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フェトゥッラー・ギュレンの思想と運動

2000年代のギュレン及びその運動の諸活動を、トルコの政治的、思想的文脈で検討するにあ たり、本章では、まず 1970 年代に右派イデオロギーとして登場した、後述の「トルコ・イス ラーム総合論(Türk İslam sentezi)」の名称でも知られる「トルコ・イスラーム」概念に基づい て跡付けてゆく。ギュレンの思想的系譜や政治的関与に関するスタンス、そしてその変化につ いても検討する。次に、特に政治と宗教に関するギュレンの言説とギュレン運動の諸活動を検 討する。

第1節 「トルコ・イスラーム」の思想的特徴

トルコ史において、イスラーム知識人とその信奉者が近代化に果たした役割にこれまで注目 されておらず、十分な研究がなされてこなかった状況と経緯については序章で述べた通りであ るが、フィンドレイによれば、研究の光を当てるべき人物は、改革派ナクシュバンディーのメ ヴラーナー・ハーリーディー(1776-1827)、ヌルジュの祖サイード・ヌルスィー(1873-1960)、

そして信仰を基礎とした社会運動を啓発するフェトゥッラー・ギュレンであるという[Findley 2010:418-19]。彼らのうち本節では、オスマン末期からトルコ共和国期を生きたヌルスィーの 足跡とそのイスラーム思想の特色を概観する。そのなかで、世俗主義を軸とするトルコにおい てイスラームはいかなる特徴を有しているのかを特に政治的関与に着目し、また「トルコ・イ スラーム」という表現によって何を主張しているのか、等について探ってゆく。そして、ギュ レンおよびギュレン運動を思想的観点から検討し、批判についても論じる。

サイード・ヌルスィーのイスラーム改革

サイード・ヌルスィーは、ナームク・ケマルらによるオスマン末期のイスラーム思想を共和 国期にかけて継承した、最も影響力のある人物の一人と評される[Akyol 2011:207-210]。ヌル スィーは、共和国初期における世俗派と宗教的な守旧派の間の対立の際には、中間的立場をと った人物であると言われる。それは、以下のヌルスィーの生涯と言動に表れている。15 歳の頃 にナームク・ケマルの著作『夢』を読み、その自由の表象に影響を受けたという。「時代の驚異 (Bediüzzaman)」と呼ばれたこの頃から、当時の保守的なメドレセ(マドラサ)を批判し、物理 や生物等の近代科学を教えるべきだと主張した。また、それらを教授する近代的な高等教育機 関「光明学院」を構想し、スルタンに設立を直訴するなど精力的に活動していた[Agai 2003:52]。

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その後、オスマン朝が第一次世界大戦に突入し、ヌルスィーも対ロシア国境防衛のために闘 いに参加する。しかし、戦後の 1925 年に起きたシェイフ・サイードによる反乱に関与した廉で 流刑の憂き目に遭うことになる。以降、ヌルスィーの生涯を区分する「新ヌルスィー」と称す る時期に、ヌルスィーは政治から距離を置き、自己内省とイスラームの信仰を守るために 30 年間、執筆活動に没頭した。その著述は、共和人民党一党支配時代(1925-50)を通じてほぼ発 禁状態に置かれていたが、信奉者の手によって密かに筆写され、流布していった。1930 年代、

40 年代には、ヌルスィーは敬虔な人々の支持を集めながらも非政治的な態度をとり、弟子たち にも自分を抑圧する者たちへ報復しないように言いつけていた。しかし、ヌルスィーの姿勢の 如何に関わらず、ケマリストはヌルスィーを「宗教的反動(irtica)」と見なし警戒していた。

そうした政治権力者の態度に変化が起きたのは、1946 年に複数政党制に移行してからである。

1950 年代に、ヌルスィーは民主党のアドナン・メンデレス首相(Adnan Menderes,1899-1961)

と選挙支援などを通じて隠然たる協力的関係を結ぶようになる。また、コーラン解釈書である

『光の書(リサーレ・イ・ヌル;Risale-i Nur)』の発禁が解かれると、これを学ぶ人々の集団 が形成されていった。しかし、ヌルスィーの移動の自由を認め懐柔するメンデレスの姿勢が、

1960 年 5 月 27 日の軍事クーデタを誘発したとも言われる。

1960 年に投獄と流刑の生涯を閉じたヌルスィーのイスラーム思想の特徴とはいかなるもの だったのだろうか。ヌルスィーの行動主義を示す言葉は「肯定的行動(Müsbet Hareket ; Affirmative/ Positive action)として知られる[Agai 2005:418-22]。政治に関しては、「政治を 通じて宗教に奉仕しようとすることは、善よりも害をもたらす」という考えに基づき、政治的 な関与・発言をしない姿勢をとった。しかしながら、全く関与しないという態度には、独裁を 生むことになるという理由で反対する。つまり、政治に対して無関心あるいは無抵抗でいるの ではなく、「人間を悪い方へ変える政治」に拠るのでもなく、肯定的行動によってこそ高潔な目 的が達成できると説明する。1950 年代のヌルジュの民主党への選挙協力は、こうした論理によ って是認されたと推測することは可能だろう。また、ヌルスィーは、社会秩序と連帯を重視し、

『光の書』において思いやり、尊敬、信頼、合法・非合法の認識、法の支配の順守を社会調和 の5つの柱として強調している。さらに、上から社会を改革し暴力すら正当化する「革命的イ スラーム」のような急進的なアプローチは否定する立場をとっていた[Akyol 2011:209]。この ような暴力的手段の否定も、ヌルスィーのイスラーム思想の特徴にあげられており、暴力に拠 らない秩序維持の思想は、特に1960年代から80年代のトルコ国内の無秩序化した混乱期にお いて重視されていたという。

