= 年一、
三 一つ物の成立と伝播
︵651︶ 一つ物研究の最新成果である東条寛が提出した一つ物の五つの特徴を
検
討しなおしてみたい︒それが︑民俗学者の典型的な一つ物観を映し出
しているからである︒
一、
移 動
にあたって︑馬に乗ることが一般的であり︑﹁土を踏んではな
らない﹂とする忌禁を伴うことも多い︒︵人ならざるものの移動︶
二︑一般的に童児によって勤められる︒
三︑渡御列で︑神輿の直前︑あるいは渡御列の先頭など︑重要とされる
位 置
を占める︒ 四︑これを勤める者は︑顔に特殊な化粧を施したり︑あるいは山鳥の羽︑
紙
手 を 付 け た
笠を着用する︒︵人間としての個性を離れて特別な存在
に変身︶
五︑これを勤める者は︑厳格な精進潔斎を要求される︒︵神への変身︶
これらに対する私のそれぞれの見解を以下に述べてみたい︒
一、
祭 礼 の 諸 役 が 騎 馬
で渡御する場合は多く︑馬による渡御に宗教的象
徴 的 意 味 を 二︑これは妥当であろう︒ ︵751︶ 見出すことはできない︒
三︑それほど顕著な傾向はなく︑むしろ永島が看破した如く︑神輿や屋
台が豪華になると︑そちらに人気が出︑一つ物は神輿神幸の先駆や供
奉 四︑笠の象徴性は通過儀礼や年中行事など民俗社会には多々みられるが︑ ︵851︶ 従属に堕していった︑と考えられる︒
一つ物の笠は風流笠であり︑化粧とともに目立つことを目的として凝
らされた趣向である︒笠や化粧を神への変身の装置とすると︑人より
神の方が多くなってしまう祭や芸能も多い︒笠や化粧は装飾的趣向で
あろう︒
五︑前近代社会においては︑祭の諸役の精進潔斎によって︑神が祭を享
けるか︑否かが決まるのであり︑精進潔斎は一つ物のみの特徴ではな
い︒それでは本稿の結論を整理してみよう︒
(一
つ物の成立・伝播について︶
一つ物は平安末期に畿内の祭礼において︑馬長︵童︶が田楽・王の舞・
獅
子舞・十列・巫女神楽・相撲・競馬・流鏑馬という当時の典型的な祭
304
祭礼を飾るもの
礼芸能の構成に組み入れられることによって成立した︒馬長︵童︶単独
の 場
合は︑一つ物の呼称はなく︑一連の芸能構成の成立後︑一つ物とし
て 認
識され記録されたと思われる︒一つ物の成立は︑植木が王の舞の事
︵951︶
例 で
指摘したように︑初めに一連の芸能構成ありき︑なのである︒その
成 立 の
場は︑永島のように宇治や春日に限定せずに︑祇園・稲荷.今
宮・日吉の各祭などをも射程にいれて考えるべきである︒一つ物は中世
初期以来︑畿内の祭礼・法会芸能から各地へ伝播していった︒平泉.
大
谷寺・白山・宇都宮・若狭などへは︑天台−日吉社系の神事芸能構成
の 一
つとして︑九州の宗像・北岡・藤崎・柞原などへは︑八幡社放生会
系の神事芸能構成の一つとして伝播した︒九州の坂東寺︑大善寺︑松浦
党による祭祀において︑一つ物は九日会に出ており︑白山や園城寺では
法 華 八 講
に出ていたのである︒各地に土着した一つ物は︑中世祭祀組織
や 宮 座 が
解体・変質すると多くのものは消えていった︒ある場所では
人身御供謹が付加していった︒
( 一つ物の範囲について︶
一つ物の範囲設定に際しては自重を必要とする︒それでなけれぽ︑祭
礼 に
おける多くの象徴が一つ物となり収拾がつかなくなる︒遇依童児を
二つ物的Lとする言説がまかり通っている︒勿論本稿は祭礼における
懸 依
童児の存在を否定するものではない︒しかし︑愚依童児の学術用語
を一つ物とするのは誤りなのである︒一つ物は史料上の名辞であり︑手
垢 が つ い
たことばである︒態依童児を学術的に定義するのなら他の用語
を
採用すべきなのである︒そこで文献上︑伝承上︑一つ物という呼称が 見える以外の場合は︑一連の芸能構成の痕跡がみとめられるものに限定
する必要がある︒例えば︑従来一つ物として考えられてきた︑福島県い
わき市錦町御宝殿の熊野神社の祭礼における勅使と称される稚児は一つ
物に入れることができる︒当社における一つ物が出る祭には︑田楽.獅 ︵⁝⁝︶子・走り馬の一連の芸能構成が伝承されていた︒本稿では一つ物の輪郭
を鮮明にするために一つ物・馬長に絞って考察を加えた︒
一(
つ物の意味と呼称について︶
一つ物はもともと若者や大人も勤め︑その生命は意外性や目立つ趣向
にあった︒しかし︑祭という同一の形が繰り返される行為︵式年の遷宮
などを除いては毎年繰り返される︶のなかで︑一回性を真骨頂とする風
