8.6 古典論の限界
8.6.1 ベクト ルカレント の強さ
Fermiによって考案され,その後さまざまな改良を加えられた弱い相互作用の古典論は,
弱い相互作用に起因する過程を良く記述することが確かめられてきた.特に,ベータ崩壊と µ粒子の崩壊のエネルギースペクトルや角相関に対しては,極めて高い精度で実験データを 再現している.また,弱い相互作用のベクトルカレントの保存は,レプトンカレントだけで なく,強い相互作用をするハドロンのカレントにおいても普遍的な唯一つの結合定数が存在 することを示唆している.
ここで,図8.20に示す3種類のベータ崩壊におけるベクトル型相互作用の強さを比較す る.これらの過程のうち,Λ粒子の崩壊を記述するには新たなハドロンのカレント
µ νµ
e νe
n
p e νe
Λ
p e νe
図8.20: µ粒子(左),中性子(中),Λ粒子(右)のベータ崩壊
Jµ(Λ) = gΛψpγµ(1−λγ5)ψΛ (8.76)
を(8.64)に加えて導入しなければならない.このカレントも含めて,図8.20に示した3種
類のベータ崩壊におけるカレントの結合,及び結合定数は次の表にまとめられる:
表8.8 弱い相互作用のカレントの積と結合定数 過程 カレントの積 結合定数 µ粒子の崩壊 J(µ)µJµ(e)
† gµge=Gµ/√ 2 中性子の崩壊 J(N)µJµ(e)
† gNge =GµCV/√ 2 Λ粒子の崩壊 J(Λ)µJµ(e)
† gΛge
3つの崩壊過程に ge は共通に含まれるので,ベクトル相互作用の強さの違いは,gµ,gN, gΛ の違いに起因する.
前に見たように,gµ とgN とは 2%程度の精度で一致する:
gµ=gN [1 + (0.022±0.002)] (8.77)
この差は小さいようであるが,誤差はさらに1桁小さい.すなわち,実験的には有意な差で あり,何らかの理論的説明が要求される.
ハイぺロン(Λ粒子)のベータ崩壊の実験の精度はあまり良くないが,ベクトル型相互作用 の強さはおよそ
gΛ ≈ 0.2gN (8.78)
程度である.中性子のベータ崩壊の強さと比較するとずっと弱く,弱い相互作用の普遍性が 破れている.しかし,中性子と Λ 粒子を合わせると,
gµ =
gN2+gΛ2 (8.79)
が,高い精度で成り立っているようである.
8.6.2 メソンの崩壊
弱い相互作用の古典論の重大な欠点の一つがメソンの崩壊である.フェルミオンの4元 カレントは,たとえば,Jµ(N)=gNψpγµ(1−λγ5)ψnと表されるが,メソンに対しては同じ 形で表現することができない.たとえば,π− のベータ崩壊(8.73)π−→π0+e−+νeのハ ドロンカレントは
Jµ(π)=gπ
√2 c¯h
(∂µφ0)φ†−φ0(∂µφ†)
(8.80) と書くことができる.ここで,φ0はπ0 の場,φ†はπ±の場を表す.フェルミオンのカレン トとは明らかに異なる構造をしている.ただし,前に見たように,π− のベータ崩壊 (8.73) はベクトルカレントの保存(CVC)と密接に関係しており,上の構造を仮定すると gN ≈gπ が導かれ,実験で検証されたベクトルカレントの保存を再現することができる.
軸性ベクトルカレントの部分的保存(PCAC)においても,πの崩壊が重要な役割を果た している.この過程に関与する崩壊π−→e−+νe( 図 8.19)は,式(8.73)の崩壊と異な り,ハド ロンカレントは保存しない.すなわち,π のハド ロンカレントは式 (8.80)の形で も表すことができない.
このように,弱い相互作用の古典論は,メソンの崩壊をフェルミオンと同じレベルで記述 することができない.現在,我々は,核子もメソンも素粒子ではなくクォークから構成され る構造を持った粒子であることを知っている.観測されるハドロンをクォークから成る系と して,メソンの崩壊を核子や他のフェルミオンと同等に記述する理論が期待される.クォー クはスピン 12 を持つフェルミオンであるから,弱い相互作用の古典論をクォークレベルの 記述に適用できそうに思われるが,古典論で採用している点状相互作用の仮定も捨て去らな ければならない.
8.6 古典論の限界 185
8.6.3 高エネルギー散乱の断面積
弱い相互作用の古典論が採用している点状相互作用は,高エネルギー散乱の断面積を定 性的にも再現することができない.ここで,一例として,電子とニュートリノの弾性散乱を 考える.古典論に従えば,この散乱の断面積(重心系)は近似的に
dσ(νe+e−→νe+e−)
dΩ = Gµ2Eν2
π2c4¯h4 (8.81)
で与えられる.Eν は重心系でのニュートリノのエネルギーである.もし,この式が正しい のであれば,断面積はニュートリノのエネルギーの2乗で限りなく増大する.
一方,散乱理論によれば,散乱振幅は部分波に展開される.構造を持たない点状の電子 とニュートリノが一点で相互作用するのは,軌道角運動量E= 0のS波だけである.このと き,散乱断面積は
dσ
dΩ = c2¯h2
4Eν2 |M0|2 (8.82)
と表される.ここで,|M0|はS波の部分波振幅で,常に |M0| ≤1が成り立つ.つまり,式 (8.82)は断面積の上限を与える.従って,式(8.81)は高いエネルギー領域で式 (8.82)と矛 盾する.簡単に |M0|= 1とすると,両式が等しい断面積を与えるのは,
Eν = π
2 c3¯h3
Gµ
1/2
∼300 GeV (8.83)
のときである.すなわち,エネルギーがこのくらい高くなると(実際にはもっと低いエネル ギーで)弱い相互作用の古典論は適用できなくなる.電磁相互作用と弱い相互作用を統一し た現在の理論では,弱い相互作用は W±ボソンによって媒介され,その質量が約 100 GeV である.W± ボソンの質量に対して十分低いエネルギーの領域では,点状相互作用の近似 が悪くないが,W± ボソンの質量に対して無視でない運動量移行が伴う高エネルギー反応 では,点状相互作用が成り立たなくなる.
上に示した散乱断面積の表式はかなり単純化した考察である.しかし,古典論が高エネ ルギー領域で破綻することは明らかである.これは,点状相互作用の問題でもあるが,古典 論が繰り込み可能でない理論であることに深く根ざしている.