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以上のように、ヌルスィーは、西洋起源の科学を否定せずにそれを宗教の中に位置づけよう とする言動、「肯定的」な行動主義に基づく政治へのスタンス、秩序維持を重視し暴力的手段を 否定する思想を提示した。こうした思想が、後に、社会的に疎外されていた層を取り込み、ギ ュレンのような人物が登場する素地になっていったのである。1960 年のヌルスィーの死後、ギ ュレンらはヌルジュ・グループからは離反するものの、その思想が上述したヌルスィーの思想 に通底していることは次項にて論じる。

知識人の炉辺と「トルコ・イスラーム総合」論

国際的には冷戦の最中にあり、トルコ国内においても左右のイデオロギー対立が激化するな かで、左派イデオロギーに対抗するためにイスラーム的伝統を政治的統治に利用する方針が打 ち出された。それが 1980 年軍事クーデタ後の軍事政権によって採用された「トルコ・イスラー ム総合(Türk İslam sentezi)」論であった。ナショナリズムと宗教は矛盾しないという主張は、

双方を切り離す従来のケマリストの見解と意を異にするものであった。このイデオロギーを提 唱したのが、1969 年に組織された「知識人の炉辺(Aydınlar Ocağı)」と呼ばれる民族主義的知 識人グループであった[Koyuncu-Lorasdağı, 2010:222-24, Özdalga 2006:551-56]。

では「知識人の炉辺」とはどのようなグループで、いかなる来歴を有するのだろうか。この グループに影響を与えた人物に、1930 年代から 40 年代の代表的なナショナリストの一人であ ったヒュセイン・ニハル・アトスズ(Hüseyin Nihâl Atsız,1905-75)がいた。アトスズは、ト ルコ民族の本質論的で人種差別主義的な思想を展開する極右の強硬派であり、さらには軍事を 優先し権威主義的であることも、彼のナショナリズム観の重要な要素であったと言われる37。 また、同時期の代表的な極右知識人に、ネジップ・ファズル・クサキュレキ(Necip Fazıl Kısakürek,1904-83)がいた。クサキュレキは、世俗的教育を受けるが、後にナクシュバンディ ーの著名なシェイフの弟子となり、『大東』という雑誌を刊行して、執筆活動を通じてイスラー ムを強力に擁護する活動を行った人物であった。彼らに代表されるように、この時期の右派系 知識人にはトルコ民族主義者とイスラーム主義者がおり、こうした人々によって遅くとも 1962 年頃から右派政党が結成されるようになり、その関連団体のひとつとして「知識人の炉辺」が 設立されたのである。その中心的なイデオローグは、イスタンブル大学文学部教授のムハッレ

37 なおギュレンは、右派系団体「トルコ人の炉辺(Türk Ocakları)」から1995年に、この人 物の名を冠する「ニハル・アトスズ・トルコ世界貢献賞(Nihal Atsız Türk Dünyası Hizmet Ödülü)」を受賞している。

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ム・エルギン(Muharrem Ergin, 1923-95)であった。なお、第二次大戦後にはナチスの非道 が露わとなって極右勢力が低調になり、この頃のトルコ・ナショナリズムには人種差別主義的 な要素は消えていた。それが、トルコとイスラームという異なる文化的伝統の総合を強調した

「トルコ・イスラーム総合」が提唱されるようになる素地となったと言われる。

「知識人の炉辺」の提唱する「トルコ・イスラーム総合」論は、初期のアナトリア征服とイ スラーム化にスーフィー教団が果たした役割を強調するものであった[Özdalga 2006:556-58]。

トルコ民族はイスラームを受容したのち、キリスト教徒が多数であったアナトリアの領土征服 は聖なる戦いすなわちジハードであると考えたが、こうした活動を平和的な手段で援助したの がスーフィー教団であった。「トルコ・イスラーム総合」論によれば、スーフィーは戦士(Alp)

と宣教師(Addal)と商人(Ahi:商業ギルドと宗教的友愛のメンバー)のネットワークからな り、またスーフィー教団といっても静観な神秘主義というより、辺境における戦闘に備える行 動主義的な特徴を有しており、軍事的、政治的指導者に従って忠誠心を持つ伝統が強調される。

こうした行動主義、国家中心主義的な傾向が「トルコ・イスラーム」の顕著な特徴として主張 されるのである。

ギュレンの「トルコ・イスラーム」観

1990年代初頭以来、ギュレンの言説にトルコ・ナショナリズムの度合いが増し、運動内でも スーフィズムを強調する傾向が増加しつつあったと指摘されている[Bilici 2006:11]。ギュレ ンは、ロシア、アルメニア、イランなど他国との国境が近いアナトリア東部エルズルム出身で あるが、この地方は国土防衛のためには国家が重要であると考える、国家主義的なナショナリ ズムの強い土地柄であった。ギュレンには、その生育環境からも「トルコ・イスラーム総合」

論を当然のものとして受け容れる素地があったと言うことも可能だろう。また、ナクシュバン ディー教団は歴史的に国家に対して肯定的な態度であり、ゆえにスンナ派イスラームという単 一のアイデンティティを管理統制する国家機関である宗務庁で、教団員が働くことにも異存が なかったと指摘される[Findley 2010:419]。こうしたスーフィズムの伝統の点からも、少年期 にナクシュバンディーのシェイフの元で学びその思想的影響を受けたと言われるギュレンの国 家主義的傾向は説明しうるだろう。

ギュレンは、「トルコ・イスラーム」の特徴として、このスーフィズムと中央アジアに祖先を 持つトルコ人であることの概ね2点を強調している。まず、トルコ民族はスーフィズムとの緊 密な関係を発展させ、国家建設を成し遂げたという経験を経ており、またスーフィズムの影響

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