限定合理的個人と経営人、どちらが経済をそして人間行動を的確に捉えるの だろうか。わたくしはこの論文において、経営人の方が経済を捉えるのに適し ているのではないか、ということを述べて行きたいと考えている。これまでは、
非合理的行動がさまざまな場面において見られることを、それぞれの研究を概 観することで提示してきた。しかしながら、合理的経済人のさまざまな反証例 を提示したところで、合理的個人を否定することにはならないだろう。現実の 人間を抽象化しているモデルが合理的個人なのだから、多少の誤差が出てくる のは仕方ないからだ。よって、わたくしは、2章で得られた事象から、経営人 と合理的個人、どちらが人間行動を表すことが優れているかまとめてみたいと 思う。
まず、2章で得られた事実を表にしてみようと試みた。これは、合理的個人 から導かれる理論、ここでは、期待効用理論、ゲーム理論、効率的市場理論が、
それらの予測からは導かれない事象を説明できるのか、できないのかを表すこ とである。そして、また、プロスペクト理論や過剰反応のような、新たな理論 で説明したほうがこれまでの理論から逸脱した事象を説明しやすいものを挙げ、
それらの理論がこれまでの合理的個人から導き出される事象を説明できるのか を考えてみた。
表 8 経営人と合理的個人の説明力
合理的個人から導かれ る予測の逸脱事例
合理的個人から導か れる予測
プロスペクト理論 ● ?
過剰反応 ● ?
期待効用理論 × ●
ゲーム理論 × ●
効率的市場理論 × ●
●説明可能 ×説明不可能 ?不明 経営人
合理的個人
上記の表を作り上げるのに必要なことは、経営人のモデルに入るプロスペク
ト理論や過剰反応が、合理的個人から導かれる予測を説明できるのかどうか明 らかにすることである。これができて、はじめて経営人と合理的個人、どちら が経済を説明するのに有用であるか判断できるからだ。
まず、合理的個人から導かれる予測に対して、その逸脱事例が存在すること は、合理的個人から作り上げられた理論では、逸脱事例を説明できないという ことになる。よって、これらは説明不可能となり、×をつけた。もちろん、合 理的個人から導かれる理論によって、予測された事象は、説明できるものなの で、●をつけた。
問題は、経営人の評価である。プロスペクト理論や過剰反応の仮説は、これ までの理論からは説明できなかった事象を説明することを可能にしたので、「合 理的個人から導かれる予測の逸脱事例」は説明可能となり●となる。その一方、
合理的個人から導かれる予測を、経営人もまた説明しえるか、については注意 が必要であろう。これを判断するのは難しいが、わたくしは、過剰反応の仮説 については、市場は効率的かどうかを検証しているに過ぎず、また、市場は非 効率的であると主張していても、金融市場は毎日動いており、非効率であるが ゆえの問題が露見しているわけではないため、合理的個人から導かれる予測は 説明できないだろうと考えた。つまり、逸脱事例を説明するには有用であって も、それに留まってしまっていると考えたのである。
また、プロスペクト理論においては、わたくしは、この理論が合理的個人か ら導き出される予測をも説明できる可能性はあるけれども、まだ説明する力に 欠けていると感じたので、△とした。というのも、プロスペクト理論において、
その理論の中核を担っている、人間は参照点からの距離によってものごとの価 値を決めるという考え方を特定化し、参照点がそれぞれの決定状況でどこに定 まっているかわかることができるなら、選択の予測能力が高まると感じたため である。参照点の位置と、それによって成果を利得と損失のどちらとして捉え るかは、提供されたくじの定式化および意思決定者の期待によって影響を被り 得るものであるため、客観的に参照点を定めることができないのが残念なとこ ろである。
よって、経営人と合理的個人の説明力を検証すると、以下のようになった。
表 9 経営人と合理的個人の説明力
合 理 的 個 人 か ら導 か れ る 予 測 の 逸 脱 事 例
合 理 的 個 人 か ら導 か れ る 予 測
プ ロ ス ペクト理 論 ● △
過 剰 反 応 ● ×
期 待 効 用 理 論 × ●
ゲ ー ム 理 論 × ●
効 率 的 市 場 理 論 × ●
● 説 明 可 能 × 説 明 不 可 能 △ 説 明 され る 可 能 性 が ある 経 営 人
合 理 的 個 人
ここからわかることは、やはり、合理的個人の力は強いということであろう。
まだ経営人は合理的個人覆すような力は持っていないように思われる。現在、
