• 検索結果がありません。

共和主義の「継承」と「転換」

ドキュメント内 1.表紙 (ページ 72-147)

第4章: 1583 年のケルンの軍制改革

序章でも紹介したように、中近世におけるマインツの権力構造を論じた神宝は、都市の 二元的権力構造を規定する参事会と市民の双務的関係が、中世から近世への時代的変化の 中で、次第に片務的な性格を強めたことを指摘した1。こうした近世都市の権力構造の変化 は、参事会と市民の政治的対話の変化とともに進行したと考えられる。

このような見通しに立って、ケルンの二元的権力構造の変化を探ろうとする場合、その 手掛かりを、1583年10月17日の警備条令(Wachtordnung)に規定された、新しい軍事 制度に求めることができる2。この条令の公布とともに、市民の軍事活動は、ガッフェルで なく、街区を基盤とする新しい軍事組織を単位として行われることとなった。市民の軍事 活動のあり方を一変させたこの出来事は、軍制改革と呼ぶに相応しい。もちろん、序章で も述べたように、歴史は断絶のない連続した流れであり、ケルンの権力構造は、1583年の 軍制改革という 1 つの出来事によって変化したわけではない。本章の課題は、1583 年に 導入された新しい軍事制度の中に、16世紀後半から次第に顕著となり、恐らくは近世を通 じて進行する、近世都市の権力構造の変化の方向性を読み取ろうとする試みに過ぎない。

しかし、それが都市社会に与えた影響の大きさに鑑みるならば、市民たちが 1583 年の軍 制改革に合意を与えた理由を考察すべきであろう。

そこで本章では、最初に 1583 年の軍制改革に至る経緯を概観した後、新しい軍事制度 の組織について述べ、その軍事組織とガッフェルにおける市民の人間関係と政治的機能を 検討する。これらの作業を通じて、都市の二元的権力構造の変化を明らかにする。

1. 軍制改革の背景

1583年に参事会が軍制改革を行ったとき、ケルン周辺のライン河流域、そして都市内部 では、カトリックとプロテスタントの宗派対立が激化していた。以下、その様子を概観し、

参事会が軍制改革を企図し、市民がそれに合意を与えた理由を考察する。

「ケルン戦争」

1577年12月5日にケルン大司教となったゲープハルト・トルフゼスは、やがて自身の ルター派への改宗と、ケルン大司教領内への宗教改革の導入を目論み、彼の顧問官、司教 座聖堂参事会(Domkapitel)、ケルン大司教領の諸身分との間に対立を生じさせた3。この 対立は、帝国内外のプロテスタント勢力とカトリック勢力を巻き込みながら、「ケルン戦争」

(Kölnischer Krieg)に発展する。1582年11月4日、大司教ゲープハルトはボンに軍隊

1 神宝『中・近世ドイツ都市の統治構造と変質』443頁。

2 1583年10月17日の警備条令は、ケルン市立歴史文書館に保管されている。 HAStK,

Best. 14, Nr. 6, 67 (Wachtordnung von 17. Oktober 1583).

3 ライン流域の宗派紛争とケルン戦争については、以下の文献を参照した。Lossen: Krieg; Petri / Droege (Hg.): Rheinische Geschichte, Bd. 2, S. 83 – 110; Janssen: Kleine

rheinische Geschichte, S. 187 – 189.

を派遣し、12月12日にこの都市を占領すると、12月19日には自身のルター派への改宗 を宠言し、大司教領内の臣民の宗派選択の自由を認めた4。これに対し、ケルン司教座聖堂 参事会は、1583年4月26日に大司教の廃位を宠言し、5月23 日には、バイエルン公エ ルンスト・フォン・ヴィッテルスバッハを新大司教に選出した5。もちろんゲープハルトは これを承認せず、事態は新旧大司教の軍事衝突に発展する。しかし、ヴィッテルスバッハ 家出身の大貴族であるエルンストは、軍事力においてゲープハルトを圧倒していた。1584 年2月5日に彼の軍勢がボンを占領すると、両者の争いの帰趨は決した6

この2人の大司教の争いは、ケルン大司教の支配領域の外部にあったケルン市にも深刻 な影響を及ぼし、都市の平和を脅かした。カトリック・プロテスタント両軍の戦闘や傭兵 隊の略奪行為は、都市の周辺にまで及んでいた。そして何よりも、ゲープハルトの改宗と ケルン大司教領への宗教改革の導入は、当時カトリック諸侯への接近を図っていた参事会 の「外交」政策を根本から揺るがしかねなかった。都市と大司教の公認宗教が相違するな らば、伝統的に都市の自治をめぐって緊張状態にあった両者の関係が、一層悪化すること は間違いない。

都市の平和は、ルブラックの言う近世都市の「基本的価値」の1つであり、それが脅か されていることに対する危機感は、市長や参事会員のみならず市民の大半によっても共有 されていたであろう。そしてこのことは、都市の防衛体制の強化を促したと考えられる。

