す ぴ 以上︑名帳・絵系図が異義でないことを纏々述べてきた︒勿論︑だからと言って︑末端の門徒や民衆のすべてが︑
名張・絵系図を正しく理解していたと言うのではない︒中には覚如の非難するような事実があったのかもしれない︒
しかし︑ここが大切なところであるが︑たとえ︑そのような事実があったとしても︑そのことをもって名帳・絵系図 が異義だとは言えないのである︒例えば︑今日の真宗においても︑寺への財施を施物だのみ的に考えている門徒や︑
法事を先祖供養だと考えている門徒は結構いるものである︒しかし︑そのような門徒ゃ︑そのような門徒を抱える末 寺があるからと言って︑その本山を異端だと言う人がいるだろうか︒名帳・絵系図もまったくこれと同じである︒名 帳・絵系図の創案者や指導者が異義を指導していたのなら別であるが︑そうでない以上︑それは異義でも異端でもな い︒事実︑今日︑名帳・絵系図の創案者や指導者が異義を指導していたのなら別であるが︑そうでない以上︑それは 異義でも異端でもない︒事実︑今日︑名帳・絵系図を見る限り︑そこに異義として非難されるべきものは何も見いだ
悌光
寺の
名帳
・絵
系図
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悌光
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四
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る︒
一方︑笠原氏の新異端説︵物取り信心説︶については︑既に詳述したように︑それがあまりにもお粗末で話になら ないことは︑十分理解して頂けたと思う︒それにしても︑名だたる人たちが︑いとも簡単に笠原説を鵜呑みにしてし まうのには驚いてしまう︒勿論︑笠原氏は蓮知研究の第一人者と目される人であるから︑その説を鵜呑みにして何ら 非難されるべきではないが︑それにしてもである︒少し考えれば︑笠原説のおかしいことなどすぐに分かりそうなも のである︒要するに︑覚如の場合も同じだが︑我々が権威と言われる人に対して知何に弱いかと言うことであろう︒
ともかく︑思考を停止させることの怖さを︑この名帳・絵系図問題がよく教えてくれている︒
さて︑これまでは防戦一方であった名帳・絵系図であるが︑実は︑名帳・絵系図は単に異端でないというだけでは なく︑本来はもっと高く評価されるべきものである︒中世というあの時代︑民衆にとって名帳・絵系図は︑往生云々 以前に自分の名前や絵像がそこに記入されるという︑ただそれだけで無上の喜びだったのではないか︒特に︑悌光寺 の名帳・絵系図は︑同じ一紙に僧俗男女子供を皆平等に書き︵画き︶連ねてある︒これは︑当時としては画期的なこ とであって︑その平等精神が当時の人々に感動をもたらし︑こぞって真宗へ帰依させたのである︒まさに︑名帳・絵 系図こそが︑親鴛の説く﹁御同朋御同行﹂精神を見事に具現した一つの模範的実践例であったと言えよう︒
追配
名帳・絵系図についてさらに詳しく知りたい方は︑福嶋崇雄師・熊野恒陽氏・藤谷信道共著﹃悌光寺異端
説の
真相
﹄︵
白馬
社︑
平成
十一
年︶
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︒ 註 ︵
1︶
京都
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︵平
成七
年十
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日︶
﹁蓮
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﹂︵
平成
元年
︑十
二月
号︶
五木寛之氏著﹃蓮知聖俗具有の人間像﹄︵平成六年七月︑岩波新書︶五十八頁
百瀬明治氏著﹃蓮如|大事業家の戦略﹂︵平成七年七月︑清流出版︶七十九頁井沢元彦氏著﹃逆説の日本史﹄︵平成十二年十二月︑小学館︶二五五頁﹃蓬茨祖運選集﹂第七巻︵平成五年五月文栄堂書店︶一二十四頁