さまざまな分野から、合理的個人では説明できない事象を明らかにする研究は 増えているので、それらの研究の発展に期待したいと思う。十分な準備体操を した後に、もう一度合理的個人と戦うことが必要であろう。
わたくしは、この論文において、経営人が合理的個人の地位を覆してしま うことを明らかにしようと試みてきた。しかし、結論としては、経営人の可能 性を最大限に伸ばすことはできなかった。むしろ、わたくしには、経営人が合 理的個人を覆す存在であるのか、ということでさえ疑問を持つようになってし まった。わたくしが、経営人に可能性を見つけることはできなかった理由には、
わたくしが、経営人を合理的個人の代替財であるとみなしていたからだと思う。
経営人は、完全に経済学における人間の定義を変えてしまうと思っていたため、
それを証明しようとして危険な道に入り込んでしまったように思う。よって、
最近では、それよりもむしろ、経営人は合理的個人の補完財として捉えるほう が妥当なのではないかと、思うようになってきた。
以上、わたくしの論文からは、経営人は合理的個人を覆す可能性は0ではな イが、非常に難しいという結論が導き出される。補完的に使うのならば、非常 に有用である。経営人を提唱したSimonには申し訳ないと思うが、経営人のモ デルに、経済学の根本を揺り動かすような力はないように思われる。もっとも、
Simonの提唱する通り、経済学は結果だけではなく、結果が導かれる過程をも 重視すべきだという考えには賛成する。しかし、過程を重視することによって、
一人一人の細かい行動にまでいちいち目を通していては、雑多なものを雑多の まま取り扱うだけに過ぎないと思うのだ。経済学の優秀なところは、少ない理 論で多くのものを説明できるということがある。それを捨て去ってしまって、
初めから人間一人一人の行動のプロセスを判断してゆくのはいささかこっけい なように思う。
以上のことから、合理的個人はまだ安泰である、といえると思う。しかし、
これは、今現在のことであって、経済学者が、これまでの経済学の歩みに疑問 を抱き、非合理的な行動に目を向けてもいることは、近い将来、研究が大いに 進み、経営人が合理的個人の本当の脅威となる可能性があることを捨てきれな いのだ。是非、そんな日が来ることを期待しつつ、わたくしはこの論文を閉じ ようと思う。
補論
行動経済学とは何か
伊藤(2001)によると、行動経済学は、「行動分析学と経済学の出会いから 生まれた学際的研究領域である」と定義でき、その誕生を、Hurshが「Economic concepts for the analysis of behavior」 と 題 す る 論 文 を Journal of the experimental Analysis of Behavior誌に発表した1980年としている。その理 由として、1980年までにいくつかの実験論文と総説論文が公刊され、醸成時期 と考えられること、そして、Hurshの論文がこれまでの行動実験データを、具 体的に、封鎖・開放経済環境、価格弾力性、あるいは代替性・補完性という経 済学的概念に関連づけたからとしている。
一方で、坂上(1997)は、「「応用行動分析誌(Journal of Applied Behavior Analysis)」に掲載されたKagel & Winker(1972)の論文にその実質的な出発点 を求めることができる」と言っており、その理由として、「この直後から動物を 用いた本格的な実験的行動分析の研究が開始されたためである」としている。
彼によると、Kagel & Winkerの論文は、経済学の幅広い領域に、特に人間行 動について経済学者がその法則を定式化している領域があることを指摘してお り、また、経済学との相互協力によって、経済学の現実場面での統計的データ とは本質的に異なった実験的な基礎を、経済学の先見的な公理系に対して与え ることができると述べ、この領域での理論や説明を「行動経済学」と呼んでい るのだ。これ以降、特に、動物を用いた研究58がなされ、行動分析学で成立し ていた動物の選択行動と対応法則が、ミクロ経済学で展開されてきた無差別曲 線の理論とどのように適用され、説明可能であるかといった研究や、経済理論 からどのような実験が考えられ、実施した結果は予測と一致するのかという研 究報告がなされてきた。
伊藤(2001)にしても、坂上(1997)にしても、行動経済学の誕生の時期に
58 実験において動物を用いるのは、実験が治療的効果の問題と倫理的な問題が 潜在的に存在しているためである。