に傾斜した K 号巨岩があり、北東端は崖をなす。こ の北東側上面は中央部の「深い溝の中に、山土と礫を 埋めて地ならしを行い、更に基岩が西側傾斜面に移る 部分を石塁で固め、こうして出来あがった壇上を平ら な比較的大きな石と土礫でかため、その上に礫石を敷 きならべたという状態」(同上書 頁)の祭壇とみられ る施設が構成されている。その範囲は北西側の b 石 から南東側の k 石に至る .m 余り、北東−南西方は I 号巨岩の岩陰部から K 号巨岩上の露天部に至る . m 余りの長方形となる。この範囲には a~k 石が被せ られていて、奉献遺物の上を覆っていた状態が復元さ れる。さらに K 号巨岩上祭壇の西側傾斜面の大部分 は I 号巨岩の岩陰部となり、「祭壇の西端を限る石塁 より、約三〇度前後の傾斜をもった基岩(K 号)の上に あり、内行八花文鏡の発見されたところである。この 鏡は石塁の下方に散らばった礫の上に、鏡面を上にし て、あたかも置かれたような状態で発見された。しか
もそれは、基岩の傾斜にそって、約三三度の傾きを有 し、鏡の下敷になった礫には綠靑が付着していた。」(同 上書 頁)さらにこの鏡の下方約 cm あたりから硬 玉製大勾玉が発見されている。これらについて報告書 では「元来石塁の脚部にあたる I 号巨岩の岩陰におか れたのであろう。(中略)最初礫群を敷きならべて平ら にし、鏡と玉を相接して供え、その下方に鉄器類をな らべ周囲に礫石を配置したのではないか」(同上書 頁)と推測している。
以上、岩上祭祀段階の 〜 号遺跡における祭祀遺 構の構造・祭祀遺物の奉献状況について検討を加えな がら通覧してきた。いずれも基礎巨岩の上に乗ってい る I 号巨岩上端( 号)や、I 号巨岩周縁の岩陰と、そ れに連続する基礎巨岩上( ・ ・ 号)に奉献場所を 選定し、傾斜面に敷石して平坦面を形成するが、奉献 場所の不安定な 号遺跡のごときは 面の鏡を集積し た。しかしある広さが確保できる 号・ 号遺跡では、
奉献品を並列的に配置した。そしていずれもそれらの 上に大・小の裂石を被せて、遺物が露出しないように する配慮がなされていた。 世紀後半に始まる岩上祭 祀段階は、本稿の最初にとりあげた 号遺跡を最後に 位置づけられている。 号・ 号遺跡に始まり、 号・
号遺跡に継承されて 世紀中頃の 号遺跡に至る流 れが推察できる。 号遺跡に至って長方形状の祭壇が 形成され、 号遺跡に至っては独立した巨岩上に方形 状祭壇が構えられ、その中央には降神の依代としての 大形塊石が据えられる祭祀形態を出現させたのである。
つぎに岩上祭祀に後続する岩陰祭祀段階では、
号・ 号・ 号・ 号遺跡などが内容をほぼ知りうる ところまで発掘調査が行なわれている。これらのうち 号・ 号遺跡はかなり奥深い岩陰を形成する巨石下 に祭場を設けているが、特に祭壇といえるほどの区画 はみられなかった。ただ奉献品の発見範囲が、岩陰の 上端輪郭線の外に出ないように配慮されていることが うかがわれた。基底面に裂石片が発見されるところも あるが、基本的に平坦面を保有しているためか、全面 的に祭壇を設けてその輪郭を明確にする必要もなかっ たのであろう。したがって祭壇遺構の輪郭が形成され ていた 号と 号の両遺跡について見ておこう。
号遺跡は沖津宮前の道を登ってゆくと、B 号巨岩
第 図 号遺跡付近の地形図 (『続沖ノ島』第 図より)
第 図 号遺跡断面図 (『続沖ノ島』第 . 図より)
(通称「御金蔵」= 号遺跡)の傍らを過ぎるとそそり立 つ C 号 巨 岩(高 さ .m)に 至 る(第 図 参 照)。こ の 北側のふかい岩陰が 号遺跡となる(標高約 m)。北 側の岩陰は基底部から約 度の角度で立上がって庇に 至る岩陰は東西 .m・南北 .m の広さがあり、ここ に「東西 .m、南北 .m の長方形の祭壇を構築して いる。」(『宗像沖ノ島』 頁)祭壇遺構の外郭はかなり 後世に撹乱されているものの、残存する礫片の並びと、
さらにその北側と西側に沿って L 字形に配された幅
.m の溝状遺構によって明確にすることができた。
