図1 ワイゲルト家の系図
︑ ̲ /
6ンス
2 6 マ ア 2 g ル リ 19 08
ヘエ
18 19
□
︳ ド げ
↑
m
邸6 5
. .
ナ ル 2 9 3 7 ン エ 8 8 1 1 ア ウ
*
+
生ょ
日 u r
︑ , . '
ナ
ーン
ア
二 , :
ロルフ アルベルトI
* 1902.3.6
ヽ~‑ 4 3 ゼ ヤ g 2
一イ
1 J 7 3 リ マ 5 3 工姓
18 19
属 い [
︶ 三
シ ャ ロ ッ テ _ マ ー チ ン
(旧姓ヴェラー) (ヨハン)
*
1844.4.29+1945.2.2
den.
J
/
/)
ハンス ヘルタ
(イスラエル「丘日姓リヒター)
* 1885.11.18 +1960.8.2
A
• 1929.6.20
B
* 1934.9.13
関 法 第 四 八 巻 第 五
・ 六 合 併 号
八〇
(1
0五
四︶
テレビ朝日の映像に関しては、私は、テレビ朝日ベルリン支局へ何回となく借用•閲覧を申し入れた。しかし、当
初︑映像の放映権を理由に見せて頂くことができなかった︒私には理解できないことであったが︑その後︑関係者の
努力によりビデオの借覧が可能となり︑本稿の最終段階で映像を見ることができた︒
テレビ朝日の映像につき多くは言及できないが︑映像作成の過程で︑これまで述べたような基礎的な調査が行われ て
いる
︒
以上の検討から明らかなように︑来日した﹁エリス﹂として︑
鴎外研究者は︑このエリーゼに関し︑多くの論文を発表している︒そのさい︑論述は︑残念ながら︑テレビ朝日の映
像や︑あるドイツ人情報に依拠したものが多く︑自らの足で集めた資料による裏付けと検証を欠いている︒これは戦
後四
0
年におよぶドイツ民主共和国の介在が最大の理由であろう︒しかし︑今やドイツ統一から八年を経過しており︑このような現状は早急に克服されなければならない︒統一の混乱から脱し︑今や資料も次第に整理された段階に入っ
(5) 家系図(AhnentafetJを作る習慣があるが︑ここでは簡単な図表にまとめるに過ぎない︒ただし︑実名は戦前・戦中 最後に︑ワイゲルト家の家系図を一覧表にまとめておこう︒ヨーロッパでは︑特に名門といわれる家系において︑
に死亡した者に限りそのまま記載するが︑現在︑生存可能と思われる関係者については︑
A.B
の匿名で記す︒関係
鴎外
の恋
人﹁
エリ
ス﹂
﹁エリス﹂とエリーゼ 者のプライバシーを護るためである︵図
1)
︒ ものである︵写真
1 3 )
︒
八
エリーゼ・ワイゲルトが記録の上で浮かんでくる︒
(1
0五
五︶
たのであろうか︒それが無い限り︑同テレビもどこかのドイツ人情報に頼っている可能性が高い︒ところがこの﹁ド
イツ人情報」というのがくせ者である。法律家としてしばしば経験することであるが、情報源•取材源が明らかにさ
れていない報道や論述は︑しばしば真実を伝えていないことがある︒
そこで︑ドイツ人情報について一言しておこう︒私の調査では︑鴎外に関する最も正確なドイツ人情報は︑
七年︑ベルリン・フンボルト大学に提出されたハイケ・シェッヒェ
家・森鴎外の人と︵初期︶作品﹂である︒この点は︑私が接触したドイツ側専門家も一同に口をそろえたところであ
この論文は︑鴎外のドイツ滞在経験(‑八八四年ー一八八八年︶が初期三部作にいかなる影響を及ぼしたかを詳細
に論じた本文(‑三一頁︶と︑五五頁にわたるそれに関する補充ノート︑および﹁独逸日記﹂の翻訳からなる︒この
一九
九二
年︑
Mo ri O g a i ,
﹃
D
t s
g
