現在の北九州市の市内電車の前身となったのが九州電気軌道(正式社名,
九州電気軌道株式会社,以下,九軌と略称)であった。九軌は門司・小倉・
戸畑・八幡各都市を結ぶ電車路線を経営していたが,同社は明治末期,門司 電気鉄道計画と八幡電気鉄道計画が合同して成立した。日露戦後ブームのな か門司電気鉄道は川崎財閥の総帥で神戸の川崎造船社長の松方幸次郎以下
8
名の関西の資本家が発起人となり,1 9 0 5
(明治3 8 )
年1 0
月に発起され,門司・小倉聞の電気鉄道の敷設をめざした。一方,八幡電気鉄道は福岡県山門郡 選出の県会議員富安保太郎以下
6
名の地元資本家が発起人となり,当初八幡 馬車鉄道として1 9 0 6
年(明治3 9 ) 7
月に発起され小倉・八幡聞の馬車鉄道の 敷設をめざしたが,同年1 1
月にこの路線を電気鉄道計画に変更した。この両 計画を合わせれば門司から小倉を経て八幡に至る区聞がつながるため1 9 0 7
(明治4 0 )
年5
月に両計画が合同して,資本金1 0 0
万円の九軌が発起さ れ,門司・小倉・八幡聞の路線の敷設をめざすこととなった(九州電気軌道 株式会社『躍進九軌の回顧,]1
頁,年譜l
頁,1 9 3 5
年,なお,九軌の設立過 程,特に電力事業については前掲,東定宣昌「北九州地方における電力圏の 成立ー筑豊における炭鉱電化の予備考察J
Wエネルギー史研究,]No 1 5
,が 本格的な分析を加えているので,その詳細については同論文1 2 7‑131
頁を参 照されたい)。門司は明治中期に鉄道が開通した後は九州、│における海陸の交通の要地であ り,小倉は旧藩時代の城下町として北九州における中心都市であり,八幡は 官営製鉄所建設後北九州における工業の中心地で,この三つの都市が近代的 交通機関である電車で結ばれることは当時の北九州地区にとって大きな意味 を持ったと考えられる。
しかし,九軌が発起された
1 9 0 7
年から1 9 0 8
(明治4
1)年にかけては日露戦 後恐慌時であり,このため同社はその後株金の募集に苦しみ,九軌設立の動きは困難を極めた。このため松方らの発起人達も一時は設立を断念し,県の 道路改修費
4 0
万円の寄付を条件に,設立認可の取り消しを嘆願したとまで伝 えられている(前掲『躍進九軌の回顧~2
頁)。その後1 9 0 8
年(明治4
1)1 1
月2 0
日期限の第一回株金払込で,一株額面5 0
円の四分のーに当たる1 2
円5 0
銭C 1 株50 円)の払い込みを得て(前掲『躍進九軌の回顧~
8
頁),認可工事 施工期限である同年1 2
月1 9
日直前の1 2
月1 1
日をもってようやく会社設立総会 開催に至った(前掲『躍進九軌の回顧~2
頁)。設立総会では初代社長に松 方幸次郎,取締役に富安保太郎,山口恒太郎らが選出されたC f
九州電鉄創 立総会J
~門司新報~ 1908年 12 月 12 日,前掲『躍進九軌の回顧~2
頁)。設立後,同社は軌道の敷設工事に着手,翌
1 9 0 9
年(明治4 2 ) 6
月の株主総 会では定款を改正して,沿線地域の電灯電力事業にも進出した。これは,当 時北九州地域においては門司に大阪電灯株式会社が進出していただけで,小 倉,八幡には電灯電力の供給がなく,今後の同地域の電灯電力事業の有利性 を見込んでの兼営であった。その後同社はさらに同年1 1
月には大阪電灯株式 会社の門司出張所の電灯事業を買収し,翌1 2
月には小倉電灯株式会社を合併,翌
1 9 1 0
年(明治4 3 ) 1 0
月には八幡電灯株式会社を合併し(前掲『躍進九軌の 回顧~2 4
,2 9
,3 0
頁),資本金を3 1 5
万円に増資している(前掲『日本鉄道史』下巻,
7 6 5
頁)。その後,
1 9
