貞 印 慶 長 十 九 年 一
丁文隆
︵一
六一
四︶
生
﹁女
一前
病︑
享保
十年
︵一
七二
五︶
九月
二十
五日
死す
江戸にて宝永二年︵一七O
五︶
七月
三十
日死
す
子
浄 光 寺 誓 誉 丁
下 ー
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第十六代文誉元は誓喜河 瀬 氏 女 慶 安 元 年
︵ 一 六 四 八
︶ 生
十二歳で丈歓上人の弟子となる
これに対して︑﹁出家衆帳﹂の日永興正寺に関する記述は以下の二点である︒
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三二五空同竪同寛
年 , ; ; 年 三
霜向十三
廿十月月手二ろ
八立十
日 三日
日永文政弟子誓学
十三
歳﹂
得 度
日永興正寺弟子
十 歳
民部
卿︵
花押
︶﹂
前者にみえる丈政とは︑第十四代文政大徳のことだろう︒文政の弟子であるので第十五代の丈歓と考えられるが︑
名前も年齢も異なる︒文歓は慶長十九年︵一六一四︶生まれとされるので︑寛︑水五年︵一六二八︶当時ならば十五
歳となってしまう︒二歳の差は単なる誤差で︑同一人物をさすとも︑二歳違いの別人をさすとも解釈できる︒また︑
後者にみえる民部卿は第十六代文誉であればよいのだが︑これも慶安元年︵一六四八︶生まれであるので︑承応三
年︵一六五四︶当時は六歳となり全くあわない︒しかし︑養子の丈誉以外に丈慶・文隆がいる︒長男の丈慶が当初
後継者として予定され︑民部卿という官途名を名乗っていたと想定するのが妥当なところだろう︒
この二つの件から︑以下の二点が想定できる︒一つは︑年齢の誤差の可能性である︒﹁出家衆帳﹂の冒頭には
﹁従元和元年十三歳ニ落髪スルヲ為本意︑聡十三ヨリ内︑亦十四ニテ致落髪候共︑後ノ十一二ヲ以テ可上座者也︑如
件﹂と︑十三歳未満で出家しようが︑十四歳で出家しようが︑十三歳できっちり出家した僧侶が上座となるという
規程が示されている︒この規程故︑十三歳という年齢にこだわって本山に申請した可能性があるといえる︒出家年
齢が規定されているために︑年齢の恋意的操作が想定できるのである︒二つは︑当初予定されていた人物と異なる
人物により︑寺院が継承された場合である︒興正土寸の例でも明らかな様に︑寺院の子弟すべてが出家して︑﹁出家
衆帳﹂に記載されているとは考えられない︒また︑興正寺の場合は文慶・文隆ら︑寺を継がなかった人物までしっ
かりと系譜に表記されているが︑何らかの理由で系譜から削除された場合もあるだろう︒
では次に︑興正寺に文誉を入寺させた現津市河芸町北黒田に存在する浄光寺についてみてみよう︒﹁出家衆帳﹂
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浄光寺末弟
7じ 勝
歳十
四歳
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近世初期における高田派の教団形成
七
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善治否応王寛=扇 弐完仁三永竺期 年)年)五孟巨
十 六 年
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一 月 拾 三 月 十 月 孟 廿 ー 廿 回 二 日 二 派
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里 杢王
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浄 光 成
光 寺寺 弟
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七
治部卿
歳十
三歳
﹂
十仁歳
治部
卿︵
花押
︶﹂
黒田浄光寺弟子
治部卿という名が二回出て来るが︑浄光寺の継承者につけられた通称と考えてよいだろう︒他の寺でも︑官途名
を二代にわたり名乗っている者が確認できる︒弟子が実質は父子関係であることの傍証となろう︒一方︑官途名が
なく︑﹁弟子﹂ではなく﹁末弟﹂と記された元勝は父子ではない可能性がある︒元勝は︑浄光寺の末寺なのかもし
れない︒浄光寺は︑末寺を多くかかえたとされる寺院である︒しかし︑それにもかかわらず末寺らしきものはこの
得 度
十二歳七位︵花押こ
一件のみである︒やはり︑﹁出家衆帳﹂に登場する人々の多くは︑寺の継承者だったとみてよいだろう︒また︑注
目されるのは︑万治二年︵一六五九︶得度の七位である︒興正寺の十六代文誉と年齢が合致しており︑文誉本人を
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3彰見寺の事例から
第四世智光院釈恵澄
1
第五世遍満院光縁lil−−イ平三郎下1
i上
慶 長 七 年
︵ 一 六
O二︶生↑
青厳寺明蓮房↑慶安三年︵一六五
O︶寂丁第六世慈眼院潮誉普門
息 女 妙 超 一 一 寛 永 十 三 年