c h l a n d t a g e b u c h ,
﹄と
して
︑ Ko nk um bu ch
社から出版され
ている︒同女史は︑来日した﹁エリス﹂とエリーゼの関係についても論じており︑彼女なりの調査からこれを否定し
ている︒ところがわが国では誰もこの論文を取り上げ︑正面から検討した形跡はない︒そうだとすれば︑これに代わ
る適切な鴎外研究者があるとすれば︑主張者は︑あるドイツ人情報と言った曖昧な表現を用いることなく︑これを明
次に︑調査の過程で明らかとなったエリーゼに関する疑問点をまとめておこう︒まず︑来日した﹁エリス﹂は︑前
述のように︑確認されたすべての新聞情報によっても︑M店
E l i s e ( E) Wi eg er
tまたは
Mi ss E l i s e Weigert
と︑独身
の女性表示になっていることである︵写真
9)
︒昨今は︑ミス らかにする義務があろう︒ うちドイツ日記の翻訳が︑ る ︒
関法第四八巻第五・六合併号
︵フラウ︶を区別しない表
( H a
奇
S c h o e c h e )
女史の博士論文﹁日本の作
︵フローライン︶とミセス
八
(1
0五
六︶
一九
八
鴎外
の恋
人﹁
エリ
ス﹂
フラ
ウ︶
であり︑しかも三一歳で︑二人の男の子を抱えている︒
鴎外が日露戦争に従軍したとき詠った﹁担紐﹂の詩にある︑﹁こがね髪︑ゆるぎし少女﹂という表現から︑鴎外の 恋人としては︑金髪
11
プロンズの少女像が想定される︒また︑小説﹃舞姫﹄
︵第一部③︶︒これに反し︑現実のエリーゼは︑鴎外よりも五歳年上で︑人妻で二人の子持ちと言うこと になる︒詳しくは後に論じるが︑このような女性像は︑年齢的にも︑髪の色からしても︑来日した﹁エリス﹂の実像
最大の疑問は︑
エリーゼがドイツを出航し︑日本に上陸した時期︑および︑逆に︑日本出国・ドイツ入国の時期と
一八八八︵明治ニ︱)年七月二五日︑日本︵横浜︶上陸は九月︱二日である︒また︑日本
滞在を諦め︑横浜からドイツヘ向け出国するのが一0
月一七日であるから︑おそらくこれから約ニヶ月後の一八八八 そこで︑改めてワイゲルト家の系図を見ると︑リヒャルトとエリーゼの間には二人の子供がいる
逆算して︑弟ハンスの誕生日はニー三年後と推定される︒私は︑兄マーチンの戸籍調べに関連して︑弟ハンスの戸籍 調査を執拗に行った︒しかし記録の欠落から横
11
兄弟の線は出てこなかった︒したがって︑
しかし︑これに代わって︑ ︵第一次資料︶により確定することは出来ない︒ ンとハンスである︒兄のマーチンは︑
J¥
10
0年前には厳然とした区別があった︒現実のエリーゼはリヒャルト夫人
( M r s . =
のエリスも︑うら若き少女がモデルと
︵ 図
1)
︒
マー
チ 一八八四年四月二九日生まれであることが戸籍簿により確認された︒ここから
年︱一月から︱二月にかけてドイツ︵ベルリン︶ 関連する︒ドイツ出航は︑ から離れていくような気がする︒ なっている 記方法が一般化しているが︑
へ帰ったことになる︒
ハンスの誕生日を戸籍簿
ハンスの誕生時期を合理的に推論することはできる︒住所録によれば︑ハンスが商人と
(1
0五
七︶
照 ︶ ︒
︵四
⑦参
(1
0五
八︶
して最初に登載されるのは︑父親リヒャルトの死亡後の一九0九年版からである︒このような︵準︶公式の記録に未
成年者が記載されることはあり得ないから︑ハンスは︑遅くとも一九0八年中に成年に達したものと考えられる︒現
行の民法典によれば成年年齢は一八歳であるが︑当時はニ︱歳であった︒
ハンスは一八八七年に生まれたことになる︒母親が来日した一八八八年には満一歳で