日年(明治4 4 ) 6
月に至って県道拡築工事遅延のため遅れてい た第一期区間の軌道工事が完成し,まず6月5日門司市東本町三井銀行門司 支厄前より小倉を経て八幡の大蔵川に至る1 1
哩1 8
鎖が開業したC f
小倉の賑 ひJ
~門司新報~1 9 1 1
年6月5
日)。この第一期工事完成のための資金である が,1 9 1 1
年には明治生命から九州電気軌道へ2 5
万円が融資されていることも 注目される(前掲,小川功「明治末,大正期における生保の財務活動J
~生 命保険経営~4 8
巻5
号,9 7
頁,第4
表)。この第一期区間開業のため準備された電車は
2 4
両,うちl
両は準備未了の ため開業時には2 3
両が使用されたC f
電車愈開通J~門司新報~1 9 1 1
年6
月4
日)。この電車は急カーブや急勾配に強いボギー車で,路面電車といいなが ら郊外電車の性格も持っていたため,軌道も市内部分は溝のあるグループド 式,市外部分は工字型に分かれ,配電方法は架空単線式であった (1電車の 話
J W
門司新報.n1 9 1 1
年6
月5
日)。使用されたボギー車は4 0
人乗りの木製で,軌聞は
1
,4 3 5
う,創業時の乗務員は運転士2 5
名,車掌4 3
名であり,7 5 0
名の応 募者から選抜されて阪神電気鉄道で教習を受けて乗務した( W
西日本鉄道七 十年史.n4頁)。また同年 5月からは小倉の鋳物師町と板櫨村の境に火力発 電所,八幡と門司に変電所が建設され,発電所には千キロワット発電の英国 製の蒸気タービン2
台が備え付けられ,電車及び小倉,門司,八幡地域の電 灯電力事業へ電力を供給した( 1
九軌沿線名所(二)JW
門司新報.n1 9 1 1
年6
月6
日, 1電車の話J
W門司新報.n1 9 1 1
年6
月5
日,前掲『躍進九軌の回顧.n3 2
頁)。ちなみに,日露戦後の石炭価格上昇による火力発電における経費増大 を克服するための,エネルギー効率が高い大容量の蒸気タービン発電機の使 用は,1 9 0 4
(明治3 7 )
年の東京市街鉄道の5 0 0
キロワット発電機がその鴨矢 であり (W日本電機工業史.n1 3
頁),この九軌の蒸気タービン発電機はその意 味で時代の最先端をいく設備投資として注目される。開業前,
1 9 1 1
年5
月1 8
日からは試運転が開始され,さらに同月2 4
日からは 夜間試運転も開始されたが,夜間試運転開始後沿道は電車のヘッドライトが サーチライトのように光る有り様を見物しようとする群衆で開業前から既に 賑わっていた( 1
門司延命寺間試運転JW
門司新報.n1 9 1 1
年5
月2 6
日)。開業日の
6
月5
日には午前5
時に雨天の中一番電車が発車,午後1 2
時の終 電までに門司・大蔵間を約1 0 0
回が運転された( 1
開通第一日の電車J W
門司 新報.n1 9 1 1
年6
月6
日,1
小倉の賑ひJ W
門司新報.n1 9 1 1
年6
月5
日,1
電車 開通と汽動車J W
門司新報.n1 9 1 1
年6
月6
日)02 3
台の電車中2
台は5
燭光の 電球2 0 0
個で装飾した花電車で,小倉から大蔵に至る沿道は1 0
町ごとの要所 に1 0
燭光2 0 0
個から3 0 0
個の電灯を点灯し,特に門司停車場前と電車運行のた め小倉の紫川に建設された勝山橋河畔の2
カ所には多数のイルミネーションをつけた大アーチが建設され,特に勝山橋では橋上電柱から橋桁にかけて
6 0 0
個の電球によるイルミネーションによって飾られていた( 1
開通第一日の 電車J
W門司新報J 1 9 1 1
年6
月6
日)。さらに小倉市内では各戸の軒先に祝開 通の赤の短冊を吊るし,電車はその中を車頭に国旗と社旗を翻して走行した (1小倉の開通祝いJ
