4号墳
図26 旅内古墳群
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国立歴史民俗博物館研究報告 第44集 (1992)
ループに,西群ではFからLの7グループに分かれ,3〜7基の横穴で各小グループが構成され ている。この小グループは,前庭部の重複関係や出土した遺物からその形成過程がほぼ明らかに されている。それによると,各グループは概ね7世紀中頃近くなって,前後してその造営を開始 する。これ以降8世紀初頭にかけて継続的に横穴は造られ,最終的には形骸化した小型横穴とな ってその造営は終了する。この間に各小グループによって横穴の数に差は認められるものの,造 営期間と同時期における横穴の規模にそれほど大きな差は認められない。これは6号や37号横穴 にみられる副葬品の差と比べると著しく対象的である。このような在り方は,旅内古墳群を造営
した集団のなかで,横穴を造営した単位と考えられる小グループが構成単位として基本的には対 等の小集団として存在したが,その内部では副葬品の在り方に反映されたある程度の差や役割の 違いも生じていたことを示していよう。
一方高塚古墳は古墳群のなかに点在し,ある区画のなかに集中するとはいえない。また墳丘を 有して切石積横穴式石室を内部主体とすることから,その規模は横穴と比べるとかなり大きい。
この点からみると高塚古墳の被葬者は旅内古墳群の造営集団のなかでは優位にあった人物と比定 されよう。しかし副葬品についてみると,むしろ6号・37号横穴の方が内容的に充実しており本 質的な差はみられない。ただし高塚古墳のなかには前方後円墳も存在することからすると,この
ような古墳を造った集団は,策内古墳群の造営集団のなかでも指導的な位置にあったと考えられ る。以上から旅内古墳群は,高塚古墳の被葬老層を指導者として12前後の横穴造営単位に分かれ る集団からなる地域集団と考えられよう。しかし高塚古墳と横穴を造営した階層の差はそれほど 極立ったものとは考えられないであろう。同様なあり方を示す群集墳として,この地域では須賀 川市大仏古墳群・石川町山神古墳群等がある。
また須賀川市早稲田古墳群(福島ほか 1982)では1基の前方後円墳と18基の円墳で古墳群が 構成されていた。このうち前方後円墳は南小泉式期でも新しい段階,つまり5世紀末葉前後と考 えられるが,他の円墳は6世紀後半から7世紀代に築造されたと考えられる。この円墳は直径20 m前後の大きなものから,直径数mの小型のものへ変化している。内部主体も遺存する例ではす べて横穴式石室であるが,やはり比較的大型のものから小型のものへ変化する。つまり横穴と同 様に複葬墓から単葬墓へ変化している。これらの円墳は,個の小グループに分かれ,同時期の古 墳間に大きな差はみられない。早稲田古墳群は,古墳時代中期に造られた小型前方後円墳を中心 に等質的な6個の小グループからなる群集墳と考えられる。阿武隈川上流域でも南部では,早稲 田古墳群の他に,須賀川市仲平古墳群・同塩司渕古墳群・石川町悪戸古墳群などが横穴式石室を 内部主体とする群集墳である。このような群集墳は,横穴を内部主体とする群集墳と比べると,
この地域では数は少ない。
これに対して阿武隈川上流域でも北部から中流域にかけて,つまり郡山市から福島市にかけて の地域では横穴式石室を内部主体とする群集墳が主流となり,横穴群はほとんどみられない。郡 山市では大槻古墳群・蒲ノ倉古墳群等が有名である。大槻古墳群は郡山市西部の台地上に立地し,
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陸奥南部における古墳時代の終末
日ψα.O自
く
旦306.96m
ーω0900∋巨﹀
⊇ 互ど306.96m
E 306.96m 旦
0 2■
図27 旅内2号横穴
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国立歴史民俗博物館研究報告 第44集 (1992)