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18・19世紀南西諸島漂着中国帆船より     見た清代航運業の一側面

ドキュメント内 清代帆船沿海航運史の研究 (ページ 155-200)

1 緒 言

 中国海事史を概観する時、中国民衆の帆船による海上航行並びに海外発展に制限ないし制約 をしたのは、明代における「海禁令」であったと言える1)。そして、次代の清朝も、入関当初、

反清復明を標榜し海島に拠った鄭氏に対抗する上で、「遷界令」を発布し2)、民衆の海上航行 をも制限した。

 ところが、鄭氏の降服とともに「展海令」を出すと、中国民衆の海上航行が顕著になった3)

ことはよく知られているところである。しかし、このような海上航行の活発化は、当然海難事 故を誘発する遠因ともなり、特に風力にたよる帆船時代においては避けることのできない問題 であった4)

 とりわけ、東シナ海に浮ぶ南西諸島は、日本列島と台湾との間に点在し、中国大陸の江蘇・

浙江・福建省に及ぶ沿海地域と、沿海たる東シナ海と外洋たる太平洋との間に位置する地理的 状況のため、18世紀初頭から19世紀後半にかけて数十隻の中国帆船が漂着している。

 中国帆船の南西諸島への漂着の事実は、琉球中山朝期の外交文書である『歴代宝案』に記載 されており、既に先学により一部紹介されている5)が、『歴代宝案』に見られる中国帆船の海 難までの航行記録は、清代の航運6)業を考察する上で重要な資料である。

 そこで本章は、管見により知り得た漂着船の資料を明示するとともに、その考察によって清 代航運業の一側面を明らかにするものである。

1)佐久間重男「明朝の海禁政策」、『東方学』第6輯、1953年6月。佐久間重男『日明貿易史の研究』吉川弘 文館、1992年2月、25〜39頁。

2)謝国楨「清初東南沿海遷界考」、『国学季刊』2-4、1933年8月。

  田中克己「清初の支那沿海(一)(二)─遷界を中心として見たる─」、『歴史学研究』6-1、3、1936年1、

3月。

  浦廉一「清初の遷界令の研究」、『広島大学文学部紀要』5、1954年3月。

3)松浦章「杭州織造鳥林達莫爾森の長崎来航とその職名について─康熙時代の日清交渉の一側面─」、『東方学』

55輯、1978年1月。松浦章『江戸時代唐船による日中文化交流』思文閣、2007年7月、77〜97頁。

4)金指正三『近世海難救助制度の研究』吉川弘文館、1968年9月。

5)宮田俊彦「雍正乾隆年代琉清間の商船五隻について─『歴代宝案』第二集による─」、『海事史研究』3 4合併号、1965年4月。宮田俊彦『琉明・琉清交渉史の研究』文献出版、1996年6月、290〜309頁。

  平和彦「近世奄美諸島漂着の中国人と朝鮮人の護送」、『南島─その歴史と文化─3』第一書房、1980年10月。

6)本章では、元以後の漕運の一環としての漕米輸送である海運と区別する意味で、海上輸送業を航運業とし て使用した。

2 南西諸島漂着中国帆船の航行記録

 『歴代宝案』は先学により紹介されているように漢文体の外交文書集7)で、一・二・三集に 別れており、中山朝では漂着船や、漂着人が見つかれば救助し本国へ送還している。その間の 事情が詳細に記されている。

 とりわけ中国船の漂着は、康煕三十九年(1701)から同治元年(1862)までの約160年余に 60例が知られ、漂着にいたるまでの経過は、乗組員の「口称」として記録されているが、『歴 代宝案』は先学が指摘されたように一部散逸して完全なものでなく8)、本章は台湾で影印され た『歴代宝案』一・二・三集15冊本9)を使用した。

