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して興味深いのである︒ る動きもある︒ただしそれに対しては反発も強い し

て︑

りま

す﹂

︵藤

村︑

二 0

0二 ︑

その使命を果たしました︒彼の肯定的勝利が確認されるに及んで︑さまざまな不快な過去は んでくる︒すなわち︑制度的に次第に権限縮小化する大統領と︑国民的英雄︑守護神としての大統領である︒結論と

も︑大統領は象徴化してゆくのではないか︑

れることが慣行化すれば︑伝統的議会政治への回帰は明らかで︑多数政党の合従連衡の繰り返しの中で閉塞状態に 陥っていた第三•第四共和制の悪しき歴史を思い起こさせる。また、新しい体制、すなわち「第六共和制」を主張す

年十二月四日︑

すものであり︑旧来の伝統を壊すものであったが︑それはシラク自身の選択でもあったことを想起したい︒この改革 は一九九八年に既にセギャンが唱えていたことなど シラクは大統領に選出されると国民議会選挙まての暫定内閣としてラファランを首相に任命する︒ラファランは地

方の名望家であり︑世間の眼には伝統的に政治階級であるパリのエナルク

e n

a r

q u

e s

とは切れているように見える︒

ラファラン内閣には大臣など務めたこともないような人間がニ一人もいた︒それらの中には︑ が

フランスの大統領選挙の諸過程は︑他の選挙のサイクルと合わせ考えた時に︑国民が政党離れを起こしながら

R P

Rの総裁にミシェル・アリオ・マリが選出されたプロセスは︑

﹃ル

ペン

の変

関法

第五四巻三号 他方︑﹁大統領選挙の前夜まで︑さまざま政治資金をめぐる過去のスキャンダルの追い討ちをうけて危うかった人物

の発生で︑にわかに共和国をファシズムの危機から守護するただひとりの英雄的御楯に変身し︑

一六

四︶

とする見解がある︒私見によれば︑ここにシラク大統領の二つのイメージが浮か

ということになる︒しかし︑議会の多数派から首相が任命され︑組閣さ

︵渡

邊︑

二 0

0三︑七︶ことも留意する必要がある︒ただ︑

( D o l

e z   ¥ 

L a u r e n t ,   2 00 0,  1 40

)

RPR 総裁の新たな選出様式を示 R

P

Rから

U M

Pに移行する前史と

四四 フランソワ・フィヨン

一九

九九

﹃洗浄﹄された嫌いがあ

四 三

一 ︱

)

四五

F r a n

¥ ' . o i s   F i l l o n

のような﹁社会的右麗﹂

' d r o i t e s o c i a l e ' の議員︑哲学者でジャーナリストのリュック・フェリー

Lu c フランシス・メールのような実業家がいた︒とはいえ︑

ク支持者で固められていた︒バイルーやマドラン支持者の場所はほとんどなかった

( G r i g g s ,

20 04 ,  1

43

)

ルペンが大統領選挙の第一一回投票まで残ったことは︑シラクの大統領選挙での勝利を確実にしただけではない︒

アビタシオンに愛着を持つフランスの選挙民に酸っぱい思いをさせることによって︑国民議会選挙に大統領の力学を 再び確立させることにも役立った︒五月二九日のレンヌにおける選挙集会でラファランはコアビタシオンを統治の弱 化と混乱の源泉であると攻撃した︒翌日︑シラクは統治に必要な明快で緊密な多数派の形成を再び呼びかけた︒事実︑

五月末までに︑選挙民にはコアビタシオンの新たな機会に遭遇することに対するはっきりとした拒絶があった︒六

‑%の選挙民がコアビタシオンを望まなかった︒これは穏健右翼の選挙民に限られなかった︒左翼支持者の選挙民の 十七%が新しいコアビタシオンよりも右楓の勝利を優先させていた︒このようにして︑︱

1 0

0

二年の大統領選挙と国

民議会選挙が行なわれた短期の政治環境の中で︑かつてはフランスの選挙民にポピュラーであったコアビタシオンは 統治権力の混乱を招くとして避けられるようになった︒この変化の主要な受益者はまたもやシラクであった︒彼の政

