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中越鉄道敷設をめぐって

ドキュメント内 邸 三−:、: (ページ 87-101)

1項 中 越 鉄 道 敷 設 の32名の発起人

第2章の第1節では、石川県よD分県当時の富山県の経済を、璃波地方を中心として検討すると

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とによって、当時、璃波地方は農.工にわたって、県内の最先進地情であるととを知った。第2節 では、分県後にないて、はじめて設立をゆるされた高岡米商会所の県商業界K占める位置を検討し た。 ζの米務会所、なよび明治2 6王手に改称された高岡商品取引所は、米、肥料を中心とする商品

.証券の定期取引Kよって.たんに高岡市のみ左らず、全富山尽とくに呉西地方(璃波。射水地方〉

の経済に支配権をふるっていたととを知った。また、 ζの第2節では、高間商人の土地所有規模を も検討した。

本節では、 ζの高岡市と璃波地方の有力町村なよび伏木還を結ぶものとして敷設された中越鉄道 をめぐって、その敷設にあたって、当時の璃波・高向・伏木の地主、薦人たちがいか在る役割をは たしたかを検討しよう。

中越駅選抜設について、参考にしうる文識とじては、『中越鉄道開業20周年誌』〈大正5年5 月1

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印刷〉、なよぴ、との『20周年誌

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を中心として展開された

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防本育弘氏のすぐれた労作「

中越鉄道創業史

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(『越中史壇』 10号、 9 5 75月〉がるるoとの他Y亡、敷設問題に言Eし たものとしては、前掲、中島桃対日『大矢田郎兵衛研究』、中明崇平『腐栖村史』、『堀二作翁之 生涯』があれ 7.1:主子、『出町のあゆみ』の中(/[も、−,ことの問題にふれられている。

(注〉 『出E了のあゆみ』を別にすれば、らL上あげた5つの文献は、中越決道創業の発案、企酒 者について、それぞれ力点のなき方を異にした叙述をしていて興味ぶかい。(りヤ明氏の『村史』

によれば、中越鉄道の発案から、敷設にいたるまでの一切の中心が大矢四郎兵衛であった、とい う立場をとっている。す念わち、中越鉄道敷設は、大矢の思いつきであるとして、彼は「夜を昼 についで有力者を訪い力説したのでm 鉄:色気遣いとよばれたが.ぞの熱意によって諒解する人も でてきえ

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大矢翁の計画は奇想天外の夢物語と一投の者は聞き流し、専をかすものは左い。ただ 島田孝之のみは賛成し会をはげましたj として;いる。 ②『 2 0周平誌』では、銀過に経験のあ った吉田茂勝が発案し、島田孝之;℃謀担、二人で「高岡・射水・東西璃波の一市三郡の資産家、

有志者を訪問し、説いたj ので賛意をえた. と\()うことに在っていゐoZ主主ヘ北林氏の研究は、

ほぼこの

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2 0周年誌』の立場を、ぞの安全とってなられる。③中島桃太郎氏の研究によれば、

大矢は、島田孝之、吉田茂勝らと謀九有志者ーを説いたとしてtハる。③『堀二作翁之生涯』によ れば、中越歩道の敷設を思いつVたのは、当時、泉土木課に勤めていた野口という人であれ彼 が沼二作を訪ね、ぞの必要を力説したので、堀はそれに共鳴した。そとで堀は、自分は政友会で あるから、反対党の根拠地である璃波地方K咲道を敷説するのlに自分が主唱したのでは、妨害 される訟ぞれがあるとして、野口をして、島回家之に話をさせ、つ ので島田をして高広次平を説

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かせるとと、また伏木の藤井能三tても歓誘させるととにしたとなヮている。つまん堀は主唱者 として表K立たなかったが、舞台裏の演出者でるったとして、あたかも鉄道計!賓の功績の一切を 自分K きするように主張しているが、その点は疑問である。

以上.四つの文書では、発案・企図者ーについて、微妙を本島きがみられるが、誰が最初の発案・企 画者であったかという点では、大矢、吉田 主たは島田、堀 t野口のうちの特定の一人と同うと とではなく.これらの人たちが推進者と左って、計画をすすめたというととであろうuただ、