大谷
暢順
氏著
﹁ジ
ヤン
ヌ・
ダル
クと
蓮如
﹄︵
平成
八年
三一
月岩
波新
︶書
一四
三一
頁 普賢晃毒氏﹁親驚から蓮加へ﹂﹃蓮加のすべて﹂早島鏡正氏編︵平成七年︑新人物往来社︶二十二頁
︵4︶﹁真宗史料集成﹂第四巻六五九貰︵5
︶﹁絵系図の成立について﹂﹃仏教史学研究﹄第二十四巻第一号︵昭和五十六年十月︶︑﹁真宗史論孜﹂昭和六十三年
朋舎増補所収一一一一八頁︵6︶﹃真宗資料集成﹂第四巻五七六頁︵7
︶丹羽文雄氏著﹃蓮如﹂第二巻︵昭和五十七年︑中央公論社︶二七九頁
︵8︶神田千里氏﹁仏光寺派の名帳と絵系図﹂﹃月刊百科﹂二九八号︵昭和六十二年︑平凡社︶九頁
︵9︶
日下
無倫
氏著
﹃真
宗史
の研
究﹂
︵昭
和六
年︑
平楽
寺書
店︶
一一
一一
頁
︵日︶平松令三氏﹁総説
l
絵系図
﹂﹃
真宗
重宝
来英
﹂第
十巻
︵昭
和六
十三
年︑
同朋
金口
︶二
四六
頁
︵日︶拙著﹃悌光寺異端説の真相﹂︵平成十一年七月︑白馬杜︶一八八頁﹁三一悌光寺の本尊と善知識﹂参照 ︵2︶
︵3︶
同 悌光寺の名帳・絵系図について
一八
五
一八 六
親驚浄土教形成の思想史的背景
龍 谷 大 学 寺
井
良
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一︑親驚聖人と戒律の問題
親鴛聖人︵一一七一一一ーー二エハ二︶の浄土教思想は︑﹁偏依善導﹂の念仏一行に帰した法然上人︵一二三二一一一一
一一︶の︑いわゆる選択思想にもとづいているが︑法然のすぐれた多くの門弟のなかで︑親鷲だけはとくに﹁三願転 入﹂義など︑経典を主体的に解読して仏道の体系をすべて如来の救済原理に集約し︑自力性を究極にまで否定して全 分他力の思想を樹立したことにおいて独自性がある︒そのことは︑鎌倉の新仏教の祖師たちのなかで︑ことに末法思 想にもとづく法滅観と︑破戒・無戒の自己内省が︑親鴛においてもっとも深く把えられたことによると考えられる︒
それの端的なあらわれは︑伝最澄の﹃末法灯明記﹂について︑法然はじめ栄西・日蓮らもこれを依用しているなか に︑親驚は主著﹁教行信証﹂の﹁化身土巻﹂で︑そのほとんど全文をくわしく引用していることがあげられる︒また 他方で︑法然と親驚は前半生を天台宗比叡山で修学したのち︑ともに山を下り親驚は法然の他力念仏門に従った︒た だし︑両者間には戒律の側面でかなり重要なちがいがある︒法然は人々に授戒をし自らも持戒につとめたことがよく 知られており︑法然の戒律観は弟子の多くや︑のちの門流に大きな影響を残している︒それに対し親驚では︑無戒観
にもとづく純粋他力の念仏が志向された︒このようなことから本稿では︑末法観のもとでの戒律問題を中心に︑親雌鳥
の浄土教形成に背景となった思想状況を少しくあとづけ︑法然門下のなかでの親鷲のすぐれて独創的な一面をみてみ
︐ − ︑
︒
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νさてそこで︑平安末から鎌倉期にかけて︑比叡山天台宗から念仏・禅・法華などの新仏教が輩出した背景に︑強い
末法的自覚が存したことは周知のとおりである︒そして︑新仏教の祖師たちが等しく注目したものに︑伝最澄の
末
法灯明記﹄がある︒もっとも︑末法の時機観はけっして一様ではなく︑祖師閉それぞれに主体的な把握と対応があり︑
そのために浄土や禅・法華等の異なる宗旨が選ぴとられた︒
﹁末法灯明記﹂は︑今日ではすでに偽撰説も多く出ているが︑鎌倉の祖師たちには最澄︵七六七|八二二︶
の真
撰
として受容された︒
いま同書の内容を略述してみると︑そこでは仏法と王法の相互関係が問題意識にすえられ︑
﹁正・像・末﹂三時の年限が論じられたのち︑末法では正法が滅尽するので︑﹁ただ言教のみがあって行証はなく﹂︑
持戒はもとより破戒すらない無戒の世になるという︒で︑そのような末法無戒の時には﹁名字の比正﹂︵戒律等の威