 琉球国から清朝中国への漂着人・船の報告は、福建等処承宣布政使司宛の咨文の形式をとり、

一部分、礼部からの返礼咨文も含めるが、福建布政使司の咨文をもって一形式となっている。

ところが、中には欠いていたり、脱字等もあるため、本章では、漂着資料を抽出するに当り琉 球からの咨文をもとに、福建布政使司の咨文で補う方法で資料を明示した。琉球の咨文がない 場合は福建布政使司の咨文によった。

 そして、特に必要と思われる箇所にのみ注記し、出典は、各資料の表題の後に記した。漂着 資料の配列順は、南西諸島への漂着の年月順にし、同日、不明の場合は、『歴代宝案』の記載 順にした。但し既に紹介された長崎貿易船の漂着事例10)については本章では割愛した。資料 中の□は不明文字である。

○漂着資料

① 康煕三十九年十二月二十日(1701・1・28)北山地方漂着船(二集2、1561〜1564頁)

拠敝国属島北山地方官浦佐郁等報称、康煕三十九年十二月二十日、福建福州府船主陳明等、

共計二十五名、駕船一隻、前往山東貿易、装貨回閩時、忽被逆風、飄至□破、随帯有白荳 一百三十四包、□荳一十一包、核桃四十包、紅棗二十五包、紫草一十一包、杏仁四包、黄苓 一十一包、烏梅一包、油蔴三包、緑荳一包、鉄釘二十包、竹籠一十四個、帽盒二個、甕大小 共三十個、鼎大小共四口、斧頭五把、面桶二個、水楻二個、胶桶一個、斗□個、柳斗四個、

鑼一面、鼓一面、菜刀一把、柴刀一把、棕索二条、□棕索一条、索仔一梱、水櫃一個、鈷三 7)小葉田淳「歴代宝案について」、『史林』46巻4号、1936年7月。

  頼永祥「一部中琉関係史料─『歴代宝案』」、『大陸雑誌』10巻12期、1955年6月。

  平和彦「琉球『歴代宝案』解題および若干の収録史料について(1)〜(3)」、『アジア・アフリカ資料通報』

Vol.11 No.7,10,11,1973年10月、1974年1、2月。

8)小葉田淳「歴代宝案について」、頼永祥「一部中琉関係史料─『歴代宝案』」、平和彦「琉球『歴代宝案』解 題および若干の収録史料について(1)〜(3)」参照。

9)『歴代宝案』全15冊、国立臺灣大学出版、1972年6月。沖縄県では現在校訂本を刊行中である。

10)宮田俊彦「雍正・乾隆年代琉・清間の商船五隻について─『歴代宝案』第二集による─」、平和彦「近世奄 美諸島漂着の中国人と朝鮮人の護送」参照。

個、錫酒瓶一個、白毡□十条、白蔴三梱、銅銭四包共計三十四件貨物、別無銀両、軍器等物等。

② 康煕四十五年正月十八日(1706・3・2)恩納地方漂着福建船(二集4、1617〜1618頁)

拠敝国属地恩納地方官報称、本年正月十八日下午、海船一隻来破、即刻出小船数隻、救活 一十八名、船戸游順口称、順等係福建福州府閩縣人民、順等二十四名、駕船一隻、装載杉木、

于旧年五月十二日、閩安鎮出口、往海州地方、発売杉木、転往山東青州府、収買黄荳・紅棗・ 紫草・瓜子・核挑等物、十一月、回閩時、遇狂風、損壊篷桅、飄到海島、不知何名、割断棕 索、十二月二十四日、又飄至北山属地大島地方、(中略)至正月十六日、大島地方開船、又 遇暴風、飄到外山打破、蒙救活一十八名、溺死者六名、(中略)所帯貨物并船器等、淹矢尽 無等。

③  康煕五十七年正月五日(1718・2・4)太平山地方漂着浙江・定海鎮兵船(二集9、1777 頁)

拠敝国属島太平山地方官毛鴻基等報称、於本年正月初五日、海船一隻、在本島破壊、即刻発 士民撈救、細則来歴縁由、難人百総王拱等倶称、拱等浙江寧波府定海鎮標左営、清字三号、

