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ドキュメント内 北東日本海城における中世陶磁の流通 (ページ 62-69)

20cm

      第28図 石川県普正寺遺跡の陶磁器組成(5期)(2)

51〜54・60〜64越前,55〜59珠洲,65・85〜96・99〜111 鉄粕),66〜77青磁,78〜84 白磁,97・98 中国天目,112〜116

 開 ごf11

瀬戸美濃(89・90

 土師器

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 北東日本海域における中世陶磁の流通

km,加賀窯から約40kmを測り,海運に依存しつつ広域市場を獲得した珠洲製品の強 大な流通力を改めて実感させ,越前窯が加賀南部を迂回し北部へ集中的に搬入しえた のもまた,海運のゆえに可能であったことが判明する。一方,加賀窯は生産規模のほ かに加賀三湖系の内陸水運を利用しても海港との連携に不利で,かつ加賀南部に中核 港湾が未発達なため,港湾経済を左右する富裕問丸商人不在の状況が想定され,その 結果,甕は普正寺遺跡で珠洲製品を下廻り加賀北部以東で殆んど出土しないことから すると,内陸ないし峠越えのルートで移動することが多かったと推定でき,加賀北部 については,梯川上流域から中峠を介する手取谷の中世遺跡での出土状況を検証する 要があろう。そして,ここにみられる器種別補完関係は,中世前期における各窯独自 の流通,遠隔地と地廻りが併存する二重の運輸手段による無統制に近い競合状態か ら,頻度の高い一連の遠隔地海運の発達による消費者層の意向を体して,産地・器種 別に製品の組成を一元的に調整する流通機構が地域毎に成立してきたことを示唆し,

地域流通網の咽喉を拒する中核港湾出現の意義の一因もそこに求められよう。

 陶磁器組成の問題点の第2は,中核港湾独自の類型設定が可能かどうかである。問 題に立ち入る前に普正寺遺跡の陶磁器の消費形態についてみると,上・中層で実態の 分明な鍛冶屋は,1〜2寸釘を主とし刀子等小形日常器の製作に従事した小鍛冶であ るが,鍛冶場の遺構(SK1・2土墳, SD1〜3号溝)より鍛冶関係遺物(繊羽 口,増渦,砥石),行火,箸状木器等とともに,供膳器=青磁碗・漆椀,白磁皿・土 師器皿,および瀬戸美濃天目茶坑・水注,厨房器=越前甕,珠洲片口鉢,瀬戸美濃卸 皿の使用が確認でき,15世紀前半代に普遍的な竜泉窯系青磁碗,漆椀と白磁X類皿・

土師器皿の基本セットが消費されている。また,下層の魚屋も民家付属遺構(SK 3・6・7土墳他)より土錘,硯,砥石等とともに,供膳器=青磁碗・盤・長頸瓶,

白磁皿・圷,瀬戸美濃小皿・瓶子,厨房器=珠洲・越前・加賀甕,片ロ鉢が混用され ており,先行遺物を含み年代幅が大きく,青磁瓶・瀬戸瓶子等の高級品が存するため 上・中層程消費者を明確に特定し難いが,港湾の一隅に居住する漁携民(魚問屋ない し網元か)が中国陶磁および国産中世陶器をかなり豊富に所有・消費していたとして よい。この点を念頭において流通状況総体の検討に移ると,3面の遺構出土土器・陶 磁器は1万1千片以上(うち70%は土師器)を数え,これを陶磁器に限っても各面

(約150m2)のm2当たり出土数は平均7.3(片)となり,中世後期村落地区の典型事        (175)

例とした能登・白山橋遺跡の0.2はもちろん,越前・一乗谷遺跡各地区の平均値4.0を も上廻る。普正寺遣跡の場合,遺構中枢部を対象とする局部調査の所見だけに民家の 密集度を考慮せねぽならず,出土密度の数値を消費量として安易に一般化できないこ

      四 港湾遺跡と沈船遺跡 とは当然としても,一般村落よりかなり潤沢な流通量を想定して間違いないと思われ る。そして消耗率の高さは中世陶器類より中国陶磁供膳器に端的に現われている。こ の点を中国陶磁と瀬戸美濃陶器との量比でみるため15世紀代の供膳器を抽出すると,

皿および盤鉢類は略等量であるが,坑類は青磁碗2.7対瀬戸美濃平塊・天目宛1,

天目椀を茶陶専用器とみなし除外すると4.7対1となり,中国陶磁が断然優勢とな る。同様の方法で白山橋遺跡分を算定すると,皿類は普正寺遺跡と逆に白磁X類が大 多数を占めるが,椀類は2対1で瀬戸美濃平椀・天目茶宛が多い。瀬戸美濃坑皿類の 消費量は遺跡によるばらつきがかなり大きいが,皿類は白山橋遺跡で椀類と逆に白磁 X類約2対瀬戸美濃1の量比を示すのをはじめ全般に中国陶磁が卓越し,瀬戸美濃 製品が中国陶磁の不足分を補完したのは主として小形貯蔵器・宗教器他の分野であっ て,供膳器は即断できない(付表1・2)。なお,一般村落で入手しにくい高級陶磁器 として,普正寺遺跡の青白磁梅瓶・水注,青磁瓶,郊壇窯(?)小壼,高麗象嵌青磁

       (176)         (177)