U M

Pは選挙で圧勝することになる

( G r i g g s ,

20 04 , 

144

14 5)

シラクが大統領選挙で有利になったことにはジョスパンの失敗があったことも付言しておきたい︒大統領選挙期間 中︑シラクの年齢と性格に対する突然の暴言があって以来︑ジョスパンは世論調木且での人気を落とした︒シラクは自 分の支持を安定させるために何もしないでよかったのである

( G r i g g s ,

20 04 ,  14 5)

シラクが大統領選挙に勝利した後︑穏健右翼は大統領に強固な多数派を議会に形成するために国民議会選挙の戦略

1

00

 

│ 100二年フランス市町村選挙・大統領選挙•総選挙

Fe rr

yのような市民社会からの入閣︑

︵四

三三

ラファラン内閣はシラ

票率に対し︑ 配分の問題である︒ すなわち︑シラク︑ を立てる︒こうして︑ 関法

UMP が選挙の

バイ ルー

第五四巻三号

RPR

UDF

選挙の時から反対していた︒しかし︑

D

Lを統一して

UMP

ができた︒すぐに︑

UMP に加わりたい者たちを現実に統制することは出来なかった︒したがって UDF

UMP の候補者についての駆け引きは両勢力の選挙の利害に絡んだ︒ここから︑イスマルによれば︑二つの 点が重要である︒第一に

1 1

0 0

︱一年国民議会選挙第一回投票における︑右颯本流

(U MP

︵四

三四

UDF

︑右翼諸派︶

総得票と︑大統領選挙の第一回投票のそれを比較して見ると︑穏健右麗の票が重要な増加をしていることがわかる︒

マドランヘ投票した人たちが︑

か獲得できなかったのに︑

マドランらの大統領選挙第一回投漂の合計は一―――•八%であるが、大統領選挙におけ るシラク勝利の波に乗って︑国民議会選挙では四三・四%で十一%の増加である︒大統領選挙で︑シラク︑

UMP

UDF に投票したことはもちろんであるが︑穏健右翼はそれに加えて︑大統 領選挙でラギュエに投票した者の一四%︑

ブザンスノの一︱︱‑%︑シュヴェヌマンの三五%︑

ている︒第一一に︑国民議会選挙における︑穏健右翼の得票のなかでシラク票と非シラクの最後の要塞である

UDF

﹁ 供

給 ﹂

su pp ly

'を支配しているだけ︑

かである︒このことは結果が示している︒

UDF

の候補者は︑

政治的舞台から姿を消したことを意味しない︒例えば︑

というのは︑

挙区の九三%の選挙区に立候補者を立てているのに

UDF

は三一%だったが︑

バイ ルー

︑ ルペンの三五%を獲得し

UMP はフランス本土の選 UMP

UDF を圧倒したことは明ら UMP への挑戦者でなかったものも含め︑四・八%し U M

Pは三三%獲得した︒このことから︑

U D

Fは取り残され︑穏健右翼の内部でド・

ゴール派との闘いに敗れたことを意味する︒そのような結果は一九六二年まで遡る︒しかしながら︑それは

UDF

UMP

UDF が対決した選挙区で

UMP

が二八・七%の得

UDFは一0•

四%を獲得していて、これは無視できない数字である

(Y

s m a l ,  

20 04

, 7

8

7

9)

バイルーが反対した︒彼は大統領 四六

県議会選挙もほぼ同様だった 徴

は︑ た

しか

に︑

1 0

0

一年

の選

挙に

おい

て︑

0

0

︱ 一

年 ︑ U D

Fは支援政党

s u p p o r t p a r t y

にな

った

︒ p o p u

l a i r e

と呼ばれる

U M

Pを︑維持する能力である︒第一一に︑

るやり方である︒第三に︑

20 04 , 

8 1

)

