第3節 美とは何か?
2、 両頭截断ということについて
私の電子書籍「祈りの科学」シリーズ(4)でもいったが、ものごとには何ごとも両面が ある。光があれば陰もあるし、物があれば「モノ」がある。「モノ」とは心のこもった物 のことである。物とは単なる物質のことだ。
私は「両頭截断(りょうとうせつだん)」とよく言っているが,これはそういうものご とのには必ず両面があるので,それにこだわっていてはいけないということを言ってい る。「あなたは善人ですか?・・・そうですねえ。善人と言えば善人だし,悪人と言えば
悪人ですね。善人でもないし悪人でもない。ああ,やっぱり私は善人です。」・・・とい う訳だ。哲学的には二元論というが,そういう二元論を超えた世界,つまり一元論的認識 の世界,それが陰陽の世界である。両頭を截断した,つまり相対的な認識を超えた絶対的 な認識(一元論的認識)の世界である。私たちは陰陽の世界を生きているし,またそのこ とを日頃から十分認識しておく必要がある。
私は「両頭倶截断一剣器倚天寒(両頭ともに截断して一剣天によってすさまじ)」とい う禅語を略して「両頭截断」といっているのだが、その意味するところはきわめて奥が深 い。摩多羅神を考える場合にも、エロス神を考える場合にも、少なくともこういう一元論 的認識の重要性だけでも理解していないとダメだと思うので、ここで厳密を期しておきた い。
この禅語は『槐安国語』(かいあんこくご)に出てくる。『槐安国語』は燈国師が書い た『大燈録』に、後年白隠が評唱を加えたものである。禅書も数多いが、その中でもっと も目につくものは、道元禅師の『正法眼蔵』と『槐安国語』といってよいと思う。両書は いずれも難解な本である。前者についてはすでに多数の学者がその研究の成績を発表して いる。しかし、『槐安国語』についてはほとんど研究らしい研究はない。そうだけれど、
大燈国師が胸中の薀蓄(うんちく)を披瀝したところへ、白隠禅師の悟りを加えたもので あるから、この本は日本の禅の極限に達したものといってよいだろう。
この禅語については、 松原泰道がその著「禅語百選」(昭和四十七年十二月、詳伝社)
で詳しく説明しているので、それをここに紹介しておく。すなわち、
『 両頭倶截断一剣器倚天寒(両頭ともに截断して一剣天によってすさまじ)
両頭というのは、相対的な認識方法をいいます。相対的認識が成り立つのには、少なくと も二つのものの対立と比較が必要です。つまり両頭です。たとえば、善を考えるときは、
悪を対抗馬に立てないとはっきりしません。その差なり段落の感覚が認識となります。
さらに、その差別を的確にするには、それに相対するものを立てなければなりません。
之が三段論法推理の基本となります。その関係は、相対的というよりも、三対的で、きわ めて複雑です。知識が進むにつれてますます複雑になります。その結果、とかく概念的と なります。また、比較による知識ですから、二者択一の場合に迷いを生じます。インテリ が判断に決断が下せないのもその例でしょう。なお、恐ろしいことは、比較というところ に闘争心が芽ばえることです。この行きづまりを打開する認識方法と態度が、禅的思索で す。まず相対的知識の欠点が相対的なところにある以上、この認識方法と態度とを捨てな ければなりません。それを「空(くう)ずる」といいます。ときには「殺しつくせ」「死 にきれ」と手きびしく申します。肉体を消すことではありません。相対的認識や観念を殺 しつくし、なくして心を整地することです。
相対的知識を殺しつくすのは絶対的知識です。しかし、相対に対する絶対なら、やはり 相対関係にすぎません。たとえば、「私が花を見る」のは、私と花と相対して花の認識が 生まれ、その花の色や色香(いろか)や美醜は、またそれに対するものが必要になりま す。どこまでも相対知です。
次に、私は外の花を見ない、唯一絶対として私が花を見ると、一応は絶対値に立ったよ うですが、相対に対する絶対値で、やはり相対的関係が残っています。「私」が「花」を 見るという我と花とが対しあっています。純粋絶対知とは、私が花を見るのではなく、花 そのままを見ることです。私が花そのものになって見るより見方のないことを知るので す。
これを一段論法といいます。その名付け親は、明治後期の理学博士で、禅の真髄をつか んだ近重真澄(ちかしげますみ)です。禅的さとりを得た人たちは、必ず従来とは、違っ た見え方がしてきたと喜びを語ります。それは「ある立場から、規定づけられた見方を脱 した」ということでしょう。道歌(どうか。仏教などの趣旨をよんだ歌)の「月も月、花 は昔の花ながら、見るものになりにけるかな」が、一段論法の認識方法と、その結果を 歌っています。また、熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)が、無情を感じて法然上 人の下で出家して蓮生坊(れんしょうぼう)と呼びました。彼の歌と伝えられるものに
「山は山、道も昔に変わらねど、変わりはてたるわが心かな」にも、それが感じられま す。両頭的な相対的認識を、明剣にたとえた一段論法の刀で、バッサリと断ち切る必要を 説くのがこの語です。相対的認識を解体した空の境地です。』・・・と。
直観を働かせるには、それなりの厳しい体験が必要だ。修行僧は日常厳しい修行に明け暮 れ、それが実ると悟りが開け、直観が働くようになる。そうするとこの禅語にあるよう
に、両頭が截断されて、絶対認識ができるようになる。私たちは、一般的には、死ぬか生 きるかというような厳しい体験をする訳ではないので、なかなか直観がはたらくレベルに 到達することが困難である。しかしながら、ものごとにはすべからく両面があることを理 解し、まずは反対物に注目しなければならない。自分と反対の意見をもっている人の言う ことにも常日頃から耳を傾けなければならない。ともかく、ものごとの両面を見ることの
癖をつけなければならない。それには、岡本太郎の「美の呪力」を読んで、その中で取り 上げられている石造や絵画のどれかを真剣に勉強することだ。実際に現地に出かけること は一般には難しいので、いろいろとネットで調べるなり、図書館で関係の図書を読むこと はできるだろう。その際、岡本太郎の「美の呪力」はまたとない手引書になるはずだ。