように、宰相に直接管理されており、その収支は独立して、三司
1 李錦繍『唐代財政史稿』上巻第一分冊、三八〇頁、北京大学出版社、一九九五年。
2『通典』巻一九、職官一。
3 陳仲安『唐代的使職差遣制』(『武漢大学学報』、一九六三年第一期)、九二―九四頁。
4 何汝泉「漢唐財政職官体制の三次変革」(『西南師範大学学報』一、一九九七年)一〇八頁。
5 寧志新『隋唐使職制度研究(農牧工商編)』(中華書局、二〇〇五年)九二頁。
6『唐六典』巻二〇、太府寺。
7 拙稿「唐代左・右蔵庫の変容と内庫との関係」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要』五八、二〇一二年、
本論文第一章)参照。
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使と対等にふるまっていた8。唐代中後期の中央財庫システム中においては、一定の地位を 占めていたことが知られる。
財庫の管理体制は、システムの変化につれて変容し、財庫使職の設立も常態となっ た。律令官制の下で蔵庫の最高管理者である令・丞は次第に形骸化し9、中後期の財庫は 各使職によって管理されることになった。したがって、中後期の財庫を研究する際には、
財庫を管理する庫使を分析せねば、財庫運営の全体像をつかむことはできないのである。
唐代の使職については多くの業績があるが、管見の限りでは、財政使職については、先学 の考察は、主に塩鉄転運使・度支使・三司使に集中しており10、各財庫の収納管理を掌る 庫使を検討した論考は少ない11。庫使に関しては、まだ解明されていない問題が残ってい る。そこで本章では、庫使についての考察をさらに深めることとし、また、これまで言及 されていなかった他の財庫と庫使についても検討し、唐代中・後期における財庫の運営状 況を一層明確にしたい。
第一節 庫使の定義とその分類
唐代財政における使職の種類は多く、職能も様々であった。本章で対象とする中央財 庫を管理する使職は、史書によく「某某庫使」と称されるが、例外もある。たとえば、宣 徽使の管轄下にある宣徽庫がそうである。それゆえ、宣徽使も本章での検討対象となり、
便宜上、庫使と合わせて検討することとする。庫使は、おおよそ左蔵庫使、監左蔵庫使、
内庫使、大盈庫使、瓊林庫使、豊徳庫使、宣徽使、延資庫使などがある。
まずは、庫使を分類してみたい。各財庫使が管理する財庫の性質によって、左蔵庫使と 監左蔵庫使は明らかに国庫管理システムに属したことがわかる。それは第一類である。内 庫、大盈庫、瓊林庫、宣徽庫、豊徳庫は皇帝私庫であるため、これらを第二類とする。延 資庫は前の二種類と異なり、宰相庫という性質を持つため、第三類になる。
それでは、上記の各分類をそれぞれ説明しよう。
第二節 国庫管理相関使職
1.左蔵出納使
中央国庫としての左蔵庫は天下の賦税を収納し、国家財政の大部を管理した。太府少卿
8『唐大詔令集』巻七二「乾符二年南郊赦文」に、「従咸通十三年已前、甸内所欠延資庫、戸部、度支榷酒除 陌及和糴賑貸銭物斛斗、一物以上、並宜放免」とあり、延資庫と戸部・度支は同等の地位だとわかる。『唐会 要』巻五九、延資庫使曹確の上奏には、「請諸道州府場監院合送戸部銭絹内分配。令勒留不合送延資庫数目。
令本処別為綱運。与戸部綱同送上都。直納延資庫」とあり、延資庫独自の収入があったことが分かる。
9『新唐書』巻五三、食貨三、「広徳二年、廃句当度支使、以劉晏顓領東都、河南、淮西、江南東西転運、租 庸、鋳銭、塩鉄、転輸至上都、度支所領諸道租庸観察使。(中略)晏自天宝末掌出納、監歳運、知左右藏、主 財谷三十余年矣」とあり、左蔵令・丞の職権は侵食され始めていた。左蔵と並列した右蔵庫はその後、姿を 消し、内蔵庫に合併された可能性が高い。内蔵庫の管理者は内侍ではなく庫使である。
10 礪波護「三司使の成立について――唐宋の変革と使職」(『史林』四四、一九六一年)、日野開三郎「再び