W門司新報J 1 9 1 1
年6月 6日)。当日の夜の小倉市内は「市内電車通りの人出は蟻群の集散するが如く」で,特にイルミネーション に彩られた市内の中心街である魚の町から勝山橋一帯にかけては人をもって 埋められる有り様であったと伝えられている
( 1
昨日の小倉JW
門司新報J 1 9 1 1
年6
月6
日)。開業2
日目3
日目の6
日7
日は天候の快復もあって,ど の電車も満員札を掲げ,1
新奇を好む人情の常として初乗りの面白さに」各 停車場は黒山の人であふれ,1
我れも己れもと先を争ふての乗り急ぐ様は蟻 の群がる如く夜に入れば一層増加して女子供の容易く乗り得べくもあらずJ
, ついには乗客を乗せないで走っていた花電車にまで客を乗車させる有り様で あった (1電車開通と小倉J
W門司新報J 1 9 1 1
年6月8
日)。ちなみに乗客数 は6日はl万8
,7 3 2
人,7
日は1
万7
,3 9 2
人に達した( 1
開業後の九軌J W
門司 新報J 1 9 1 1
年6
月1 5
日)。さらに門司市でも6
月8
日に門司商工会主催の電 車開通祝が開催され,イルミネーションに飾られた門司停車場を中心に西本 町桟橋通り東本町通りの中心街はほとんど人の山となり,1
数万の群衆狂せ ん許りの雑踏裡」のなかで( 1
門司の開通祝いJW
門司新報J 1 9 1 1
年6
月9
日),仮装行列や夜間の提灯行列等がおこなわれ,電車通りは身動きもできぬ人出 で埋められたとされている
( 1
門司の不夜城J W
門司新報』同年同月1 0
日)。 開業後3
日間は往復券に限り3
割3
分強の割引を行った上での開業後1
週間 の営業成績は,乗客数は一日平均1
万1
,1 4 0
人,収入は1
日平均8 7 8
円8 5
銭で あった (1開業後の九軌J
W門司新報J 1 9 1 1
年6月1 5
日)。門司・大蔵川間開業から
4 0
日後の同年7
月1 5
日には八幡の大蔵川から黒崎 駅前までの3
哩4 8
鎖が延長され,さらに同年8
月2 1
日には門司の東本町・東 本町三丁目聞が延長され,翌1 9 1 2
年(明治4 5 ) 7
月には小倉・戸畑聞の戸畑支線が開業した(前掲『躍進九軌の回顧.n
16‑17
頁)。さらに1 9 1 4
年(大正3 ) 4
月には門司市東本町三丁目・同六丁目間,同年6
月2 5
日には黒崎・折 尾駅前聞の路線が完成した。その後,戸畑支線の幸町より分岐して八幡中央 区に至り本線に接続する環状線工事は用地買収困難のため大幅に遅延し,1 9 2 9
年(昭和4 ) 1 1
月2 6
日に至って環状線がようやく竣工した。全線2 4
哩5 5
鎖,起工後2 2
年を要した(前掲『躍進九軌の回顧.n1 6
ー1 7
頁)。この間同社 は1 9 1 0
年(明治4 3 ) 3
月に折尾‑飯塚間,同年1 2
月黒崎‑芦屋間,1 9 1 1
(明 治4 4 )
年8
月黒崎‑直方間,1 9 1 3
年(大正2 ) 4
月折尾・植木間,植木・直 方聞の路線申請をしていたがいずれも特許を受けられず実現には至っていな い(前掲『日本鉄道史』下巻,7 6 6
頁)。九軌の軌道部門はこのような進展を遂げたが,一方,同社の軌道沿線の門 司・小倉・八幡地区を対象とする電灯・電力事業部門も同時期大きく発展を 遂げた。特に電力部門は
1 9 1 2
(大正元)年に九州鉄道管理局小倉工場に電力 を供給をしたのを始めとして,その後の第一次大戦時期の未曾有の好況の中 での北九州工業地帯の発展に伴って供給を増加させた(前掲『躍進九軌の回 顧.n36‑37
頁)。しかし,その後1 9 2 0
(大正9