与党

UMPを中心とする右翼•中道陣営が大きく後退、野党の社会党が躍進した。

四七

U D

Fは穏健右麗の指導権を

R P

Rと競う能力を失ったように見える︒︱︱

選挙までは︑左麗の苦境は止まらぬことになった︒しかしながら︑三つの問題は残るとイスマルは言う︒第一に︑不

安を抱えるシラク派の相異なった勢力が︱つの屋根の下に集まって今や人民的多数派連合

U n

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n p o u r   l a   m a

j o r i

t e  

U M

Pが穏健右楓の残りの部分を植民地化し支配す

U M

Pが本当に

F

Nの影響力に制限をかける能力を持っているかどうかである

( Y s m

a l ,

ここで︑表題の範囲を超えるが︑あとがきとして︑三月一︱一日と二八日に実施されたフランス全土の地域圏議会と

県議会の議員を選ぶ統一地方選挙について論じておくことにする︒この第一回投票がニ︱日実施され︑シラク政権の

ニ・一八%という︑今回の地域圏議会選挙第一回投票の投票率の上昇は︑左麗と

F

に有利な結果となった︒社会党N

とその同盟勢力は四

0

・三

一%

を獲

得し

︑ UMP

UDF

の三四・九六%を上回った︒現政権に突きつけられた否認の象

ロワイヤルがラファラン首相の地盤であるポワトゥー・シャラント地域圏で大勝利を収めたことだった︒

は一五.︱‑%で︑十七の地域圏で第一一回投票に進出した︒反対に︑極左は四・五八%で制裁投票の恩恵に浴しなかった

F N   ( L e  

M o

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23  

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2 

00 4)

︒次の国政選挙までの爽中に行なわれたこの選挙は︑現政権

—1001~

00―一年フランス市町村選挙・大統領選挙•総選挙

︵四

五 三

一九九八年の五八%に比ぺ六 一連の経過て偉大な勝利者は

U M

Pであり︑少なくとも次の

第五四巻三号 に対する中間選挙の性格を帯びた投票となった︒ドミニク・モイジは﹁この選挙は地域圏選挙というより︑政府への 不信任投票だ﹂と述べた

﹃ニューズウイーク﹄は︑現政権への不満から投票率が前回より四・五%上昇︑お粗末な選挙運動にもかかわらず︑

批判票の受け皿となった社会党などの左麗が与党を中心とする右翼陣営に六ポイントのリードをつけて躍進した

︵﹃

ニュ

ーズ

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る﹂

( I H T

M ,  

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2, 0  2 04

)

日本

版﹂

二 0

0四年四月七日︶とコメントした︒﹁一九八一年以降のすべての国政選挙でそうだった

ように︑政権についた勢力への不満から︑次の選挙では左翼に政権がわたること

︵ 森

本︑

二 0

0四︑七八五︶という予言が現実味を帯びてきた︒

第二回投票が︑二

0

0

四年三月一一八日︑投開票された︒本土︱︱︱一地域のうち野党︑社会党がニ︱地域で過半数を制

して圧勝し︑シラク大統領の与党

UMP は惨敗した︒県議会選挙も社会党が圧勝した︒今回の地方選挙は一︱

0

0

︱ 一 年

の大統領選︑総選挙以来初の全国選挙て︑ラファラン内閣の年金などの改革政策に対し不信任が突きつけられた形と なった︒与党大敗で︑首相の責任を追及する声が強まるのは必至となった︒また︑二

0

0

七年の大統領選へ向けてシ

ラク大統領は内閣改造などで政権立て直しを迫られることになった︒社会党のオランド第一書記は﹁ラファラン内閣 への重大な懲罰だ︒国民は厳しく︵内閣を︶否認した﹂と勝利を宣言︒

UMP のジュペ党首は﹁国民の強い不満の声 を聞かなければいけない﹂と敗北を認めた︒サルコジ内相は声明を発表し︑地域議会選挙で社会党など左翼連合が四

九ー五

0

%の票を獲得︑

UMP など右翼中道の三七ー三八%を上回ったと指摘︒極右国民戦線は一三ー一四%で伸び なかったと述べた︒ラファラン首相は一一八日夜の国営放送で﹁野党が勝利した﹂と敗北宣言した︒﹁過去二年間に年 金改革などを実施し︑最近は失業率も安定している︒改革は将来のために続けなければならない﹂と述べる一方︑

関法

︵制

裁投

票の

発生

︶ は充分ありうる

四八

︵ 四 一 ︱

工 ハ ︶

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