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(1)戦前期の北陸(帝国)大学と高等教育機関設立運動

ドキュメント内 戦時体制から新制大学 の発足に向けて (ページ 61-68)

以下では、戦前の日本の高等教育政策の流れの中で、石川県や金沢市にかかわる戦前の 政府の高等教育政策を、北陸帝国大学設立運動を中心に述べることとする。なお、「高等教 育」の概念は、法制的にも学問的にも必ずしも明確ではない(藤原良毅『近代日本高等教 育機関地域配置政策史研究』参照)。ここでは、とりあえず中等教育段階以上の高度の専門 的・職業的(新高等学校令以後の旧制高校の「高等普通教育」を含む)教育と考えておく こととする。

明治前半期

幕末、維新期以後、1872(明治5)年の「学制」の制定にいたるまでの大学設置構想 は、皇居の所在地である(あるいは「あった」)京都・東京以外の地には関係がなかった。

学制が制定され、全国を8大学区に分け、さらに各大学区を32中学区、各中学区を210 小学区に分け、それぞれの大・中学区に大・中学校を各1校ずつ設ける壮大な計画となっ た。しかし、この段階では、事実上高等教育には全く手がまわらなかった。ただし、計画 としては、第三大区では石川県を大学本部設置地(第一大区では東京府、第二大区では愛 知県、第四大区では大阪府、第五大区では広島県、第六大区では長崎県、第七大区では新 潟県、第八大区では青森県)としていた。しかし、早くもその翌73年には学区の数が7つ に整理され、大学本部設置地として石川・青森両県は除かれ、宮城県が新たに加えられた。

1886(明治19)年、初代文部大臣森有礼の遠大な計画により、当時唯一の東京に設立 された帝国大学と、そこへの全員進学を原則とする5つの高等中学校(東京・仙台・京 都・金沢・熊本)の国内分散配置という高等教育政策が出発した。この内、第四高等中学 校が金沢に設置された事は、金沢の文化伝統と誘致運動と高額な拠出金などの結果であろ う。(第1章2節(2)参照)また、当時の金沢市はまだ人口が全国で上位を占めていた

(1884年の『文部省第六年報』によれば10万7千人で、東京・大阪・京都・名古屋に次い で全国5位であった。)という事も影響していたのであろう。

明治後半期の動向と金沢医学専門学校の新設

井上毅文相時代(1893〜94年)は、高等教育機関の整備・充実が一課題ではあったが、

この時期に制定された高等学校令では、四高を含む(旧制)高校を帝国大学進学への予備 教育主体の学校とせず、専門学科主体の機関と位置づけ、地方の高等教育機関整備への階

梯としようとしていた。事実、実現はしなかったものの1902年11月の第七回高等教育会 議(文部大臣の諮問機関)で、菊池文相は「岡山と金沢の高等学校は、是は追って工業専 門学校に変える積もりであります。」(藤原、前掲書参照)と言明していた。

さて、1890年に第1回帝国議会で提出された自由党の「西京大学」構想以来、持続的 に提起されてきた京都への第2帝国大学設置運動は、日清講和条約締結後の「戦後経営」

の一環として西園寺文相のもとで急速に具体化した。そして、1897(明治30)年6月に 京都帝国大学(法科大学・医科大学)が開設され、実を結んだのである(本山幸彦『京都 府会と教育政策』参照)。

すでに1886年の京都府の第3高等学校誘致運動が、第2・第4・第5の「誘致合戦に も少なからず影響をおよぼしていた。」(中村隆文「高等教育機関誘致運動」、本山、前掲書)

が、明治30年代ごろには官立高等教育機関の存在は、地方的威信のシンボル(伊藤彰浩

『戦間期日本の高等教育計画』)と見なされるようになっていた。それは帝国議会における 議員の建議案の件数の多さからも分かるように、積極政策・積極主義を標榜する立憲政友 会系政党が、明治30年代前半期に官立高等教育機関設立の要求をすくい上げはじめていた

(伊藤、前掲書参照)。

たとえば、1899(明治32)年1月の第13議会(通常、貴族院)では、三島弥太郎、久 保田譲により「高等学校及帝国大学増設に関する建議」が出された。翌1900年1月の第 14議会(通常、貴族院)で「学政調査会設置に関する建議」の提案説明者久保田譲と菊池 大麓文相の激しい応酬の中で、文部省は「財政の許す範囲において、大学を整備する」と いう方針を表明した。1900年2月、三島弥太郎ほかの提出した「高等学校及大学校増設 に関する建議」においては、「大学は九州及び東北に設立するのが適当と判断される」と、