誰が、中越鉄道の敷設事業

κ

私財を左げうって注との事業を守りとなしたかといえば それは大 矢四郎兵衛であったといえる。その意味にないては、中越鉄道敷設は、大矢の事業であったとい

って差支え左いのである。

(注)でのべたどと〈、誰が発案・企画者であったかは問題であるカ元特定の一人では左〈、大 矢、吉田、島田らの人たちがや心と左し彼らが推進者と在って、

T有三郡の有力者を説き、明治 2 6 '99月に璃j皮の出町

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沿いて、会社創立の協議会が開かl'lた。との協議会にないて 発起人と してあげられたのは、つぎの32名であった。

吉田茂勝 原田金之祐 藤井能= 志摩長玉子 堀二{乍 正村義太郎 高広次子 大

+ l

:長平 矢後慎二 島田孝之 松島与信 小 幡 直 次 安 念 次 左 エ 門 大 矢 四 郎 兵 衛 藤井長太郎 山田正景 桂井他八f~ 西 能 源 四 郎 松 村 和 一 郎 河合八ナ八

中村林造 佐 々 木 権 四 郎 荒 木 文 平 岡部長左ヱ門 大谷彦次郎 大谷次郎作 春旧嘉一郎 菊野久太郎 田 上 六 太 郎 野 村 辰 太 郎 岩倉吉郎 長谷j11孫三

ζの32名のうち、高岡市関係は、堀二作、正村義太肱志摩長平の玉名であ

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、伏オ守工藤井能 三、原田金之祐の2名である。吉田茂勝は、中島桃太郎氏によれ!cf,富山市諏訪川原17の人ーであ り、明治30年2月28日認可の富山県農工銀行の株主人名簿K沿いても、富山市のととるに入っ ている。吉田は『開業20周年誌』によれば、鉄道K経験のある人となってな

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皮Vて「繍耳与の路 交並に出願の

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認に当らしむ・j(P2.)とあれかっ、彼の踏査活動にたいしえ「予測費として金一 千円を支払いたり」( 6)と誌されている点からして、彼は鉄道工事K経験のある技術者であっ たとみられる。左辛子、『金問又左エ門翁』によれば、富山市より美濃国太田町に通ずる飛越鋲遁の 企画が念され、明治29年7月28臼、富山市総曲輪で創立委員会が開かれた時の顔ぶれの中に、

安田茂勝の名がみれる。とれらのととからしても、子守田は、他の31名とは桑f.i::って、富山市の人 であるととがわかる。以上の高岡5名、伏木2名、富山1名をのぞく、 26名は全部、東西嘱波の 人たちであった。

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以下、吉田茂勝をのぞ<3 1名Kついて、当時の呉西地方、または全県下になけるも彼らの社会 的地位を検討しよう。

まず、高間関係について。

堀二作。高岡市の代表的政治家で、自由党=政友会の人。射水君撤回村村長、高岡市長

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2回〕

祭会議員、県会議長を歴任。堀家は射水郡横田村の農家で、堀ニ作のー伶で高10 0石ぐらいから 1

  0 0 0石以上に土地集積をとげた。明治2 1年度の例の所得金高下調に主れば、総所得8.0  0円 で あ 九 そ の 内 訳 は 土 地57 3丹、俸給17 0円、貸金38円、貸家19円 で あ れ 土 地 所 得 が 全 体の7割以上という大き7l比率を占めている。地租は 42 0円であり、とれば40.  5田了歩の土土面努 有Y亡あたり、すでに明治21年の時点で巨大地主に念

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上っていることがわかる。このように、堀 の所得内訳をみると、その大部分が土地所得であれ他に俸給として 17 0円あるが、高岡高人の 場合に一般的であった株式・公債所得が、まだζの時点ではみられ宏い。 ζのととから、高岡近郊 の地主である堀二作は、地主としての所得:0'圧倒的比率を占めるとともに、彼の場合、役職者とし ての所千与が重要な位置をしめていることに注意されねば左ら泊。左:J;;−,多額納税者としては、大正

1 4年

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1 0 0名中の第62位、昭和1年には10 0名中の

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位である。

ところで、堀が、第1回自の高岡市長になるのは、明治25平1 1月8日であ九ぞれ以後、明 治31年1 l月7日空で、満6年間在職している。中越鉄道敷設が発案され、城端一高岡間の開通

