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〈フィリピン占領によって生まれた反日武装勢力〉

親日の立場をとったガナップ党(アメリカからの完全即時独立を主張していた)もあったが,一方 では反日の武装組織も生まれた。

フクバラハップ(Hukbalahap 抗日人民軍)は以前からの左翼系農民運動を中核に,日本軍へ の抵抗と地主制の打倒を目指した。

他方に,米比軍の残存兵中心のユサフェ(USAFFE,米極東陸軍)ゲリラがあったが,米軍の マニラ占領後,フクバラハップは以前から左翼系農民運動を中核に,ルイス・タルクに率いられ,

日本軍の抵抗と地主制の打倒を目指し,ルソン島で結成された。地主側についたユサフェによっ て弾圧されることとなる。

(『日本歴史大事典』小学館 平成 19 年,『日本大百科全書: ジャポニカ』小学館 平成 6 年等を参照)

向井のフィリピンにおける宣撫工作の仕事は『南十字星下』にも見える。住民に与える通行良民証 を謄写版刷りで作り,下士が机を出して通訳が年齢氏名を聞いて書き込んで渡す,また,日盛りの中,

山間に避難している住民に呼びかけるために案内人,班員,警戒兵 2 名で村から村へ村長をたずね,

話を聞き,さらに奥地に逃げ込んでいる家族に村に帰るよう勧める。子供にはありあわせのキャラメ ルや乾パンを与えてとにかく早く帰るよう諭す。伝単を渡してもこんなものは役に立たないと理屈を こねられる。谷間に潜んでいる人々にも安民の布告文を渡して早く帰るよう繰り返して元の道を引き 返す。(p82-84)

向井のフィリピンでの伝単制作中に撮影された写真は 2 種確認できるが,伝単は 2 点確認したのみ である。一つは前節に引いた「新美術」昭和 18 年 2 月に掲載の「従軍三百日」中の「ESTABLISH THE NEW PHILIPPINES WITH THE SWEAT OF YOUR BROWS」(p42),今一つが「生活美術」

(昭和 18 年 7 月 p25)に掲載の色刷りで,「J. P. C. A NEW DAY IS HERE! Come! Let us Join in Establishing THE Greater Asia」のスローガンのもと,現地人の男女が穀物袋や鍬や果物籠をもっ て行進しているものであり,挿絵のように美しい。

向井の宣撫の苦労は「従軍三百日」(「新美術」 昭和 18 年 2 月)にも要約されている。「最初の宿営 地バウアンに到着するとともにすぐに仕事が初められ絵画班(田中佐一郎[,]鈴木栄二郎,私)の 三人は拾つて来た紙と,クレヨンとインキで辻々に貼る安民布告のビラを描くとともに,これも探し 出して来た手刷の印刷機の動力代りになつて,徹夜で約一〇〇〇〇枚刷り上げた。吾々は十分の資材 がないために,その後ともにジンギスカン流に現地徴便の方法で仕事を続けなければならなかつた。」

(p40)さらに総攻撃前に対敵,対民衆の活動として新聞班が「トリビューン」紙を発行,放送班は放 送局を修理しデマ放送に電波を送り,絵画班と印刷班は伝単その他の印刷をと矢継ぎ早の仕事をこな した。フィリピンの言語は約 80 種,英語,スペイン語,タガログ,ビサヤと多様を極め,一枚の伝 単の説明すら数種の言語に訳さなければ用をたさない。投降兵の話に基づき図柄も何種も用意し,戦 意破砕,厭戦気分を誘致する主題(家庭の団楽,美人,平和なマニラ,田園風景)を選び,形態(小説・

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帰国早々,一先輩に文士や絵描きは従軍しても役に立たず沢庵を切っていたそうだねと揶揄された ことをうけ,以下のように記す。

 と中々に含蓄のある言葉を吐いたが,私はこの言葉の内側にかくされてゐる,現実の日本の位置,運命 に対する傍観者的乃至,批判的な精神の遍在を一番怖ろしいと思つてゐる。曽つてのそうした態度は吾々 の仲間では,何か芸術に就いての一種の尊貴な心の在方として美しい煙幕を張つたが,目前の状態はたゞ 戦ひに勝ち抜く,ことのみに集結されなければならないのは云ふ迄もないことと考へる。国民の一人一人 が卒伍の中に生きる。この決意こそ一番大切であり,又要求せられてゐるのだ。沢庵の切り方の技巧はと もかく,皆が沢庵を切る覚悟がなければ敵は已に吾々の精神の中に勝利を誇つてゐるのだ。(p47)

向井はここで,対米戦争が容易ならぬ戦いであることを強調している。

フィリピンでの火野

火野の従軍記録は,敵・味方を含めすべての人間に公平で温和なまなざしを投げかけている。大陸 では,銃後の家族に思いを寄せ,故郷を懐かしみ,正月には餅を兵士とともに工面しようとする。身 近の人の幸福を願い,悦び,伍長として部下を慈しむ様子が,進軍の苦労とともに描かれ,一見戦場 とは思えないような日常も,噛み砕いて理解できる文章で綴られる。『海南島記』(改造社 昭和 14 年 5 月)などに描かれる現地の子供の,煙草を吸い博打を打つ姿を嘆かわしいとは書いても,火野自身 はどこかで愛着を感じ,じつは好きだと書いている。「難解」さは火野の著作のどこにもない。この 特色は,軽視できるものではないだろう。他者への愛,それは異国人が彼等の母国を思うことへの同 情にも繋がる。戦いのなかに敵はある。しかしそれは互いに尊敬すべき敵なのである。

『歴史』(生活社 昭和 18 年 5 月)には戦時の内地を舞台とする短篇 6 篇と,河童を主人公とする夢 幻的な短篇 6 本が収められる。『バタアン戦話集 敵将軍』(第一書房 昭和 18 年 11 月)の「まへがき」

