年の都市計画家
κ
は,オスマンの徹底した技術的アプローチ.概念のスクール の大きさ,半独謝句な特権を駆使した計画の操縦,莫大な資金調達能力など,彼の先見の明と力強い活力から感銘を受け,彼をして新しく創出される秩序の 1 9世紀的予言者,則ちガルニエやコノレピジェ(共にフランスの都市計画家で 近代都市計画の父である)の先駆者と見なしているのである。さらK付け加え るならば,現代の都市計画の根幹たる遠い将来を見通した交通問題の解決.統 一ある存在として明大都市 を考える思想(当時のパリは人口 10 0万人級の 大都市であった)は,彼によって創始されたものである。又,一種の外科手術 Kよる空間の創造を通じての衛生問題解決法も然りであり,及びバロックにお ける知き視覚的儀式的な効果を狙って配置されるのではなく,単に空いている という消極的な意味で計画されるオープンスペースの概念Kついても,彼
κ
負 うところ大である。つまり循環と呼吸とL、うこ重のシステムの概念こそ,彼の 計画の根本であり,オリジナリティであったと言えよう。影響:ォスマン方式の都市改造は世界中K新鮮な驚きをもって受け入れられて 当時のセンセーションを巻き起し.以降50年間絶えず関心と論議の的となっ ていく中で,オスマン派と呼ぶべき多くの都市計画家を輩出した。又実際の計 画の中Kもオスマン方式は深く浸透し,ウィーンやベルリンを始めドイツ諸都 市.バルセロナ,ローマ,又シカゴの計画を頂点とする u都市美運動 の下
κ
アメリカの大都市を生み出し,改造していった。しかし,プールパールの手法 や中央駅を一方の焦点とする軸線構成等の細部のみが模倣される場合が多く.
都市問題の全面的解決K立ち向う姿勢をオスマンから学び,実行K移した例は 数少ない。
〔黒川直樹〕
〈参考文献〉
1) Saalman,Howard,Haussmann:Paris
Transformed.Planning and Cities, 1971,
‑41ー
Braz i I !er.
2) Giedion,Siegfried,Space,Time and Ar ch i f e c tu re, the gr ow t h o f a new
t r a d i t i o n , 0 am b r i d g e , Ha r v a r d Un i v e r‑
sity Press, 1957 5th ed. (邦訳「空間時間建築」
太田実訳,丸善.昭和4 4年1月)
芸 術 都 市 ( ジ ッ テ )
0 am i I o S i t t e ( 1 8 4 3 ‑1 9 0 3 ) , De r S t a d t e ‑B a u nach seinen Kunstlerischen Grundsatzen, Wien,1889. 〔英訳 0 i t y p I an n in g a c cord in g
to Art i s t i c Pr i n c i p I es ( t r an s. by G. R. and O.O.Oollins),New York,1965〕
カミロ・ジッテはオーストリアの建築家で,美術史,考古学,視 覚の生理学・心理学を研究.ザルツプルク( 1875)およびウィ
ーン( 1883)で美術工芸学校を組織し,モリス的1J:美術工芸 運動を推進するとともf'(,1889年,著名な「芸術的原理による 都市計画」を干l府し,国際的な名声と影響力を獲得.さらに陣↓学 的・社会的原理
κ
よる都市計画」および総合芸術κ
関する大著の刊 行を準備していたが,未完のまま没した。都市計画はひとつの「芸術」であり,都市計画像は,有史以来多くの画家や 彫刻家が教えられ,学んで来たと同じ原理と方法から指針を得ることができる。
基本的なことは,都市計画tておいても美術や彫刻と同じよう
κ
自然および過去の巨匠から学ばねばならないということである。都市計画とは単に下水道や道 路を敷設することではなく.心理学的・生理学的
κ
都市の住民の要求Kふさわ‑42‑
しいよう
κ
都市を造形すること,特K市民が戸外で集合したり,散歩したり.またひとり静かに膜想したりする適切な場所をつくりだすことである。現代の 都市はほとんどまったくこのような要求KかなっていなL、。それK対して.古 代・中世・ノレネサンス・バロックの時代の都市造形Kは驚くほどすぐれた都市 造形の実例を見ることができる。
たとえば,都市の各部分,各スポットにおける眺めの透視画的な効果は,過
円‑ c
・
去の都市ではいずれも変化('C富み,美しく,一連の絵画を並べた観があるが,
近代都市ではたいてい単調で退屈で散漫である。これは単に都市建築そのもの が単調で退屈であるばかりでなく.その配列や道路との関係づけが誤っている からである。過去の都市では道路の軸線が適度K変化させ,視覚的
κ
「閉じら れた建築的効果」を出すようにくふうしている。これは必ずしも中世都市のよ うに曲りくねった道路によってのみ達成されるのではなく,ルネサンス都市や パロック都市,あるいはギリシア・ローマ都市のような直線道路を用いた都市 においても巧みκ
達成されている。都市の広場についても同様であって.広場
κ
立った人聞の阪から見て,広場 を囲む建築都切れ目, i
