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各論的論点の検討 第6 弁論権と弁論主義

ドキュメント内 弁論主義論 (ページ 58-116)

 1 問題意識―弁論主義は黄昏か?

  ァ 「弁論主義は黄昏か」というのは、藤原弘道元判事が大阪高裁の 裁判長当時に神戸地裁の裁判官諸氏に対してされた講話(司法研修所論集

Ⅰ(1993年)に所収)の表題である。内容的には、弁論主義に違反してい ると思われるような一審判決が少なくないことを指摘した上で、一審の裁 判官諸氏に充実した審理を心掛けるべきことを説いたものであるから、必 ずしも表題どおりというわけではないが、弁論主義の置かれている今日的 状況をまさに言い得て妙というべき表題である。また、坂原教授は、弁論 主義の現状について「没落貴族の途」と表現しておられる。

  ィ ところで、弁論主義がそのような状況に置かれることになった原 因としては、「弁論権」が弁論主義に対置された上で、むしろ弁論権こそ が重要な意義を有するかのような主張がなされるに至ったことが挙げられ る。また、近年、民事訴訟においても裁判官が積極的な役割を果たすべき ことが強調されるようになったことによっても、それが加速されていると 言えるように思われる。後者の点については後記第9で考察することとし て、本項では専ら弁論権と弁論主義の関係を検討することにより、弁論主 義が弁論権により影が薄い存在にさせられるいわれのないことを明らかに

し、弁論主義(論)の復権のための基礎固めをすることを目指したい。

 2 弁論権と弁論主義の関係について

  ァ この関係でも山本克己論文が重要な意義を有するものと言わなけ ればならないが、それに先立ち、山木戸克己博士の「訴訟における当事者 権」と「弁論主義の法構造―弁論権および当事者責任との関連における試 論―」という二つの論文(以下、前者を「山木戸論文①」、後者を「山木 戸論文②」という)の検討からはじめるべきものと考える。

 山木戸博士は、裁判所の裁量権が広範に認められ、職権主義的な色彩が 濃い非訟事件においても当事者の手続権(当事者権)が保障されるべきこ とを主張したことで知られる。(注1)

 当事者権の具体的な内容としては、審理への立会権、陳述権、反論権

(これらを総称して「弁論権」と呼ぶことができよう)、記録の閲覧謄写 権、上級審への不服申立権などが考えられるが、その中核は弁論権である ところ、博士は、弁論権について「裁判を受ける者が、裁判前に事件につ いて弁疎することができる地位、すなわち裁判の資料を提出する機会を法 律上保障されていること」と定義した上で、「訴訟においては、当事者は 弁論権を強固に認められている。訴訟は裁判を受ける者に手続主体すなわ ち当事者たる地位をきわめて高度に認める裁判手続である」とされる(山 木戸論文①)。

 また、山本克己論文においては、弁論権とは、ドイツでは対審構造にお ける審問請求権として憲法上保障された権利であって、日本国憲法32条の

「裁判を受ける権利」は、裁判所にアクセスする権利だけではなく、裁判 手続の適正さをも保障するものであり、その適正手続の保障の中核をなす のが弁論権であると解すべきだとされる。

  ィ 弁論権についての以上のような性格づけを踏まえて、弁論権と弁 論主義の関係について、山木戸博士は、「弁論主義のもとでは、当事者が 弁論として訴訟資料たる事実を主張し証拠を申し出る権能を有することが 前提とされているが、弁論主義は当事者がこのような権能を有すること自 体を含んでいない。そのことは、職権探知主義が採用されている人事訴訟

においても、それが訴訟である限り、当事者は弁論として訴訟資料たる事 実及び証拠を提出する権能を有することと対比しても明らかである」と指 摘しておられる(山木戸論文②)。(注2)

 また、山本克己論文でも、「命題⑤(弁論権)は弁論主義か職権探知主 義かという法政策的な判断の問題の外に括り出しておくことが望ましい」

とされている。

  ゥ このように弁論主義と弁論権を別の次元の問題として取り扱うと いう主張は、近時、多くの学者の支持を得るまでに至っているように見受 けられる。こうして、弁論主義ではなく弁論権に注目が集まるような学説 状況がもたらされ、その結果、弁論主義が軽んじられるような傾向が生ま れているのではないかと思われる。

(注1)先ごろ、非訟事件手続法の抜本的な改正(新法)が実現し、家事審判法及び同 規則に替わって家事事件手続法が制定・施行されたが、その内容はまさに当事者権の 確立にあったと言ってよい。山木戸博士の問題提起から半世紀を経て、それが漸く実 現したということになる。

(注2)山木戸論文②には、「弁論主義の命名者であるゲンナーも、弁論権と弁論主義 を切り離して別個に観念していることが看取できるように思われる」とある。

 3 検討

  ァ 「職権探知主義が採用されている人事訴訟においても、当事者は 弁論として訴訟資料たる事実及び証拠を提出する権能を有する」という山 木戸博士の指摘はそのとおりであり、山本克己論文における弁論権の性格 づけにも異を唱えるものではない。(注3)

