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か ら
7間
目 と8間
目 の あ い だ の柱 に取 り付 く と推 定 され、 掘 立 柱 で 画 され た 区 画 内 部 は規 格 性 を も った割 り付 け が 行 わ れ た こ と も判 明 した。 な お この 区 画 が70.6m四
方 の 規 模 を も つ こ と は、 藤 原 宮 の 東 方 官 衡 地 区 で 確 認 した 官 衡 区 画 の規 模 (東 西 約66m、 南 北 約72m)
に類 似 し、
C期
に も何 らか の官 衛 に関 連 した 施 設 が、 こ こに営 ま れ た こ とを示 唆 す る。A期
以 前ま た 今 回 の
調 査 の大 きな成 果 と し Fig 53 石神遺跡C期主要遺構配置図 (1:1500)
て、
A期
に先行 し、A期
と異 な る造営方位 を もつ礫敷 や石組溝 の存在 を確認 した ことが挙 げ られ る。これ らと同様 の方位 を もつ遺構 は、かつ て今 回 の調査 区 の東 北 方 で行 わ れ た第6次
調 査 で検 出 し、 また第3・4次
調 査 で も埋 土 に少 量 で は あ るが飛鳥寺 の瓦 を含 む斜行 素 掘 り溝S D 575・ 576・ 577を検 出 して い る こ と か ら、A期
に先行 す る時期 の遺構 が大 き く広 が って い る と推 測 され る。さ らに飛 鳥 寺 や石 神 遺 跡 の周辺 で もこれ らと同様 の方位 を示 す遺構 と して、飛鳥寺南方 石 敷 広 場S X 670・ 671と それ に伴 う石 組 溝S D 662、 あ る い は山 田道 第 一 次 調 査 で検 出 した斜行 石組溝S D 2320な どを検 出 してお り、 これ らは6世
紀 末 か ら7世
紀 前 半 に属 す る と考 え られて い る。今 回 は出土遺物 も少 な く、 その造営年 代 を明 らか にで きなか ったが、 あ るい は これ らと同時期 の可能性 も考え られ る。―‑130‑―
6 甘橿丘東麓の調査
(第71‑11次
)(1993生F12)]) 明 日香 村 の甘 橿 丘 は、「古事記」垂仁紀 な どに登場 す る飛 鳥 の名 山 で あ る。
この丘 の多 くは公有化 が進 み、現在飛鳥 国営 公園 と して整 備 が進 行 して い る。
本調 査 は、 国営 公 園整備 の一 環 と して丘 の東麓 に一 般 登 山者 向 けの駐 車 場計 画 が あ り、 その予備調 査 と して実施 した。
調 査 期 間 は1993年12月 20日 か ら23日 まで の 3日 間。調 査 地 は甘 橿 丘 東 麓 の小 支 丘 に は さ まれ た緩 やか な傾 斜地 で、 通称 入鹿 谷 の南 東外 側 にあ た る。入 鹿 谷 は、蘇我蝦夷、入鹿 の邸 宅 が あ った (釈 日本紀
)と
伝 え る と ころ。 地 籍 で は明 日香村川 原地 内 とな る。開発対 称 面 積 は1,200だ。 西 側 の傾 斜 面 を大 幅 に切 土 し、 東 側 の低 地 部 に土 盛 す る計画 で あ るので、切土対象地 を中心 に長辺
4m、
短 辺3mの
調 査 区 を6カ所設 けた (Fig.34)。 表 土 は機 械 掘 削 し、 遺 物 含 有 層 以 下 は入 力 に よ って 発 掘 した。 以 下 、試 掘 坑 に は
1〜 6区
の番号 を振 る。この結果、表土 は浅 い ところで も0。7m、 深 い と ころで は
lmを
超 し、 全 体 に堆積 の深 い ことが判 明 した。 また、現在地表 か らは明 らかで な い東 西方 向 の 埋没 谷 を検 出(1〜 3)し
た。下層 の含有層 や表土層 の堆積 のあ り方か らみて、現 地 形 は そ れ ほ ど古 くは朔 らず 、 む しろ近
16,794 Y=16,780
。現 代 の改 変 に よ る もの と思 わ れ る。 各 調 │
査 区 に は
6世
紀 末 か ら9世
紀 初 頭 に い た る 土 器 、 縄 叩 き整 形 の平 瓦 片 な どを含 む遺 物 含 有 層 が あ り、 こ と に1、 2、4区
に厚 い 堆 積 が み られ た 。 ま た2区
で は、 幅0.5m の東 西 溝 の底 に人 頭 大 の石 を並 べ た遺 構 を 一 部 検 出 して い る。 谷 の排 水 に関 わ る施 設 の可 能 性 もあ るが、規模 な どは不詳 で あ り、今 後 の本 格 的 調 査 を待 ち た い。
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Fig.54 試掘坑 2区 遺構図 (1:100)
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