雙□□□一隻、配□戦水兵五十名、奉定海鎮総兵官張国令、出洋巡哨、是五十六年十二月初 一日、楊将官坐帯五隻兵船、出定海山、初十日、至長塗港泊船、十五日、開往衢山、十九日、

五隻兵船、倶収普陀山泊船、我船於二十日夜二更、天忽遇颶風、将椗纜倶断、飄開外洋、

二十一日、桅舵倶壊、八人伏□失水、随風逐浪、直至五十七年正月初五日五更、□飄至琉球 国太平山撞巌撃砕。

④ 雍正十年十月二十五日(1732・12・22)山北・徳島漂着江南船(二集19、2167〜2169頁)

拠山北今帰仁地方官報称、江南省太倉州宝山縣商船船戸顧洪順等口称、順等一十五名、坐駕 沙船一隻、干雍正十年六月二十日、在劉河、装載雑貨、往山東発売、干九月十六日、出口、

十月十二日、在通州呂四場、放洋、十五日、陡遭大風、失舵棄桅、至二十五日、飄到琉球山 北官轄徳島外、拗失舵棄桅、至二十五日、到琉球山北官轄徳島外、抛椗奈綜、被礁石割断本 船、飄出大洋、順等急上杉板、惟載色布七包、登岸保命。

⑤  乾隆五年十一月十六日(1741・1・3)多良間地方漂着福建船(二集24、25、2356〜 2359、2367〜2368頁)

拠敝国属島麻姑山地方官報称、於乾隆五年十一月十六日、海船一隻、在本島多良間地方、衝 礁破壊、即刻発小船数隻、救活難人、併撈挙貨物、細開来歴縁由、船戸王同興票称、興等、

係福建泉州府同安縣人民、共計二十一名、駕船一隻、係本縣照票順字二百七十五号、装載糖 貨、於乾隆五年五月十二日、由厦門、出往浙江寧波府、発売訖、随到山東、収買柿餅・核桃・ 紫草・粉乾・青荳等物、於十一月初五日、放洋回閩時、忽遇颶風、篷桅倶壊、随風遂浪、直 至十六日、飄至琉球国麻姑山打壊、蒙本処地方官撈救所帯貨物器用雑物等由。

  計開人数

船 戸王同興  舵工楊 発  搭貨客障州府人連 譲  水手 林宝  王勝  李夏   黄使  黄春  李発  王秋  呉裕  玉成  陳添  王転  林旭  黄益   林順  王英  王進  王夏  陳全

  計開貨数

一柿餅   二十包  一核桃 一十七包 一粉乾  一十八包  一紫草 一十一包 一肚簍    二個  一烏荳 大小六包 一帆布    一梱  一棹子   一塊 一鑼     一面  一棕衣 一十七領 一雨傘    四枝  一粉乾  二小袋 一柳斗    二個  一甕    二個 一鼎   大小三個  一竹箱 一十四個 一布袋包 一十四個  一皮箱   四個 一甲万箱   一個  一馬包   二個 一鋪盖    四個  一食籃   一個

⑥ 乾隆六年(1741)頃琉球漂着船(二集24、25、2352〜2353、2391〜2393頁)

乾隆六年七月十九日、奉署福州将軍暫署閩浙総督印務策批本署司詳、査得泉防庁詳報陳得豊 船隻、駕往上海、輾転遭風、飄収琉球回掉一案、(中略)拠泉防庁詳称、細訊舡□舵水、咸 称該船在上海、即欲回掉、因無貨可載、前往錦州、錦州又無回貨、適有貨客徐必等、僱往盖 州、并在蓋州、攬載高士等貨、順途回掉、遭風棄桅、飄往琉球。

⑦  乾隆十四年十一月二十一日(1749・12・30)山北本部地方漂着船(二集30、31、2553、 2580頁)

ドキュメント内 清代帆船沿海航運史の研究 (ページ 155-200)

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