その提案理由の中で言明されたが、その有力な根拠の一つは、「地方は挙って大学校に対す る創立費も寄附せん」であった。(藤原、前掲書)すなわち、地方からの先行投資としての 多大な出費なしには、高等教育機関の誘致は、事実上実現不可能であった。

ともあれ、こういう流れを背景に、1901年の第15議会(衆議院)で「九州東北帝国大 学設置建議案」(星亨外)が提出され、この論議の中ですでに1900年暮れの高等教育会議 でも九州・東北帝国大学設置を建議し、可決していた事が明らかにされた。この第15議会

(通常、貴族院)には、「北海道帝国大学設立の請願」や「札幌農学校を大学と為すの建議」

も続々と提出されるようになっていた。

このような流れの中で、1907(明治40)年、札幌に東北帝国大学農科大学が設置され、

1911年には、仙台に東北帝国大学理科大学、福岡に九州帝国大学工科大学および医科大 学が設置された。これら九州・東北帝国大学の開校は、北陸の中心都市を自認していた金 沢の地に微妙な刺激を与えたと思われる。高等学校令制定(1894年)時の井上毅文相の 政策意図が、高等学校をいずれ大学にするというものであったことも関係する。

当時金沢における官立高等教育機関は、第四高等学校がはじめての存在であったが、

1903年4月施行の専門学校令によって、千葉・仙台・岡山・長崎とともにいち早くに設

立された金沢医学専門学校が2番目となった。

北陸帝国大学設立の衆議院への建議と経過

金沢の帝国大学設立運動は、1907(明治40)年前後より本格化する。一説によると、

「北陸大学の話は、明治40年初頭、高峰譲吉がアメリカから帰ってきてしばらく金沢に滞 在した時、初めて持ち上がった。―中略―高峰はこのあと、帰米のさい文部省に意向を聞 いたところ、文部省ではもしつくるとすれば金沢だろうとの意向だったので、これを金沢 市安江町の呉服商能久治に伝えてきたことから、地元の運動が次第に大きくなってきた。」

(石林文吉『石川百年史』)と言われている。当時の北国新聞にも、「高峰博士は、―中略―

昨秋帰朝して親しく郷土を見、突として北陸大学設立の急要を要路に説く。高安博士は病 院を督し、医専校を管して―中略―頗る切。先づ第1着として、切

めては医科の一分科な りとも、之を企つるに如くなき也。要は創設に財を投ずるの一時若干のみ。其後数年にし て特別会計法の下に、医科大学が収むる所は優に之を償うて余あるに至らんこと、既往現 在の等しく之を証せる所にして(略)」(1907年8月15日「北陸大学設立の議」)などとある。

1907年8月31日と9月1日、北国新聞は一面トップに「北陸大学(上)教化の分布」

「北陸大学(下)教化の分布」を載せた。(上)では、「帝国大学設置の意味は、学術上はも とより、その徳義上の影響が大きい」と論じ、(下)では、「近年に至り大学を各地に分散 するの傾向を生じ東北帝国大学の将に新設されんとするは実に喜ぶべし。―中略―此際に 於いて前日の教育大会に於て、村某氏の提出せる北陸大学設置建議の議は、実にその時 期を得たるものと謂ふべし。」と、地元の教育大会に於ける北陸大学設置建議をとりあげて いる。

1908年9月2日の北国新聞では、「私立石川県教育会、8月25日北陸大学設置の建議可 決」と再び報道している。しかし、この地元の気運は、これ以上の大きな盛り上がりはな かったようである。

1910年1月1日の北国新聞では、再びこの気運を報道しはじめた。すなわち、法学博 士戸水寛人の「北陸大学を建議すべし」「一国の文運に伴ふべき大学の爾く僅少なるは、我 国高等教育普及における一大欠点」などの記事を載せた。このころから、地元出身代議士 戸水寛人は、この問題に本気で取り組みはじめたと推測される。翌11(明治44)年2月 1日の北国新聞でも、「北大建議案提出」などの記事を載せ、「北陸大学設置の議は既に戸 水博士に拠りて議会に提せられしが、―中略―今後文部省以外に向かっても運動を試むる を要すべし」と報じた。

第27議会(衆議院)における「北陸帝国大学設立の建議案」の審議経過

「北陸帝国大学設立の建議案」(戸水寛人外5名)は、第27回議会(衆議院)において 1911年2月2日提出され、2月18日可決された。ここではやや詳細に、この建議案の趣 旨や審議経過を追ってみる。

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