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人々の営み

ドキュメント内 霊峰に抱かれ生きる人々と伝統 (ページ 138-200)

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五百石中央商店街の変遷と現状から見える地域交流

山浦 裕稀

はじめに

私は初めて五百石中央商店街(地図 1)を訪れたとき、全国的にみられる商 店街とは違い、商店全体を覆うような 大きなアーケードがなく、民家の間に 商店が点在し、商店と民家が一体とな っている様子に興味を持った。商店街 の方にお話を伺いに行くと、お仕事中 にも関わらず快く招き入れてくださり、

多くの方から色々なお話をお聞きするこ 写真1.現在の五百石中央商店街(上手96) とができた。商店街の方々は、かつて

の五百石中央商店街は現在からは想像 がつかないほど、多くの商店で賑わっ ていたと語った。また、五百石は開拓 されてから年月が比較的浅い町という ことが分かった。商店街の方々の温か さに親しみを覚えるとともに、なぜ五 百石中央商店街が急速な発展と衰退を 遂げたのか疑問に思い、今回調査を行 うことに決めた。

調査では、五百石中央商店街で商売 をしている方や地域住民を対象に聞き 取りを実施するとともに、五百石で行 われているお祭りも見学した。以下で はそれらを報告し、今昔の比較によっ

て見えてきた地域交流についてまとめ 地図1.五百石中央商店街の位置 ていく。

96 五百石を二分割した時の呼び名。五百石天満社を境に北側を下手、南側を上手という。

常願寺川の下流が北、上流が南にあることが由来である。

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1.五百石の歴史

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1-1.五百石(旧松本まつもとびらき開)の起こり

江戸時代の末ごろになっても高原野には未開拓の土地が存在したが、ことに常願寺川の つくった扇状地で馬背状98の微高地には、松林が一面に広がり住む人もいない原野が存在し

た。延徳 3(1491)年 3 月、北方の野口新の一角に高原野の最初の地が開かれると、これ

を皮切りに徐々に入居する者が増えてきた。この頃には常願寺川周辺の大森、利田あたり から寺田にかけては、すでに豊かな水田が一面に続いていた。

文化11(1814)年、加賀藩政のもと新田畑の開発が推奨されると、当時町を治めていた

新堀村の十村役と む ら や く99の朽木兵くちきひょう衛門え も んは、加賀藩主に申し出て高原野に残る最後の地の開拓をス タートさせた。まず兵左衛門は近くの農民に入植を勧奨した。文政 3(1820)年、高原野 の開拓に加わっていた甚七じんしちと権蔵ごんぞうの両者が発起してお宮を建て、菅原天神を祀った。これ が現在の五百石天満社(天満宮)である。そして兵左衛門は新堀天満宮のご分霊を勧請し て村の鎮守とし、自らはその前に隠宅を構え、息子の兵三郎と協力して開拓の指揮を執っ た。しかし、治水技術の未熟さから、急流の常願寺川の氾濫をとめることができず、氾濫 の度に田畑が水につかってだめになってしまい、開拓は遅れていた。

天保7(1836)年11月、かねてからの願いであった町建が藩から許可された。兵左衛門

は松林を切り開いたので高原野の中心を「松本開」と名付けた。また、この地は草高が「五 百石」であったことから、松本開はのちに五百石と呼ばれることになる。地下水は不足し ていなかったものの、用水路を作るような灌漑水には恵まれず、地面も肥えていなかった ので、開拓の最初の入居者は何を植えても成功しなかった。そのため、松本開に移住して 来た人は苦しい生活を強いられた。そうした中、天保8(1837)年5月2日、松本開にお いて商売が許可された。すると松本開は市場として発展していき、農業のかたわら商売を する人が増えていった。天保9(1838)年の『新川郡高原野組八拾弐ヶ村並に松本開戸口 等』によると、この頃の松本開の戸数は57軒で、男性が109人、女性が78人であった。

安政 5(1858)年、安政の大地震が富山平野を襲い、常願寺川は大氾濫を起こした。す

るとこの氾濫によって松本開の痩せた土地に肥沃な土壌がもたらされ、作物が立派に育つ ようになった。また押し流された砂によって、常願寺川の河床が高くなり、微高地の松本 開にも水を引くことができるようになった。すると上段方面に避難していた人々や洪水で 土地を失った人々が、この新しい松本開の地に移り住むようになり、町並みが形成されて いった。文久3(1863)年になると戸数116軒、男性176人、女性177人に増加した(表 1)。