流の一つ物は芸もなくマンネリ化がすすみ︑多くのものは飽きられて消 ︵161︶えていったのであろう︒そのなかで︑﹁巧まずして生まれ出る味わい﹂
を自然と醸し出す稚児や人形が動員されることによってのみ︑愛でられ
命
脈を保ち得た︒それが現在の一つ物であろう︒一つ物は元来神賑であ
っ
た の で 行 列 に
参加する宗教的意味は希薄で︵春日の場合は近世に既に
一つ物の従者が一つ物と誤認されている程︶︑近代になって民俗学者に
より愚坐と解釈された︒柳田は一つ物に神を見出し︑ 一つ物には芸︑芸
態
がないことから祭の象徴となり︑神聖化してゆく速度が早まっていっ
た︒ 一つ物の本質が︑本来の俗︵渡り物の一種︶から聖︵神霊の愚坐︶
へと解釈され現在の定説となっている︒もともと風流であった一つ物が︑
各 地 に 伝
播して土着化した結果︑その地において愚坐と認識されていっ
鰯
た
可能性は否定することはできない︒しかし︑それは民俗変容の結果で
国立歴史民俗博物館研究報告 第45集 (1992)
あり︑九〇〇年に亘るコつ物史﹂からいえば変形である︒にもかかわ
らず現在一つ物の本質は概ね愚坐論で論じられる︒﹁宗教的な中世﹂に
出自をもつ一つ物が︑ますます宗教的に潤色され︑縁取られていったの
︵261︶
である︒
一つ物はその発生の平安期の祭礼において︑すでに神輿とともに登場
していることは﹃年中行事絵巻﹄や文献史料からも明らかである︒神学
的 に
いうなら︑神は神輿にのって御旅所にお渡りするのに︑何故同時に
遇 坐
に神を愚らせなくてはならないのだろうか︒中山太郎により不思議
な力が宿るとされた︑一つ物が頭上に挿す山鳥尾にしても︑前述﹃大乗
院 寺 社 雑
事記﹄寛正五年の若宮祭礼馬長頭の記録では︑五〇文︵笠の半
額︶で購入されている︒所詮風流の入用道具なのである︒
一つ物の本質は︑渡り物・神幸・神のみゆき︵お渡り︶・渡御・行列
(パ
レード︶における風流である︒
一つ物の呼称は舞楽楽所首官名に由来することも考えられる︒永島は
「 一つ物﹂の三つLを数詞と考え︑一つ物の条件は一つないしは少数
であるという︒民俗学老が一つ物神聖説に傾斜していったのも︑一つ‖
二 つとない︑替え難い大切な︑というイメージ連鎖によるものであろう︒
しかし︑一つ物の一つは︑数ではなく一番という順序の意味もあるよう
に 思 わ
れる︒一番最初にお渡りをする︑群を抜いて一番目立つ︑という
順序の意味があるのではないか︒一っ物が単一である事例は多くはない
の である︒舞楽首官名も︑一者・二者・末者と順序をいう︒
中世末期︑京の芸能は風流に席巻された観があり︑それは慶長九年
(一
六
〇四︶八月の豊臣秀吉七回忌を期して執行せられた京都豊国大明
神の臨時祭礼に象徴された︒この折り演じられた芸能は猿楽・田楽・風
流
踊りで︑猿楽は四座の大夫を揃え豊国社中門の手前に敷舞台を設けて
演じた︒田楽は︑本座・新座の田楽衆が競い︑楼門前の石段下で演じら
れた︒風流踊りは上京より上立売組・下立売組・新在家組︑下京よりう
しとら組・中の組の計五組が︑それぞれ一〇〇人宛ての踊り子を出し華
や かな花傘でそれぞれに趣向をあらそった︒側踊りは揃いの衣装に花傘︑
手 に 花 枝 を
持ち︑中踊りとして大黒・布袋・毘沙門・鍾埴・異人・筍な
どの仮装が出た︒この風流踊りは天文から文禄頃まで︑盆の風流踊りと
して連綿と演じ続けられてきた踊りの再現であった︒太田牛一は﹃豊国
大明神御祭礼記録﹄において︑中踊りの仮装風流を一つ物と記録したの
︵361︶
である︒図14 跳 子 百
人に一つ宛 一つ物と云事有 或は大黒 布袋 毘沙門 鍾楢
大臣 山路牛に乗て笛を吹きたる所有 比丘尼胎みたるを先二立 坊主
之
跡より団扇を持て仰ぎさ すりつめりたる風情も有 頼朝八州之射手
を集 色々様々思々異風躰を出立て 富士之すそ野の鹿をからせて御覧
する所有 又判官義経一谷鎮皆か峯攻落したる所有
平安期に成立した一つ物は︑安土・桃山時代を通して踊り続けられて
きた風流踊りの最期の光芒である豊国臨時祭礼にいたって︑風流の中心
として記され描かれたのである︒図14・15何人いようが︑趣向を凝らし
て目立ち︑過差を競う一回性の風流こそ一つ物の本質であった︒
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