をみるのは、彼の市長時代と重在っている。

正村義太郎、志摩長平の両名については、すでK高岡商品取引所の第1回会員の検討のとζろで 述べた。正村は、幕末以来、高岡の綿場の専売機をもっ代表的~高間商人の一人であ払第 2 代自 の高岡商業会議所の会頭をつとめる。また、正村は、一面、明治2 1年に、 8 5町歩という巨大1.!: 土地所有の大地主であった。志摩長平は、高岡の代表的f.J::.米相場師として、全国的に名のひびいた 人であった。

堀二作、正村義太郎、志摩長平の 5名で、当時の高岡市の致・財界の代表者汎との中越関電敷 設に名をつらねて加ることがわかる。

伏木関係。

藤井昔話三。藤井のととはすでK述べたが、明治17年申請の高岡米商会所の発起人の一人であ担.

明治初年の伏木最大の回漕業者でる

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明治1 0年代の富山県を代表する実業人であった。しかし 明治2 6年の時点では、経済的にはすでに、往年の力はなかったカ元社会的影響万の点では、をま示、

伏木のみならず、県下有数の人であったろう。

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原田金之祐。伏木祷町の人で、明治2 1年度の所得金高下調によれば、開芳得2,2 3 5円であり その内訳は俸給18 0 .0円、株式40 8円、土地15円、貸金12円と念っている。 ζの所得をみ て、ます気のつくのは、総所得の22 3 5円という巨大な額である。とれば、高間の代謝令豪商で ある、菅野伝右エ門の20 0 0円をも上回るものであれ正村義太郎の22 4 7円よ

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わずかに下 回る所得である。つまり、全射水郡の、上位所得者中でも一、こをあらそう大所得者であるととが わかる。しかも、その内訳をみると、その大部分を 占める 18 0 0円は俸給と念って名、b、との大 きさにも驚かされる。原因はいか左 る役職Kついていたかは未詳であるが、台そら〈、当時になけ る県下有数の高給をとる、重要な役職についていたので

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ろう。(それKしでも、との俸給額は、

あま.!HCも大きすぎるので、との点再検討を要するであろう。)いま一つ、大きな項目として、株 式所得の4 0 8円がるれ株式投資所得の大きかったととがわかる。と

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角.伏木湊町の原田金之 絡は、伏木随−,県下有数の高給をとる有力者であるととがわかる。

それ故に、藤井能三と原因金之祐のこ人が伏木から.発起人として名をつらねていることは、伏 木を代表しての参方町であると考えてきしっかえ念い。

次fて、東西嘱波関係をみよう。嘱波からは・, 2 6名の多きが発起人と在っているので、以下、高 岡から城端への中越鉄道の繍洛ぞいV亡、戸出ー出町一福野一福光一城端、井波の

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債をたどってのべ

ょう。

まず、戸出町関係。ととでは、たんK戸出町のみ左らず、その近隣の町村をもふくめての発起人 を検討しよう。

大井長平。(東嘱波郡北般若村=育住村(現戸出町)

犬井は、嘉永6年、補田村の桜井家

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生まれ.(長兄・宗一郎)、大地主・大労家の養子と在る。

明治6年10月なよび13年4月V亡、それぞれ戸長'f'(、30年10月Kヰ

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般若村村長に就任。明治 1 5年一島田孝之が改進党の組織を唱道したのにたいして、共鳴賛同して、同年12'月入党。

産業関係。明治初年よ' !J酒造業をはじめ、 24!i手K廃業。明治25年K製糸業をはじめ、鵡蒸殺 所を設置して、生産Kづとめる。

明治22年、 「戸出ー中田」間の橋梁設置に努力。

経済界での

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受験。戸出貯金銀行取締役、共通銀行常務取締役、中越銀行監査役を歴任。

以上の略歴は、明治3 61 1月発行の『現今北国人物志』を参考にしてのぺた。との略歴から してもわかるどとし大 井は戸出町近辺の大地主として 政治・経済・社会の各方面に多面的を活 躍を.した有力者であった。と〈に大井の場合、注目すべきととは、製糸業をはじめ、新設備を導入

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