︵ 一 六 三 六
︶ 生
T
慶 縁 鳥 羽 本 照 寺 へ 一 承 応 二 年
︵ 一 六 五 三
︶ 関 東 遊 学 下 栄 讃
T
清有 一 一 寛 永 二 十 一 年
︵ 一 六 四 四
︶ 生 十 元 禄 十 三 年
︵ 一 七
OO
︶死
天 折
伊賀上野大仙寺へ
一一つ日の例は︑現三重県津市大谷町にある彰見寺の例である︒
﹃彰
見ヰ
一軒
﹄
を参考に当該期の歴代を図にした︒
一方
﹁出
家衆
帳﹂
から
は以
下の
一一
一件
の記
述が
確認
でき
た︒
﹁
O
寛永三年六月廿二日︵一六一二五︶︵二月︶﹁O
寛永
十弐
年極
月一
一一
日
﹁
O
慶安元年六月廿八日 津彰見寺弟子也︑ 水 讃
十四
歳﹂
津彰見寺弟
座 入
文可
十八
歳﹂
津正見寺弟子
長 有
十三
歳﹂
寛永三年︵一六二六︶にみえる永讃は︑同じ音の栄讃のことだろう︒また︑寛永十二年︵一六三五︶にみえる文
可の事例は︑十八歳と年齢も高く﹁座入﹂と記されており︑本山での地位を得た例である︒系譜からは︑丈可にあ
たる適当な人物がみあたらないが︑あるいは元和四年︵一六一八︶生の平三郎であろうか︒一方︑慶安元年︵一六
の長有は寛永十三年︵一六三六︶生の普門と年齢が合致する︒名は異なるが︑同一人物と考えてよいのでは
四八
︶
なか
ろう
か︒
名が異なる点については︑同じく津市内に存在する教円寺と善行寺の例をあげて更に考えてみよう︒現在津市阿
漕町にある教円寺は﹁出家衆帳﹂に次のように記される︒
︵寛
永︶
︵一
六二
八︶
︵十
二月
︶
﹁ 一
O
同五年極月廿日座入素絹着︑周法廿歳﹂︵慶
安︶
︵一
六四
八︶
﹁
O
同元年十一月廿五日岩田周法弟子︑玄察十三歳﹂﹃津巾史﹂では西国から来た周法法師が岩田に一寺を建立したという由緒を紹介しており︑﹁出家衆帳﹂の人物名
と合致する︒また︑現在津市栗真小川にある善行寺は︑﹁出家衆帳﹂に次のように記される︒
︵慶
安︶
︵一
六五
一︶
﹁
O
同五年八月九日小川村善勝︑四十三歳︑座入︵花押︶﹂﹃高田の寺々﹄には中興を善性とする由緒が掲載されている︒文字こそ異なるものの︑名の音は合致しており︑
善勝のことをさすとみて間違いあるまい︒これら二つの例はともに伝承と一致しているが︑注目すべきはともに年
近世初期における高田派の教団形成
七
近世初期における高田派の教団形成
七四
齢が高い点である︒十三歳前後の名前をそのまま使い続ける人物が少なかったことが︑名前が合致しない主要因と
想定されるのである︒
本章では︑﹁出家衆帳﹂が寺の相続予定者を中心に圭一回かれた史料と想定できることを明らかにしてきた︒また︑
以下の三点の理由で﹁出家衆帳﹂の記載が寺伝や由緒と異なる名や年齢が多いと想定されることも明らかにした︒
一つは︑出家年齢を
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一一一歳とする本山の規程により︑年齢の恋意的な操作が行われた可能性がある点である︒二つは︑当初予定されていた人物と異なる人物により︑寺院が継承された場合である︒三つは︑
l
二一
歳の
時の
名前
を一
生使い続ける場合が少なかったと想定される点である︒
これらを踏まえて活用したならば︑﹁出家衆帳﹂は近世初期の高田派の様相を末寺も含めて理解できる重要な史
料となり︑末寺の由緒をより深く考察することも可能となろう︒
二︑近世初期の高田派
末寺の分布
本章では﹁出家衆帳﹂から読み取れる︑古岡田派の分布について検討したい︒不明の一件を除き︑殆どの寺院の所
在地を比定し︑旧国・群別に数量をあらわしたものが表ーである︒同一の寺が何度も登場する場合も含めて︑すべ
ての数を合計した︒また︑重複を除いて計算した数値は︑︵︶を付けて表記している︒
表ーからは︑伊勢国の割合の高さが一目瞭然となる︒また︑表2は伊勢国内の旧郡を北から順にならべたもので
あるが︑本山のある益芸郡や︑専修寺と密接な関係を築いている藤堂家の拠点である安濃郡など︑現在の津市・鈴
鹿市周辺を中心とした分布がうかがえる︒三重郡も四Oを数えるが︑現在の四日市周辺は高田派中興とされる真恵
が最初に教化した土地故だろう︒一方桑名郡や朝明郡は梅めて少なく︑員弁郡に至っては皆無である︒この地域に
は多数の本願寺派寺院が存在してる故だろうか︒また︑現在の松阪市・伊勢市を中心とした地域である飯高郡・飯
野郡・度会郡の数は非常に少ない︒この地域には現在の伊勢市を中心に多数の浄土宗寺院が存在していたことと関
連が
ある
かも
しれ
ない
︒
なお︑集落別でみると︑本山のある一身田︑藤堂家の城下町津が続く︒
「出家衆帳」からみた国別高田派の分布
奥陸 蔵武 駿 尾 i美農 越 近 山 志摩 伊賀 伊勢 国
i可 I可 張 前 江 城 名
国 国 国 国 国 国 国 国 国 国 国 国
五 、ムノ 五 四 四
左,4、 四
( ( ( ( ( (
四
) ) ) )
四 ) 七 ) ) ) ) 七 計
四
表1
近世初期における高田派の教団形成 一身田寺内に︑現在よりも多くの寺院が
存在していたことがわかる︒