しかし、こうした状況に、従来のガッフェルを単位とする軍事活動で対応できるかは、問 題であった。

約100年前の1475年2月、皇帝フリードリヒ3世の要請を受けて、ケルン市から1400 人の軍勢がノイスに向けて出発した。ブルグント公シャルルに包囲されたこの都市を、援 助するためである7。ちなみに、1475年9月9日に皇帝がケルンに帝国自由都市としての 地位を公認したのは、この功績に酬いるためであった。この軍勢は、ガッフェル毎に召集 された―織布工ガッフェルは152人の兵士を提供した―が、その中にどの程度普通の市民 が含まれていたのかは不明である。その一部は戦闘を生業とする傭兵であったであろう8。 しかし、ゴットシャルク・ヴァインスベルクは、1481年にケルンの市民権を獲得したが、

彼の孫はこれについて、祖父が、ノイスで戦った功績のために、参事会から市民権を与え られたと主張している9。これは、ヘルボルンも指摘しているように、ノイスの戦闘が、ゴ ットシャルクの市民権獲得の6年前の出来事であることを考えても、信憑性に乏しく、す でに述べたように、彼は商売上の必要性から市民権を購入したと考えられる10。しかし、

ヴァインスベルクがこのような―意識的か否かはともかくとして―虚偽の記述をしたこと は、ノイスの戦闘において、彼の祖父のような軍事的な訓練や实戦の経験に乏しい人々も、

都市の軍勢に加わっていたことを示唆している。

4 Weinsberg, Bd. 3, S. 156 – 157; Lossen: Krieg, Bd. 2, S. 60 – 103, 166.

5 Lossen: Krieg, Bd. 2, S. 278, 295 – 296.; Janssen: Kleine rheinische Geschichte, S.

188.

6 Weinsberg, Bd. 3, S. 227 – 228; Lossen: Krieg, Bd. 2, S. 471 – 472.

7 Arentz: Zersetzung, S. 90.

8 Arentz: Zersetzung, S. 90.

9 Weinsberg, Bd. 5, S. 450 – 451.

10 Herborn: Entwicklungsstufen, S. 13.

しかしその後、都市の軍事活動は、大砲などの銃火器の普及を含む、軍事技術の発展の 結果、素人ではなく職業軍人が担うべき活動となった。これを受けて参事会は、1488年に ガッフェルに対して、人員ではなく、各々に割り当てられた一定程度の兵士を雇用するた めの費用を供出すること、それが不可能な場合にのみ、彼らの仲間、あるいはその代理人 を兵士として提供することを命じている11

それにもかかわらず、この後の論述からも理解できるように、軍制改革前夜の 1580 年 頃には、市民は自ら都市の軍事活動に従事していた。この理由として、22のガッフェルの 全てでないせよ、尐なくとも一部のガッフェルの経済的な衰退を指摘できる。例えば、ヴ ァインスベルクによれば、1594年4月3日に、彼のガッフェル・シュヴァルツハウスの 仲間たちは、彼らの集会所を売却したが、このことはガッフェルの経済的困窮を示唆して いる12。こうしたガッフェルは、参事会の軍事的負担の要請に対して、金銭ではなく人員 を提供した。しかし、素人である市民の軍事活動によって、16世紀末の危機的状況に対応 することは、困難であると言わざるを得ない。

そもそもガッフェルと参事会の間の指揮系統は脆弱であり、非常時における両者の意思 疎通は困難であった。例えば、1581 年8月3日、都市の市壁前の野原(Feld)で開催さ れていた弓競技会の最中、ケルン大司教の軍隊による都市侵攻の報告がもたらされた13。 市壁前の野原は大司教の支配領域に属していたため、大司教は競技会の開催に抗議し、競 技場の撤去を要求していたのである。軍隊侵攻の報告を受け、市内では非常事態を告げる 鐘が打ち鳴らされ、さらにヴァインスベルクによれば、「[市長の]ピルグラム殿はマール 門から聖セヴェリン門へと馬を走らせ、市民たちに加勢を呼びかけ、[市門に]急いで駆け つけろと叫んだ」14。しかし、この呼びかけに応えて聖セヴェリン門に集まった市民は2000 人程度に過ぎず、その他の市民は、市長を市門に孤立させたまま、ガッフェルの集会所に 待機するばかりであった。結局、都市にとっては幸いなことに、大司教侵攻の報告は誤り であることが判明した。しかし、同様の出来事が实際に生じたならば、市民は都市の平和 を守りきれなかったであろう。

以上のように、1583年の軍制改革の背景には、都市外部の宗派紛争があった。すなわち 参事会は、都市周辺で激化する紛争に対して、都市の平和を守るために、財政的、人的な 不足、そして指揮系統の未確立といった問題を抱える現行の軍事制度の刷新を決定した。

そしてこの決定は、参事会と危機感を共有する多くの市民―それはカトリックのみならず プロテスタントの市民も含まれたであろう―の合意を得たと考えられる。

参事会とプロテスタント・ガッフェルの対立

1583 年に参事会を軍制改革に踏み切らせたもう 1 つの要因は、都市内部における参事 会とプロテスタント住民との対立であった。ヴァインスベルクは、「1583年8月17日頃

11 Arentz: Zersetzung, S. 90.

12 Weinsberg, Bd. 4, S. 164.

13 この事件の経過は、ヴァインスベルクの回想録の次の箇所に記されている。Weinsberg, Bd. 3, S. 102 – 105. また、次の文献も参照。Arentz: Zersetzng, S. 90 – 91; Becker: Köln contra Köln, S. 78 – 79.

14 Weinsberg, Bd. 3, S. 104.[ ]内著者。

ドキュメント内 1.表紙 (ページ 72-147)

関連したドキュメント