あった︒このときェリーゼは︑四歳になる男の子︵長男︶と︑
児にもっとも多忙な時期にあたる︒これでは日本行きは事実上不可能であり︑鴎外との接触さえ怪しくなる︒少し時
期をずらして考えてみても︑兄が四歳︑弟が二歳になったばかりであるから︑エリーゼが渡航できる状態にない︒夫
リヒャルトのことはしばらくおくとしても︑二人の子供の出産・育児に専念しなければならない時期にあたるからで
ある︒育児は他人に任せられるとしても︑産後間もない幼児を放って東洋まで行くのは困難であろう︒こう考えてく
ると
︑ エリーゼを取り巻く客観的状況から︑彼女の来日は不可能と言えないまでも︑困難と言わざるを得ない︒
それでもあらゆるしがらみを断ち切って来日したとしよう︒ この推定が正しいとすれば︑
関法第四八巻第五・六合併号
エリーゼは︑最愛の夫と二人の可愛い息子を放置し︑
また︑社長夫人としての地位を捨て︑恋とはいえ東洋の片田舎まで鴎外を追ってやって来たのであろうか︒しかも︑
このような行動が分別盛りの三一歳の女性に可能だったろうか︒また︑彼女が敬虔なユダヤ教徒であるとき︑
教徒として︑このような暴走が簡単に許されたであろうか︒このような状況を考えるとき︑エリーゼは︑出国に際し
決死の覚悟を決めていたはずである︒このとき︑いったん捨てたベルリンヘ︑鴎外に拒否されたからといって︑おめ
おめと帰れたであろうか︒後に示すように︑﹁エリス﹂帰国の際の客観的状況は︑あまりにも臨場感がない
ユダ
ヤ
一歳の乳飲み子︵次男︶を抱えていたことになり︑育
八四
鴎外
の恋
人﹁
エリ
ス﹂
との微かな望みを持っていた︒
八五
一部の墓の所在は分かっていたが︑ワ また︑帰国後のエリーゼの足跡をたどるとき︑いったん主人や子供を捨てた人とは思えない活躍振りである︒1
年代から二0年代になると︑夫リヒャルトが早く死亡したこともあり︑シュナイダー会社の経営が問題となった︒0
このとき彼女は︑代表として会社経営に乗り出し︑大車輪の活躍をする︵曰参照︶︒もしエリーゼが︑夫を捨て︑子
供を
捨て
︑
ワイゲルト家から縁を切った女性であるとき︑このような形で会社経営者として復帰できたであろうか︒
しかも︑彼女が戒律厳しいユダヤ教徒の家系に属するとき︑ワイゲルト家がこのことを簡単に許したであろうか︒こ
以上のエリーゼ・ワイゲルトに関する基本調査が一九九七年の夏までに終わり︑秋に入って整理をする段階になっ
た︒このとき︑私は︑日本で彼岸のお墓参りの時期にあたることを思い出し︑
のためには︑関係者の墓所と墓石を確認する必要がある︒戸籍調べに関連し︑ ワイゲルト家の墓参を思い立った︒こ
イゲルト家の全体像が知りたくて︑調査を開始した︒これにより︑次男ハンスの生年月日を特定できるかも知れない
私は︑当時︑大学通りからスプレー川を越えたところにある︑ベルリン・フンボルト大学の寄宿舎に住んでいた︒
この宿舎の北側にオラーニエンプルガー通りがあり︑その一角にユダヤ教会
( N
e
g
S y
n a
g o
g e
Be
rl
in
)が
燦然
と輝
い
ている︵地図
3)
︒ここはベルリンにおけるユダヤ教のメッカであり︑古い歴史(‑八六六年創建︶を有するととも
に︑
図書
館と
ユダ
ヤ公
文書
館(
Ar
ch
iv
f u
e r
e Z
nt
ru
m J
ud
ai
cu
m)
を併
設し
てい
る︒
鴎外
もま
た︑
ベル
リン
滞在
最後
の
⑥ お 墓 参 り
の問題の検討は︑次のシュナイダー会社の実態分析に譲る︒
(1
0五
九︶
一九