盤他,後城遺跡の瀬戸四耳壼・瓶子(6以上),十三遺跡の貼付文香炉,黒褐粕鉢他が 存するのも中核港湾に蓄積された富力ないし活発な交易活動の側面を語る物証といえ

よう。このようにみてくると,(1)陶磁器の多量消費(過密出土状況),(2)中国供膳器 の大量使用,(3)多様な…奢移的陶磁の所有の諸点で,一般村落と区別できる見通しを提      (178)

示しえたと思う。

 さて,中核港湾に搬入された陶磁器類が,当該地域の経済構造の段階的変質と相即 してどの範囲に流通市場を獲得したかは,中核港湾の構造・性格を規定する基本的な 論題となる。この点を普正寺遺跡と白山宮門前町を核とする加賀北部で模索すると,

普正寺遺跡で認められた陶磁器組成は,河北潟から大野川沿いに約1〜1.5km間隔で 散開する大野庄隣接地の近岡・戸水(富積保)・無量寺・桂・寺中(佐那武村)(金沢       (179)

市)等の臨海村落でも断片的ながら認められるが,その実態は詳らかでない。今後,

後背地村落群と異なる経済圏(陶磁器組成)を形成していたのかどうか検討をすすめ ねばならないが,一連の臨海村落=小港湾(浦)と中核港湾(湊津)の関係は,14世 紀代以降交易量の飛躍的増加と諸職が定住する 町 として整備・拡充される過程で,

大野庄湊の地位の向上,流通機能の集約化を予想させる。加賀北部平野は手取川と犀 川の複合扇状地形をなし,北半部は犀川・浅野川を基幹とする内陸小河川網を媒体と する流通・交通体系が,犀川河口と扇頂部に位置する白山宮(石川郡鶴来町)を結ぶ縦 軸の流通路に収敏される地勢的条件をそなえ,北と南に展開する後背地に広域分業圏 が成立する基礎をなしている。当該地域の流通構造を分析された浅香年木氏は,「市」

と白山宮配下の紺掻神人の分布を手がかりに,内陸部を縦断する前記縦軸の流通路

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 北東日本海域における中世陶磁の流通

と,守護所の設営された「野市」(石川郡野々市町)付近で交叉する山麓線に沿う横軸  (北陸道)の流通路を検証され,加賀北部の流通の十字路の実在を浮き彫りにすると

ともに,14世紀中葉に至り流通機構の管掌主体が白山宮から守護富樫氏へ移行してい ることを指摘された。さらに,後背地における繊維原料の換貨と加工専業地の出現に みられる地域間分業構造を展望しつつ,臨海地を包括する臨川寺領大野庄が成立をみ た14世紀代を,大野庄湊を核とする加賀北部平野に一円的な流通圏が形成される画期

   (180)

とされた。

 限定的な考古学的調査に即して文献学の成果を深化するのは至難であるが,浅香氏 の考察も14世紀代から15世紀代への発展段階の理解は必ずしも明らかでなく,大野庄 湊を基地とする流通市場は河北郡におよんだと推定されている。確かに河北郡には中 核港湾とみなせるものを欠いているが,加賀製品の2次流通圏の北限が浅野川辺と推 定され,以北は珠洲製品の1次流通圏として明瞭な一線が画されることから,珠洲製 品は能登南部の中核港湾羽咋湊の南方海域に連なる小港湾を掌握し河北郡を市場化し ていたと判断され,14世紀代の流通圏は今湊(石川郡美川町湊町)と浅野川を結ぶ石 川郡内にとどまっていたと推測される。このように,運輸形態が中核港湾を基地とす る隔地間海運と小港湾間を往来する地廻り海運が併存する段階から,普正寺遣跡がか         (181)

の備後・草戸千軒遺跡の約6分の1程に膨張を遂げ,地域の分業生産を凝縮した鍛 冶・檜物・魚介・紺掻の諸職のほか,15〜16世紀代の文献に散見する「宮腰の酒」(菊 酒)や「梅染」など加賀の特産品,および塩など広域用民間必需物資の集散地として 発展する15世紀前半代こそ,15世紀後半以降の本願寺教団に編成された惣郷を基盤と する領国経済に連結する,一円的な流通市場の完成期だったのであろう。このことを 陶磁器の生産・流通動態についていえぽ,14世紀末〜15世紀初葉頃の瀬戸美濃製品お よび大和火鉢座産瓦器の大量移入にみられる,畿内一湖岸ルートと日本海海運の起点 たる小浜・敦賀に連動する流通機構の一元化,あるいは15世紀前半代のうちに生起し た加賀製品の越前化に伴う技術的主体性の止揚とそれに継起する加賀窯の廃絶,他方 15世紀代以降における越前製品(甕類)による加賀南部の商圏化と日本海全域での一 定量の恒常的流通は,浅香氏が指摘する加賀南部経済圏の越前・三国湊への従属化に 連動する動きと理解される。かかる地域中世窯間の淘汰と器種別分業関係の進展に呼 応して,珠洲窯でも14世紀代の支群・単位群の増加に体現される基本三種の量的拡大 生産体制から,15世紀代の片ロ鉢の重点的生産に示された専業化示向への転換と緊密 にかかわっており,必然的に中核港湾を中継地とする隔地間海運への依存度を高める ことになったと考えられる。15世紀代の日本海域の消費地にみられる陶磁器組成が,

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