 しかし、だからといって、「弁論主義は、当事者が弁論として訴訟資 料たる事実を主張し証拠を申し出る権能(弁論権)を有すること自体を 含んでいない」という帰結が導かれなければならないものだろうか。また、

「弁論権は弁論主義か職権探知主義かという法政策的な判断の問題の外に 括り出しておくことが望ましい」という山本克己論文の提言に必然的に結 び付くものであろうか。

  ィ 山木戸論文①の上記指摘は、弁論権が必ずしも弁論主義に固有の ものではないことを指摘されたという限りではまぎれもなく正当であるが、

それだからといって、「弁論主義は当事者が弁論権を有することを含んで いない」という結論までもたらすようなものではないと考える。この点は、

博士ご自身も「弁論主義は当事者が弁論権を有することを前提としてい る」と述べておられるのであって、その点だけからしても上記結論を疑問 視するに足るものと言わなければならない。加えて、博士が、弁論権と弁 論主義の関係について、「当事者が訴訟資料たる事実および証拠を提出し うる権能を弁論権の概念によって把握することができるが、弁論権は裁判 手続における当事者の主体的地位の発現であって、当事者のこのような地 位をさらに強調すれば、当事者の提出した訴訟資料のみが裁判の基礎とさ れるべく、裁判所が職権を持って訴訟資料を探知採用すべきでないことを 要請するに至るものとみることができる。このように、当事者の弁論が訴 訟資料を限定しうること、これを別の面からいえば、裁判所の訴訟資料探 知権を排除する効力を有することをも当事者の弁論権に包含せしめること ができるとすれば、当事者の弁論権には積極的および消極的の両側面が考 えられる」とした上で、「弁論主義の内容のうち、主要事実は必ず当事者 の陳述したものであることを要すること、また係争事実を認定する証拠は 当事者の申し出たものに限られることは、まさに弁論権の消極的効果とし て考えることができるであろう」として、第1テーゼと第3テーゼについ ては弁論権の消極的効果として捉えられることを明言しておられる(注4) とが注目されるのである。

 このように、弁論主義は当事者が弁論権を有することを前提としている とし、さらには、弁論主義のうちの重要な部分が弁論権の消極的側面にほ かならないかのような主張までされているところからすれば、博士も、弁 論主義と弁論権が密接な関係にあることをむしろ当然視しておられるもの と言ってよいであろう。(注5)

  ゥ 思うに、訴訟において当事者は弁論権を有することが保障されて いること、したがって、当事者は自己に有利な判決を獲得すべく弁論権を 駆使して攻撃防御に最善を尽くすであろうことを当然の前提としており、

弁論主義はそのような前提のもとに採用された訴訟政策なのである。す

なわち、当事者に弁論権を保障しておけば、当事者は互いに主張すべき事 実主張を尽くし(第1テーゼ)、互いに相手方から自白を獲得し、或いは、

無用な争点を無くすために自らも進んで自白をして争点を極力限定し(第 2テーゼ)、その結果なお残された争点について必要な立証をする(第3 テーゼ)ということを期待してよいであろうから、これによって裁判所は 自ら真実探求をすべき責任から解放される。むしろ、公平で公正な判断権 者の立場を確保するという観点からしても、裁判所は控え目な態度に徹し、

余計な介入をしない方がよい。これが弁論主義なのである。つまり、弁論 権の保障があることにより弁論主義の採用が可能になるという関係にある のである。もちろん、訴訟政策としては職権探知主義という選択肢もあり 得ないわけではないが、私人間の紛争解決という民事訴訟の役割ないし目 的に鑑みれば、弁論主義の採用が近代市民国家の訴訟政策としてはあらゆ る意味で合理的であり(中でも、効率的で、安上がりであるというのが最 も大きな要素であろう。これにより民事訴訟に振り向けられる人的資源と エネルギーが節約できるからである)、したがって、ほとんど必然的な選 択であるということができる。(注6)

 そして、博士も、「(当事者の弁論権が認められた上で、弁論主義が採 用されるか、職権探知主義が採用されるかは)合目的的に考慮されるべき 政策的判断の問題である」「私的紛争に関しては、訴訟資料の収集につい て当事者の利己心の発動を触発するのが得策であり、かつ、当事者の訴訟 活動によっておおむね事案の解明ができる蓋然性があると認められる。さ らに時代的政治思潮としての自由主義の下においては、訴訟についても裁 判所の職権活動をできるだけ制限すべきことが主張される。これらの諸点 を総合的に考慮するときは、通常の民事訴訟については弁論主義を採用す るのが適当であり、またこれを採用せざるをえない、といえる」と、この 点については私見と殆ど同じ見解を披歴しておられるのである。(注7)

  ェ 以上によれば、弁論権が弁論主義に固有のものではないことを認 めるについてはやぶさかでないが、弁論権は弁論主義の前提とされ、いわ ば両者は不可分一体の関係にあることからすれば、弁論権が弁論主義の内

ドキュメント内 弁論主義論 (ページ 58-116)

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