97参考『五百石郷土史』、『立山町郷土資料館企画展リーフレット』、『立山町史下巻』

98 尾根道で両端が急に下がっており崖状になっている地形のこと。

99 加賀藩だけに作られた役職で、豪農が十の村を単位に治める地方の代官所。

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表1.五百石の起こり

和暦 西暦 出来事

延徳 3 1491 「高原野」最初の地が開拓される 文化 11 1814 朽木兵左衛門が高原野の開拓を始める 文政 3 1820 五百石天満社が創建される

天保7 1836 町建が許可される。松本開と称される 天保 8 1837 諸商売が許可される

天保 9 1838 戸数 57 軒

安政 5 1858 安政の大地震が富山平野を襲う 文久 3 1863 戸数 116 軒

1-2.明治時代の五百石

明治に入ると松本開はさらに開発が進み、町としての機能を整えるようになった。明治 維新後、各地で次第に寺子屋が増加していったが、松本開では明治5(1872)年、酒井さ か いしゅう周斎さい によって天満社前に最初の寺子屋が開かれ、30~40人の子弟を教えていた。周斎はその後 も五百石の教育に力をそそいだ。明治 6(1873)年 8 月に寺子屋は松本小学校となり、男 女100人余りが在籍した。明治12(1879)年、松本開戸長役場が設けられ、酒井さ か い小平こ へ いが戸 となる。小平は、開拓の始まった松本開の一本松100の下で酒屋の長男として生まれた。彼 の温かい人柄は人々の信頼を集めると、明治13(1880)年5月、五百石郵便局が小平宅に 設置され、明治17(1884)年、私立文学舎、のちの私立松本開高等小学校を設立するなど、

五百石の発展におおいに貢献した。そして明治20(1887)年、坂井さ か い喜一郎き い ち ろ うが初めて人力車 数台を購入し、交通文化が開かれた。その後、喜一郎によって立山軽便けいべん鉄道(後述)の開 通にいたるまで、幾多の文化施設が創られていった。明治22(1889)年、町村制施行によ り松本開は五百石町と改称され、その役場は酒井小平宅に置かれた。同年6月には第 1回 町会議員選挙が行われるなど、地方自治体としての体制の基礎を確立した。明治24(1891)

年3月31日に、五百石町の81戸を焼失する大火が発生した。その後、五百石町は再び繁 栄することとなる。

こうして町の機能が整うと、次の五百石の発展は商業へと移行していく。明治30(1897)

年、羽二重は ぶ た え101を織る企業経営が盛んになると、明治37(1904)年7月13日には現在、駅 前のむらいスーパーがある辺りに芝居や映画を上映する松山座(旧立山劇場)ができ、人々 の娯楽の中心となった。明治45(1912)年1月に立山軽便鉄道株式会社が発足する(表2)。

100 かつての下町(脚注140)のネオンアーチの横にあった一本の老松。五百石が松林だっ た頃の面影を偲ばせ親しまれていたが、枯れてしまったため昭和47(1972)年ごろに処理 された。

101へいけんともいい、経糸たていと・緯よこいとに良質の撚りのない生糸などを使用した、主として平組織の 後練り織物。

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表2.明治時代の五百石

1-3.大正時代の五百石

大正時代には、五百石が商業の中心地として発展するにはかかせない、交通事業が整備 された。大正 2(1913)年、五百石郵便局に電話局が併設され、また大岩電機株式会社が 発足して五百石町に電灯がついた。そして立山軽便鉄道が五百石―滑川間を開通した。大

正 6(1917)年、立山軽便鉄道が立山鉄道へと名前を改称する。大正 9(1920)年、五百

石―富山間を乗合自動車が運行すると、大正10(1921)年には、立山鉄道が五百石―立山

(現在の岩峅寺)まで延長開通した(表3)。 1-3-1.立山軽便鉄道

立山軽便鉄道は、普通の汽車よりも一回り小さい汽車であった。幅76.2センチメートル のレールの上を、もくもくと煙を出した黒い機関車が、客車や貨車を引いて走っていた。

大正2(1913)年、立山軽便鉄道が五百石―滑川間の14.2キロメートルに開通した。甲高

和暦 西暦 出来事

明治5 1872 酒井周斉が寺子屋を開く

明治6 1873 酒井周斉の寺子屋が松本小学校となる。松本開消防組が発足する

明治9 1876 芦峅寺の堂の大鏡が五百石天満社に寄進される

明治12 1879 松本開戸長役場が設けられ、酒井小平が戸長となる

明治13 1880 五百石郵便局が酒井小平宅に設置される

明治17 1884 酒井小平が文学舎(のちの私立松本開高等小学校)を設立する

明治18 1885 松本小学校の校舎を五百石天満社の東側に新築する

明治19 1886 富山始審裁判所松本開登記所が設置される

明治20 1887 初めて人力車が導入され、交通文化が開かれる

五百石警察署が五百石天満社の北側に設置される

明治22 1889 町村制施行により五百石町となり、その役場を酒井小平宅に設置される

第1回町会議員選挙が行われる

明治24 1891 五百石町大火により81戸が焼失する

明治28 1895 新川銀行が設立される

明治30 1897 羽二重を織る機業経営が盛んになる

明治34 1901 五百石郵便局が電信業務を開設する

明治37 1904 松山座ができ娯楽の中心となる

明治40 1907 五百石小学校校舎を前沢新に新築する

明治43 1910 五百石町青年会発足する

明治45 1912 立山軽便鉄道株式会社が発足する

ドキュメント内 霊峰に抱かれ生きる人々と伝統 (ページ 138-200)

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