;あってはならない。切れ目なく連続的畑むことによ って広場に独立した安定と落着きが保たれる。また広場の中央部は自由に空け ておかなければならない。古代およびイタリアのすぐれた広場計画の実例はそ れらを証明しているoまた道路の幅や広場の大きさと周囲の建物の高さとの比 率も重要であって.道路の幅と建物の高さはほぼ等しいことが望まして,広場 の大きさはそこに立。公共建築物の高きのこ倍の深さをもつことが望ましい。また幅と長さの比も3 : 1が限度で,あまり細長い広場は効果を失う。すなわ ちすぐれた都市はそれ自体建築と同じようK三次元的な芸術であって,けっし て偶然や自然に封lるものでなく,建説昆程のあらゆる段階における周到な視 覚的配慮からっくり出されている。
広場や街路を形づくる建築群は一種の連続的な「壁
J
をなして広場や街路を宏 司
凋崎
区切り,その構成要素は相互につながり合い,重なり合って,個々に孤立しな いようにする。たとえば教会堂などは広場のー偶
κ
はめこまれているのがよく,周囲から切離されて広場の真中に孤立しているのはよくなL、。また広場
κ
置く モニュメントや彫像Kついても同様で.周囲の「壁」を背景Kして立てるのが よい。しかるに近代の広場はそれらを中央K孤立させて配置するので,ほとん どの場合まったく毅課がなL、。都市の位指はその都市の公共広場と公共建築物 によってきまり,都市の美しさは主として広場群のリズミカノレな相互関係によ ってきまる。さまざまな形態や大きさの広場がー漣のものとなっているのがよ く.むしろ不規則な形と大きさの広場の連続がすぐれている。との点ではイタ リア都市,特κ
グェネチアが模範的である。しかし広場につながる街路のスペ ースはできるだけ広場から遮微されることが望ましL、。近代の広場は広場の中央
κ
彫像や施設を置いたり,樹木を植えた公園風のも のが多いが.都市広場はイタリアの都市広場のごとく中央を空白Kし.樹木な ども植えない方がよいR樹木を植えた広場や公園は普通の広場と異なり,互い に切り離して建物群で完全κ
遮断する。大きな孤立した樹木はそニュメントと 同じように,そのスペースの端や隅に配置するのがよ小。大量の樹木や植込み は無意味な幾何学配列をせず.幾つかのかたまりや島のようにまとめ,自然な リズムをもつように配置し,建物と競争せず,建物K従い調和するようにする。以上がジッテの所論の要旨であるが,一言でいえばジッテt土産業革命以後の 近代都市が造形的魅力K欠けている理由を,産業革命以前のヨーロッパ都市と の比較によって,一漣の法則として明らかにしたのである。近代都市の建設は たとえば土地の高度刑用,交通の利便,建築法規といったまったく実利的・技 術的基盤にもとづいて行われてきた。そのようにして形ずくられた都市は過去 の都市と多くの点で異なるものとなったが,道路や広場は街路樹やモニュメン トで飾られ.それなりK美化の努力はなされてきたのである0 l'Lもかかわらず,
近代都市がなぜ著しく造形的魅力を欠くかは,グッテの理論が現われるまでほ
‑ 4 4 ‑
とんど解明されなかったのである。ジッテは直接近代都市を分折するのでなく.
まず自分にとって魅力的かつ傑出していると思われた過去の都市の広場や街路 の特性を研究しそれらに共通する一連の造形的法則を抽出じて,ぞれらが近 代都市に欠けているととを指摘するという方法をとった。
周知のごとく,近代都市は交通路の確保のため直線的な大道路を貫通させた り大広場を設け.土地の高度利用に便利な長方形街区に分割し,それらを美化 し,衛生化するため道路には街路樹を植え,樹木の茂る公国を点在させること を常套手段としていたが,結果は広場も空地もすべてパーキングスペースと化
してしまった。ジッテの理論はこれらのことごとくが造形的な欠陥となること を指摘したのである。ジッテによれば,都市の構成は交通路で分割された街区 の集合ではなく.魅力ありかつ有用な形態とつながりをもった空間.特に広場 の連続から成りたつべきものとなる。したがって,近
f
桔日市の建設はただ土木 技師や官庁だけκ
まかせるべきでなく,建築家をはじめとする各種芸術家Kよ る総合芸術となるべきなのである。ジッテはアリストテレス,ウィトルウィウ ス,アルベJレティなどのほかK,同時代のパウマイスター( 1 8 3 3 ‑1 9 1 7 ) 'シテュッベン( 1845‑1936).メーノレテンスなどの都市造形の研究か ら刺載を受け,それらの成果を総合しているが,同時にリヒアルト・ワグナー の「総合芸術JGesamtkunstwer kの思想
κ
も深く影響されており,都 市左そのような場として考えていたらしL。、ジッテの影響は直ちにドイツおよびオーストリア
κ
広まり,カール・ヘンリ チ( 1842‑1922)やテオドール・フィッシfー( 1862‑1938 などの追随者が封l,またグルリットやプリンクマンなどの理論家が後継者として現われた。またベルギー,イギリス.アメリカなどにもジッテの思d が普 及して熱心な信奉者が多数活躍し.これを機会として各国て都市計画の造形的 研究が盛んになった。しかし,ジッテ自身がウィリアム・モリスの美術工芸運 動に共感し,中世的なピクチfレスクなものに特に関心をもったため,ジッテ
‑45ー