『第五琦の塩鉄使就任と榷塩法創始』に就いて」(『東洋史学』二六、一九六四年)、高橋継男「唐後半期に於 ける度支使・塩鉄転運使系巡院の設置について」(『集刊東洋學』三〇、一九七三年)、何汝泉『唐財政三司使 研究』(中華書局、二〇一三年)。
11 李錦繍『唐代財政史稿』下巻(北京大学出版社、二〇〇一年)は唐代中後期の財政使職を略述している。
また、葛承雍『唐代国庫制度』(三秦出版社、一九九〇年)は唐代の各財庫を分析し、庫使にも言及した。
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がその収納を掌ることから12、左蔵庫がかなり重要視されていたことが読み取れる。
玄宗期にいわゆる「開元の治」が行われ、天下は太平で公私とも豊かになったため、社会には 奢侈な気風がかなり助長された。玄宗は戸口色役使・王鉷の意見を受け、正額の租庸以外 の進献を百宝大盈庫に入れ、また左蔵庫の管理を強化するため、楊国忠に左蔵出納使を兼 領させた。
『資治通鑑』巻二一六、天宝十一載八月条に
楊国忠奏有鳳皇見左蔵庫屋、出納判官魏仲犀言鳳集庫西通訓門。左藏、旧有令、丞而 已、出納判官盖帝置也。是時分立諸使、旧来司存之官備員、莫得挙其職。楊国忠方承 恩遇、領使最多、盖兼領左蔵出納使而以魏仲犀為判官也。
楊国忠、鳳皇の左蔵庫屋に見われる有りと奏し、出納判官の魏仲犀、鳳の庫の西の通 訓門に集まると言う。左藏、旧は令、丞有るのみ、出納判官は盖し帝置くなり。是の 時、諸使を分立し、旧来の司は之を官の備員に存し、其の職を挙ぐることを得る莫 し。楊国忠、方に恩遇を承け、使を領すること最も多ければ、盖し左蔵出納使を兼領 して、魏仲犀を以て判官と為すなり。
とあるように、玄宗が出納判官を設置したのは、左蔵庫の管理強化のためである。出納使 は皇帝より直接任命され、その責任者は皇帝のみであった。それによって、皇帝は太府少 卿というルートを避け、直接、左蔵出納使に命令し、左蔵庫の物品を自由に使用できるよ うになった。これは皇帝が財政権に対してコントロールを一層強化したことを示す。しか し、その後、この使職の名は史料上には一切見当たらない。これは安史の乱を経て、左蔵 庫が打撃を受け、やむを得ず内蔵庫に合併されたため13、左蔵出納使の存在理由は失わ れ、楊国忠の死後に廃止された可能性が高い。使職を置かなくなったとはいえ、左蔵出納 という職能自体は、徳宗が左蔵庫を回復する際に再び太府寺の管轄となり、太府少卿が出 納の任を負った14。
2.左蔵庫使
史書には左蔵庫使の記載が見えないが、墓誌に左蔵庫使の名が出てくる。
『金石続編』巻八 唐故振威副尉左金吾衛新平郡宜禄府折冲都尉成府君墓志
赫赫宗周、昔有天下、分族命氏、列乎於成公(缺)連。曾祖威、皇太中大夫礼部侍郎。
祖立□皇朝散大夫趙郡廮陶県令。父崇儡、皇朝議郎属中宗孝和皇帝有事郊(缺四字)
為□□授左羽林軍長上、転京兆府望苑府別将、左清道率府□候。当警夜紫禁、環衛丹 墀、以事十人、方逾一祀。无何、調河東郡霍山府左果毅都尉、左金吾衛知隊仗、使洛 交郡龍交府、彭原郡天固府、加振威副尉、新平郡宜禄府左折冲都尉、知隊仗如故、兼 左蔵庫使。勒驍雄之勇、列虎兕之師、守金帛之殷、将出納之吝。公幼而習武、長而主 兵、恭默其心、堅白其操、或福之善矣、豈禍之淫矣。遘疾弥旬、終於咸陽別業。然天
12『文献通考』巻六〇「唐於左、右蔵分建東、西庫、以太府少卿知出納」。
13『旧唐書』巻一一八、楊炎伝に「及第五琦為度支、塩鉄使、京師多豪将、求取無節、琦不能禁、乃悉以租 賦進入大盈内庫、以中人主之意、天子以取給為便、故不複出。是以天下公賦、為人君私藏、有司不得闚其多 少、国用不能計其贏縮、殆二十年矣」とある。
14 李錦繍、前掲『唐代財政史稿』下巻第一分册、三六五頁参照。太府少卿が左蔵出納を専任するのは、元 来、太府寺の職務の範囲内であり、差遣官には見られない。その後、左蔵出納に使職が置かれなかったのは その重要性を示している。