第 10 章 水源地における人の生活の移り変わり
印旛沼の流域はすべて人の生活圏にあり、そこが水源地です。そこに住む人の生活の仕 方が、水源としての機能に強い影響を与えています。
印旛沼流域の人々は、これまでどのような生活をしてきたのでしょうか。その移り変わ りを振り返ってみることにしましょう。
1 古村の誕生と湧水
古代における谷津開発の経緯は、谷津の堆積物に含まれる花粉化石を分析して植生の時 代ごとに変化する様子を調べることによって知ることができます。花粉分析は、印旛沼西 部から続く新川の平戸地先の沖積層で行われています4) 。この地点における古鬼怒湾(第 1 章参照)の海進が終わったころに相当する深さ 1.85~1.35m の堆積物の花粉化石をみる と、湿地の拡大に伴ってハンノキが増加する時代があり、続いて急に減少する時代に移行 しています。この時代にハンノキ林が水田になり、水田稲作が始まったと考えられます。
そして、コナラ・クマシデなどの花粉に混じってソバが出現しています。台地上でも農耕 が始まっていたかもしれません。
その上位に当たる深さ1.15m~の堆積層からは、マツ属が急に増加して50~70%にも達 し、ソバ属が連続して出現しています。台地上では、マツの植林やソバの栽培が盛んに行 われていた模様です。この堆積物の時代は、約1400年前、大和時代の古墳時代末期から白 鳳期に相当すると思われます。この頃、台地上を含めて古村として人の定住する基盤が出 来上がったことでしょう。
印旛沼流域の南に隣接する村田川支流の谷津堆積物でも花粉分析が行われています 5)。 ここでも新川流域の結果とほぼ類似した植生の経過をたどっていますが、谷津の開発や台 地上に人の手が加えられた時代は奈良時代頃と推定され、印旛沼流域より少し遅れていた 模様です。
[余話 8]谷津田を拓く
常陸風土記(奈良時代 8世紀初頭のもの)の行方郡条にこう書いてあります6)。麻多知 という人物が谷の葦原を開田しようとしたとき、夜ヤ刀ツの神(蛇の身で頭に角がある)が群 れをなして現れて耕作をさせなかったので、打ち殺して駆逐した。そして山の入り口に標 を置いて「これより上は神の地とする。下は人の田とする。今後は神の祝となって永代に 敬い祭るから祟りや恨みはしないように。」といって社を設けた。
その後、壬生連麿呂が谷の地に池の堤を築こうとしたところ、夜刀の神が椎の木に集ま ってきた。麿呂は「この池は民を活かすために築くのだ。どうして従わないのだ。目に見 えるもの 魚虫の類はすべて打ち殺す。」といったところ、神らしい蛇はいなくなった。そ の池は 椎シイ非ヒの池といって清泉が出る、とあります。山の神を祭りながら次第に谷津の奥ま で水田を開いていった様が伺われます。印旛沼流域の谷津の開発でもこれと似たことがあ ったことでしょう。
(2) 古村と湧水
[生活用水] 古村の生活用水は、時代を遡る程湧水を直接使っています。七井戸、
八つ井戸などは、湧水そのものが生活用水に使う「井戸」でした。
時代が経つにしたがって、井戸を掘る技術が発達し、住居の近くに井戸を掘って使うよ うになりますが、古村の中には、現在でも台地の崖から出る湧水を生活用水に使っている 集落があります。夏冷たく冬温かい湧水は、普通の水道水にはない使い勝手の良さがある と言っています。
[谷津田の灌漑用水] 古村の生活基盤となっている谷津田は、湧水を引いて簡単に稲
作ができます。谷津田は、湧水と雨水だけで耕作する「天水田」でありながら、干ばつの 年でも涸れることのない湧水のおかげで「日照りに不作なし」と言われるほど干ばつに強 く、その上、大河がないので洪水被害はあまりありません。日陰・冷水温、それに強い湿 田状態などのために高い収量は望めませんが、どんな天候の年でも安定した収穫が保証され ています。湧水のもたらす谷津田のこの性質が、長期にわたって古村の存続を保証していま した。
しかし、年中いつでも少量の水が湧く湧水の利用は、稲の生育時期にあわせた水管理に 向きません。作土が柔らかいために、機械化現代農業に必要な大型トラクターは使えませ ん。稲作の生産性向上と湧水の保全は、難しい関係に差し掛かっています。
[余話 9]湧水の保全方法
古村の湧水は、稲作や生活用水として欠かせない大切なものでした。昔の人は、その湧 水を保全するために法律を作って「○○をすると罰する」といった方法はとっていません。