のみとなるから︑無戒名字の僧をこそ﹁世の真宝とし福田としなければならない﹂と主張し︑
すく末法中の持戒は﹁怪異であり市中に虎がいる﹂ほどに不可能なことゆえ︑無戒時には仏は﹁末俗を済︑つために名字僧 儀
を欠
く名
ばか
りの
僧︶
をほめて世の福田となしたもうた﹂として︑そのことを経典によって引証する︒すなわち︑大集経月蔵分では︑﹁八
わきは
重の無価﹂説のほか︑﹁名字の比正を檀越が供養せば無量の福を得る﹂と説かれ︑また賢愚経では﹁妻を蓄え子を挟
非党
行を
なす
とも
︑
さむ名字僧を礼敬すること舎利弗・目連等の知くすべし﹂と説かれ︑さらに大悲経には﹁末世法滅時に酒家に至って
ひとたびも仏名を称え︑ひとたびも信を生ずる者は所作の功徳ついに虚しからず﹂と説かれる文
などが示される︒したがって︑末法世では名字僧が世の導師となるゆえ︑王法でもって無戒僧を罰してはいけないと
︵2︶
の旨
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親驚浄土教形成の思想史的背景
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七
親驚浄土教形成の思想史的背景
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へ
このような内容の﹃灯明記﹄に対して︑鎌倉新仏教の諸師の対応はさまざまである︒栄西︵一一四一|一一一一五︶
では主著﹁興禅護国論﹄巻上に︑﹁伝教大師末法灯明記云﹂として簡潔な引用をみる︒けれども︑栄西のそれへの対 応はむしろ批判的であり︑般若・法華・浬般市等の諸経文をあげて︑末世ではかえって戒行が勧められていることを主 張し︑従って﹃灯明記﹂の﹁破戒・無戒﹂説は小乗戒のことをいうもので︑大乗菩薩戒︵最澄が比叡山に建立した戒 律︶のことではないと批評する︒栄西は入宋後に禅を興したことでよく知られ︑戒律については﹁令法久住の法﹂で
︵3︶
ある
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︑﹁
禅宗
は戒
律を
宗と
なす
﹂と
の立
場を
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つぎに法然は︑﹁逆修説法﹂や﹁十二問答﹂のなかに﹃灯明記﹂を依用するのが知られている︒﹁逆修説法﹂では︑
観無量寿経の﹁九品﹂段のなか﹁下品中生﹂を釈するなかに︑﹁伝教大師末法灯明記云﹂として数行の引用があるの
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一一
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師
︵4︶
ここで︑﹁持戒僧十人を請う﹂とは︑小乗戒︵二百五十戒︶の受戒法であり︑従って﹁近来に持戒僧を求めても一 乎 ︒ 人も得難し﹂というのも小乗戒のことになるので︑法然でも栄西と同様に︑﹃灯明記﹄の意味を大乗戒の破戒・無戒 とは理解していないことになる︒また︑法然の﹁十二問答﹂の方では︑﹃灯明記﹄によって︑末法中には持戒も破戒 もなく﹁ただ名字の比丘ばかり﹂であることを記したうえで︑もはや持戒と破戒は問題とせずに﹁かかるひら凡夫の
︵5︶
いそぎいそぎ名号を称すべし﹂と説いて︑念仏一行を勧める一節をみる︒法
ため
にお
こし
たま
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本願
なれ
ばと
て︑
然は
︑ のちにも述べるように黒谷の叡空より受けた党網事相の戒︵大乗戒︶を尊重した学僧であり︑そのゆえに大乗 戒を無用とはみなかったけれども︑﹃灯明記﹄の記す末法無戒の事実はこれを認めているわけである︒
つぎ
にま
た︑
日蓮
︵一
一一
一一
一一
ーー
一二
八二
︶で
は﹁
四信
品五
紗﹄
に︑
﹁教
大師
誠二
未来
一云
﹂と
して
栄西
や法
然の
とほ