)年からの戦後恐慌のなかで 電灯・電力業界は全般的な過剰電力時代を迎えた。そのなかでの北九州工業 地帯の発展による電力需要の増大は他の電力会社の同地域への進出を招き,先に見た九州水力電気(九水)が
1 9 2 1
(大正1 0 )
年八幡地区への進出を図っ たのを契機に,逆に九軌も福岡県の筑豊及び豊前地区へ電力の供給を開始し て,両社の間でいわゆる電力戦が開始されることとなった。しかも,両社の この電力戦は年を追うごとに激化した。具体的には,まず1 9 2 1
年(大正1 0 )
九水が従来九軌の営業地域であった八幡市の中央セメント会社への電力供給 を開始したのに対して,今度は九軌が1 9 2 4
年(大正1 3 )
九水の営業地域であ った福岡県の遠賀,鞍手,嘉穂,田川,企救,京都,築上の各郡への特定電 力供給の認可を獲得し,両社の電力供給地域が輯鞍したため,その後の両社 の電力供給地域の獲得をめぐる競争,いわゆる「電力戦」は蟻烈を極めることとなった(前掲『躍進九軌の回顧j]
4 4
頁)。通常いわゆる「電力戦」は1 9 2 3
年 8月の日本電力会社の名古屋進出をその契機とする5大電力会社の大都市の 大口電力需要家の争奪戦を指すとされているが(橘川武郎,前掲『経営史学』論文
4
頁),北部九州においてもほぼ同時期に同地域の二大電力企業によっ て「電力戦」が開始されていたことが判明しよう。その後
1 9 2 8
年(昭和3
)からは麻生太吉が九水の社長に就任していたが,新社長の麻生は九水と九軌の電力戦の解消をめざし,両社聞の事業の紳士協 定等を試みたがうまくいかず,両社の最高幹部の間で合併等も試みられたが,
これも再三に渡って失敗に終わった。そこで今度は相手会社の支配をめざし て両社が互いに相手の株式の買収を開始した。こうしたなか九水は特にこの 株買収に熱心で,九軌の筆頭株主でもあった九軌専務の松本泰蔵の持ち株買 収を試み
1 9 2 9
年(昭和4 ) 6
月には同氏の同意を得た。このため松本泰蔵の 持ち株3 5
万株が九水に譲渡されることとなり,株式の譲渡は翌1 9 3 0
年(昭和 5) 8月から開始された。それより先同年6月には九軌創立以来の社長であ った松方幸次郎が社長を辞任し,専務であった松本泰蔵が社長に就任してい たが,持ち株の譲渡にともなって同年1 0
月8日の九軌の臨時株主総会におい て松本容蔵は社長を辞任し,九水より推挙された九水取締役の大田黒重五郎 が九軌の社長に,同じく九水常務取締役であり後に西鉄初代社長となる村上 巧児が九軌の専務取締役に就任し,九水社長の麻生太吉も九軌の取締役に選 任された(前掲『躍進九軌の回顧j]44‑45
頁)。新社長の大田黒重五郎は芝 浦電気(東芝の前身)の元専務取締役で,三井傘下に入った後の芝浦電気の 実質上の経営責任者として経営が低迷していた同社を興隆に導いた経歴を持 っており(東京芝浦電気株式会社『芝浦製作所六十五年史j]37‑69
頁),九 水では先に見たごとく発起時よりの中心人物の一人であった。ここに九軌の 経営首脳陣は九水幹部によって占められ,資本,経営陣の両面で九軌の経営 主導権は九水グループによって掌握されることとなったと見ることができょ う。更にこの経営首脳交代の直後九軌は前社長松本套蔵時代の2
,2 5 0
万円にも達する巨額の不正手形発行事件が発覚して会社存亡の危機に立たされ,翌 1931年(昭和6) 6月旧来からの九軌役員は総辞職し,九水から乗り込んだ 取締役の麻生太吉,大田黒重五郎社長,村上巧児専務らによって九水の全面 的パックアップのもとに九軌の会社再建がはかられた(前掲『躍進九軌の回 顧
I J
46‑79頁)。この九水と九軌の資本連係は両社聞の電力供給競争を根絶するのが最大の 目的であったが,さらに進んで両社は大田黒新社長らの宿願でもあった水力 火力併用をめざし九水の水力発電,九軌の火力発電を組み合わせた送受電 力網の統ーをも図ることとなった(前掲『躍進九軌の回顧