その代り、弁天様に見守ってもらったり、故事来歴などによって親しまれ、時には畏れら れて、湧水保全の方向に軟らかく導いて、湧水を保全してきました。
しかし、現在のように湧水を直接使わなくなると、湧水はいつの間にか忘れ去られよう としています。そんな中で、現在でもよく保存されている湧水に、おいしい水として汲み に来る湧水(長寿水など)、親水公園または生きものの保全のための湧水(都市公園、ビ オトープなど)、故事来歴を大切にする湧水(加賀清水など)、災害時緊急用水の湧水(く もの井など)、などなどがあります。中には、個人で夏の冷たい湧水を生活用水として補 助的に使ったり、ワサビを数株植えて楽しんだりしているところもあります。湧水の保全 は、使うことが一番のようです。昔の保全方法を参考にしながら、現代風に湧水を利用し ている事例をみることにしましょう。
長寿水 : 成田市川栗に長寿水という看板を立てた崖の湧水があります。団地の若い奥 様方が車で来て、この水を飲んだり汲んで帰ります。長寿という名前にひかれて、この湧 水がみんなに親しまれ大切にされています。
この湧水の涵養域にゴルフ場の造成が計画され、涸れることが予想されました。事業者 は、地元で大切にしていることを知って湧水の保全対策を行い、今でも湧き続けています。
「長寿」という一言によって、水汲み場として親しまれ使われていたことが、湧水保全に 役立ちました。
加賀清水 : 佐倉市井野の佐倉街道沿いに、加賀清水があります。佐倉城主加賀の殿様 が、参勤交代の折にここの茶店に立ち寄って、冷たくおいしい清水を愛でたという故事が あり、親しまれています。飲み水の少ない台地上の清水が、旅人を魅了していたのでしょ う。現在は、この由緒ある湧水の池を中心として、住宅地の親水公園として湧水の保全活 動が行われています。
クモの井 : 佐倉市鏑木にクモの井があります。昔、周辺の木を切ろうとしたところ、
クモが現れ、「ここは私たちの住処です。木を切らないでください。その代り、崖に涸れ ることのない清水を出して差し上げましょう。」と言いました。村人がその通りにしたと ころ、湧水がわき出したといいます。この湧水は、災害時の緊急用水として大切に保全し てきましたが、その場所に家が建ち、一時下水道に放流されていました。現在は、緊急時
用水の重要性が再認識され元の姿に復活しています。
その他 : 印旛沼流域には、故事来歴のある湧水がたくさんあります。公津の七井戸、
権現水、千葉水、延命水、牛もぐり池、子也清水、勝間田の池、乳清水などなどです。そ の他に弁天様を祀った池があちこちにあります。これらの湧水は、いずれも、古村の湧水 保全方法を利用しながら、何らかの形で現在も人との関係を維持し、湧水の保全を図って います。
湧水の保全は、湧水地点ばかりでなく、湧水の涵養域の保全が大切です。印旛沼流域で は、「背戸山の木を切ると身上がつぶれる」という言い伝えがあって、屋敷の裏山の木を 大切にしてきました。お蔭で古村の家々は樹林に囲まれ、北風を防ぐだけでなく、雨水浸 透にも役立っています。
鎮守の森は至る所にあります。社は小さくても森だけは遠くからそれと分かる立派なも のです。森の中に入ると、樹齢数百年の大樹が生い茂り、幹の根元に小さな祠を置いてあ ります。落ち葉が積り、下草がほどよく育って、どこかしっとりとしています。雨水はこ の極相林の中で、ゆっくりと地下に滲みこんでいきます。
また、木を切ると祟りがあるという言い伝えのために、切らないでおくところがありま す。ある処で道路工事のために、崖の木を切ったところ、崖崩れを起こして難工事になり ました。地元の人は、昔からの祟りの言い伝えを守らないためだと言っていました。この 場所は、地下水が近くて崖崩れの起りやすいことを経験的に知っていて、人の手を加える ことを避けていたのでしょう。言い伝えには、一見不条理なことがあっても、よく調べる とそれなりの理由のあることがあります。
このような昔の保全手法は、水や樹木を「モノ」とする理詰めの見方から、人の心の奥 まで滲み込んだ感性にまで深めているので、人はそれと気の付かないうちに湧水は保全さ れていました。
古村の人々は、湧水を保全しようとする目的意識がなく、自然体で対処しているので保 全活動を長く続けても疲れません。持続性に優れている反面、理詰めでないことから、社 会体制や価値観が急変したときについていけない、という欠点をもっています。私たちは、
現代感覚で古村の仕来たりを改めて見直し、長所を残して短所を補う形で、先人の知恵を 学びたいと思います。