には,「歴史の問題,民族の問題,さうして,それらのうへに立つ人間の問題,生死の問題。(ママ)広大な 海と空と山と町とに展開される切実な歴史の進行のながれのなかで,これを静かに観察し描くこと」

に文学者の使命があるとし,それは「祖国の運命と,もはや切りはなすことのできなくなつた」,「さ いきん,切実に反省するところがあつた」としている。「敵将軍」はバターン総攻撃で日本軍の捕虜 となり釈放されたマテオ・カピンピン将軍を隠棲先のブニアンに訪ね手を握りあって民族の自立を励 ます物語である。「私」の感懐は以下のように記される。

 私たちにはもはや宣伝ビラ[新比島建設を促す内容]のおきまり文句として切実さを失つた言葉が,比 島人たることをやめることができず,自分の一切の生命をかけてここに生きなければならぬ比島人にとつ ては,けつして死んだ言葉ではないのである。(p40)

その,命をかけて生きようとする比島人の子供たちの団結を描いた児童書『真珠艦隊』(朝日新聞社  昭和 18 年 7 月 表紙・挿絵 猪熊弦一郎)は,5 人の靴磨き少年メンドサ,ラモン,ペドロ,ユアン,

バヤニと「私」の出会いから始まる。少年たちに,「私」は,スペイン兵に脅されたフィリピン兵に 銃殺されたフィリピン独立の英雄ホセ・リサールの精神と生き方を教え,勇気を称えて民族意識を覚 醒させる。少年たちは混迷する当時のフィリピン人の敗残兵や匪賊と立ち向かうことで「ほんたうの

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敵」米国を倒し大東亜共栄圏の実現を目指そうとして,漁師の小舟五隻で戦うが,仲間のひとり,バ ヤニが敵の弾丸の犠牲になる。祖国の真の独立のために命を落としたバヤニを称える碑文をすでに帰 国した「私」が日本から書き送るところで終わる。

火野は『南方要塞』(小山書店 昭和 19 年 9 月)の「デル・ピラル兵営」にもカピンピンを描いてい る。本書もフィリピンを舞台とする短篇集であり,序詩「南方要塞」に続けて,オロンガボ,モロン,

デル・ピラル兵営,南部・北部ルソン地区,ブニアン,コレヒドール,教会や墓地,日本建築の家,ニ ッパ・ハウス,ロスアニバ農場,農科大学などが舞台となった話が載るが人名は仮名で描かれている。

戦争を介した異文化接触

フィリピンに昭和 17 年末までいた火野は,帰国後 23 篇の民話を翻訳し『比島民譚集』(大成出版  昭和 20 年 2 月)を刊行した。報道班の仕事の合間にマニラの国立図書館を訪れ,館長ロドリゲス氏に 奨められた PHILLIPINO POPULAR TALES と ANCIENT PHILLIPINO STORIES からそれぞれ 18 話,2 話を翻訳し,数篇は雑誌「南十字星」に掲載された。このほか 3 篇「アモル・セコ草」(ジ ョセフ・マン),「アポ・サコ老人」(パウロ・デイソン),「アナニトマスの冒険」(マニユエル・アルギリ ヤ)は,火野が勧めて地元の作家に伝説を題材に書かせたものと解題にある。スペインの 300 年間に 続くアメリカの 40 年間の支配をうけたフィリピンの歴史を勘案しながら,「静かに読むと比島の歴史 の持つ宿命といふものがどの物語にもまざまざと滲みでてゐる」とし,「その底を共通して流れる一 服の哀感は被征服民族たる比島人の悲しさに,私たちの心を惹きつける」(pp4-5)と記す。

以下の「古伝説」,「鳥と竹」は「わが国の竹取物語を連想させて微笑ましい」と解説する。

 ある島に一本のすばらしく大きな竹がのびて来た。その竹はまはりがとても大きく,ほかのどの竹より も太かつた。一羽の鳥が地に降り,その竹をつつきはじめた。すると,竹のなかから,もつとひどく啄け,

もつとひどく啄け,といふ声がした。鳥ははじめはびつくりしたが,やがて,なにがなかにゐるのか知り たいと思つた。そこで,いつそうはげしくつついた。なほも声はもつとひどく,もつとひどく,といつた。

たうたう,すさまじい音を立てて竹は根元から先まで割れた。一人の男と,一人の女とが,そこから出て 来た。鳥はおどろいて,飛び去つてしまつた。男はていねいに腰をかがめて,女にお辞儀をした。彼等は,

竹の別々の節にゐたので,これまで顔を合はしたことは一度もなかつた。

 彼等は世界でさいしよの男と女であつた。(p42)

アジアの地誌や民族の歴史への関心の所産である。

向井も火野も,報道班に配属されたがゆえに歴史的重要人物に会見する機会も得た。向井の『絵と 文 北支風土記』には徳王(デムチュクドンロブ,1902-1966,チンギス・ハーンの 30 代目の子孫。1937 年 10 月 28 日,綏遠(厚和と改称)に蒙古連合自治政府を雲王,李守真とともに成立させていた。)に拝謁した記 録がある。綏遠場内で 1937(昭和 12)年 11 月 2 日,T 記者と共に特務機関を訪ねたあと,洋車を走 らせている時,徳王の居住する場所に通りがかった時,ふと思いついた T 記者が引見を申し込むと,

すぐに広い応接室に通された。

 間もなく,写真で顔馴染みの徳王が,思つたよりも小柄で現はれた。あとで年を三十六歳と知つたが,

見た所は五十に近い。赭顔にやや鳶色がかつた眼が,これは恐ろしく冴えて据わつてをり,卓子を隔てて

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