I J
86‑89頁)。こ の背景には,第一次世界大戦期の電力需要の激増の中で「電力飢僅」とも呼 ばれるほどの電力不足が発生し,それへの対応として1906,7年頃から水力 発電における基準水位を渇水時から平水時に変更し(~逓信事業史』第 6 巻,159頁),渇水時には火力発電を併用して補うことにより,全体として発電力 を倍増させ,経営的にも単位発電力当たりの投下資本の減少を図る方式が採 用されつつあり(松島春海「日本に於ける電気産業の形成過程
J
~法経論集』10巻3・4号, 79, 89‑90頁),九水と九軌の水力火力併用もこれをめざし たものと考えられる。つまり,それまでその優位性とシェアを巡って争って いた水力の九水と火力の九軌が,九水の水力を中心としそれを九軌の火力で 補う水力火力併用により,全体の発電性能を倍増させる新方式をめざしたも のと推察される。
なお,この不正手形事件の処理の資金充当のため, 1918年(大正7)12月31 日付けで出願し,当時既に社債を発行して博多入り口を残すだけで八分通り 用地買収にまで至っていた北九州、比福岡市を結ぶ九軌の福岡線(当初,折尾
・福岡間,のち黒崎・福岡間に延長)の急行電車線の建設計画は中止され,
ついには廃止されるに至った(前掲『躍進九軌の回顧
I J
68頁, 72頁,年譜7 頁,前掲『西日本鉄道七十年史I J
71頁)。ちなみにこの福岡急行電車線用地 の一部を転用して1932年(昭和7) 7月福岡市の博多駅前に九軌百貨庖,及び九軌マーケットが建設された。また同じ
1 9 3 2
年7
月には小倉に到津遊園地 が開園され,翌1 9 3 3
年(昭和8 ) 1 0
月には到津遊園地内に動物園が開園され た(前掲『躍進九軌の回顧』年表10‑11
頁)。さらに1 9 3 2
年6
月には九軌所 有の土地,家屋の売買賃貸事業を行っていた傍系会社の九州土地株式会社を 合併,改めて同年9
月に九軌所有の土地家屋の委託管理,及び小倉海岸5 0
万 坪の埋立等を目的とする九州、│土地興業株式会社が全額九軌出資で設立され た。(前掲『躍進九軌の回顧JI96‑97
頁)このように大目黒社長時代の九軌 は兼営事業の拡大をも図っていた。その後1 9 3 5
(昭和1 0 )
年に至って不正手 形事件後の経営危機からの再建を果たし,配当復活に漕ぎ着けたのを期に大 目黒重五郎社長は勇退し,村上巧児専務が九軌の新社長となった。村上はそ の後も社長に在任し,1 9 4 2
年(昭和1 8 )
五社合併後の西鉄初代社長となった。V . 結びに替えて
日露戦後期に電灯・電力事業及び電気軌道・鉄道事業に着目して企業家へ の変身を試みていた福沢桃介とその盟友松永安左エ門は,北部九州において 電気事業の経営に参画を図り,まず
1 9 0 6
年(明治3 9 ) 1 1
月に佐賀の水力電気 を利用する目的で設立された広瀧水電の経営に参加すると共に,次に1 9 0 9
年 (明治4 2 )
には福岡市の中心部分を縦貫する路面電車である福博電気軌道を 発起し,松永が専務取締役としてその経営の中核となった。一方,その直後 から松永安左ヱ門や福沢桃介らは広瀧水電の発展した九州電気会社及び従来 からの福岡市の火力発電による電灯会社である博多電灯会社との三社合併を 試み,好余曲折を経ながらも,まず1 9 1 1
年(明治4 4
年)1 0
月福博電気軌道と 博多電灯との合併を成就させて博多電灯軌道会社を設立,さらに博多電灯軌 道と九州電気との合併を図り,合併の結果1 9 1 2
年(明治4 5 ) 4
月には九州電 灯鉄道会社が設立された。一方,北九州では