これは現地でその輪郭を示すために筆者も立会って線 引きしたところであったが(第 図写真参照)、残念な がら遺跡の平面実測図の方への記載を逸してしまって いる。この溝状遺構は、遺跡の基底面が西側に緩傾斜 する状況にしたがって北側は西方に下降し、さらに西 側は南方に下降して排水の役を果している。祭壇の基 底面は礫片や土砂によって形成されていたと思われ、
その範囲は岩陰の全面に及び、庇の外郭雨落線を大き くはみ出さないように配慮しつつ最大限に利用された ようである。このことは 号・ 号遺跡などの岩陰遺 跡でも認められるところである。
つぎに 号遺跡は第 次調査時に発見されたもので、
沖津宮北側に集積する巨石群の北東にあたる最も離れ た標高 m、社殿から m ほどのところに位置してい る。ここに立つと眼下に玄界灘が一望できる眺望に惠 まれた最高所の遺跡である。南面する遺跡は、岩陰部 をはずれると黄金谷にむけて急傾斜で下降してゆく。
岩陰にむかってその右と左には巨岩が在り、「それを 台石として約 °の角度で覆いかぶさるように大きく 巨岩が張り出し、庇部を形成している。基底部より庇 までの高さ は .m で あ る。(中 略)巨 岩 に よ り 東・
西・北側の三方を『コ』の字形に囲まれ、岩陰を形成し ている。」そして「根石にしている 個の巨石を利用し、
南側には大小さまざまの石英斑岩で石組みをつくり、
祭壇状遺構をなしている。祭壇は南北に長い .× . m の長方形を呈する。」さらにこの「祭壇西隅で巨岩の 基底部に接して m 四方の正方形プランの石囲いの 張出し部をつくっている。石囲いのなかは、深さ cm ていどの掘込となっている。」この石囲い(「別区」)内部 の土砂や礫をとり除くと、「金銅製および鉄製雛形品
にまじって、滑石製の臼玉・平玉などが投げ込まれた ような状態」(以上、同上書 頁)で発見されている。
また、岩陰をはずれた祭壇端の露天部に有蓋杯・壺・
大甕などの須惠器容器が配置されるなど、つづく半岩 陰・半露天段階( 号遺跡)に接近する内容がみられて、
世紀代まで降る様相がうかがわれ、岩陰祭祀の最終 段階に位置づけられた。
一方、 号遺跡にあっては後世の撹乱によるためか 遺物量は少ないが、鏡鑑類はみられず金銅製品(銅鋺・
雛形容器)・馬具(金銅製歩揺付雲珠)・滑石製玉類・
須惠器(壺・器台)などが注目される。新羅系金銅製品 が目立つ 号遺跡と共通する面がみられるとともに 号遺跡ともかかわる面もみられる。 号遺跡に先行す る位置付けが考えられ、 世紀末ごろまでさかのぼる 可能性も考えられる。また報告者は上記 面相を区分 して「 回以上の祭祀が行なわれた可能性」を強調して
「岩陰遺跡のなかでは新しい」時期にあたるとしている
(同上書 頁)。
以上、岩上祭祀(第Ⅰ段階)から岩陰祭祀(第Ⅱ段階)
へと通覧して、そこに奉献遺物の内容の変遷もさるこ とながら、奉献場所(祭場)の推移や奉献の在り方が注 目されてきた。岩上祭祀段階の始まりは 世紀後半に さかのぼり、 号・ 号遺跡が比定され、鏡・武器・
玉類を主体とする前期後半の古墳副葬品の内容に相当 する様相であった。つづく 号・ 号遺跡ではこれま での不安定なせまい基盤岩上に置いていた状態から、
土砂や礫片でやや広く安定した場所(長方形の祭壇状 遺構)を設営して、奉献遺物も集積(積み重ね)方式か ら並列方式に移行されるようになった。そして通じて 奉献品の上に覆石して、遺物を露出させないような基 本方式が採用されていた。流失から保護するとともに、
後人の目に触れさせない思考が働いていたのであろう。
それが岩上祭祀の最終時期に位置付けられる 号遺跡 に至っては、露天岩上に大・小の礫片で方形祭壇を設 け、その中央に降神の依代に擬される塊石を据える祭 場が形成された。 号遺跡以前の奉献場所は、容易に 参会者達の目に触れる位置にあるために覆石される必 要があったが、 号遺跡は高く屹立した上面平坦にち かい場所が選ばれたので、祭祀にあたっては司祭者の みが方形の祭壇のそばまで登り、参会者達は巨岩の根
第 図 号遺跡 左・遺跡全景と C 号巨岩 右・祭壇状遺構(調査終了後) (『宗像沖ノ島』より)
第 図 号遺跡の平・断面図と遺物出土状態平面図 (『宗像沖ノ島』Ⅰ.Fig. , より)
第 図 号遺跡 (『宗像沖ノ島』より)
上・調査後の祭壇状遺構全景 下・別区(方形石囲い)