第4章 原因の探査について 若干の論争
第2部 ハレー彗星の謎 序論−2
(省略−訳者)
付録
ツングース惨事の探検年表、仮説と説明
雑誌「技術−青年」の1962年No。3に、ソ連邦科学アカデミーの隕石員会所属の 科学者−地質鉱物学博士クリノフ、物理数学修士ヤブネリ、科学者ゾチキン−の論文が掲 載された。その論文はツングース隕石の半世紀にわたる探検年表を収めていた。
これ以外に、天文学者ロメイコの本「ツングース隕石 (モスクワ、1995年)の資」 料を利用した。この本にはツングース現象の性質に関する幾つかの仮説がある。
この本の著者は、これらの本中のデータを採用し、少しの変更を加えて、現在までのツ ングース研究史を記述する。
1908年
6月30日朝、7時15分。
中央シベリア上空を、燃える物体がまっしぐらにさっと通り過ぎた。その後には灰色の塵 の跡を残した。数分後、物資配給所バナバラの北西方向で、強力な爆発が起こった。それ は衝撃、轟音、唸りを伴っていた。6月30日から7月1日の夜、と引き続く数日間の夜 に、ヨーロッパと西シベリア地域で、異常な「発光する夜」が目撃された。
この年、フランスの天文学者で、光学異常の研究者であるフェリックス デ ルアが、
6月30日に地球が宇宙塵雲と衝突した、という予想を発表した。
1921年〜1922年
科学アカデミーのシベリア探検時、クリックは隕石落下を裏付ける試料を収集し、予備 的に隕石落下場所を決定した。
1925年
イルクーツク気象観測所元所長のボズネセンスキー隕石落下に関する資料を公刊した。資 料は1908年に彼が収集したものである。
地質学者オブルチェフは、パドカメンナヤ ツングースカ地域を調査し、隕石の落下場
。 、 、 。
所を確定した また この地域での森林倒壊について エベンキ人から詳細な証言を得た 1926年
ツングース隕石は、ポンス ビネッケ彗星と関係しているという考えを、クリックが発 表した。
1927年
この年の夏に、クリックを隊長として、第一回の科学アカデミー探検隊が、隕石落下地 域に派遣された。結果として、放射状の森林倒壊が発見され、円形状の穴が発見され、隕 石による漏斗地形と判断された。
1928年
アカデミー会員フェルスマンとベルナドスキーの支持のもとで、クリック隊長の下で、
第二回の探検隊が派遣された。
1929年〜1930年
クリックの第3回探検では、隕石の破片探査に失敗続きであった。土壌、植物、湖沼、
永久凍土の調査が行われた。
クリック探検隊の参加者の一人であった、労働者のチョムニコフは、自分の上司である クリック−彼(?チョムニコフ)の意見によれば、つまらないことに従事している−への 報告で、惨事地域のタイガ中に強大な嵐と火災があったとするアイデアを語った。
1930年
イギリスの隕石学者ウイップルが、1908年6月30日の空気波を外国の観測所で記 録した微気圧データを公表した。その(?爆発)エネルギーを3×1013Jと見積もっ た。
1932年
ベルナドスキーが次のような提案を行った。隕石は宇宙塵からできた厚い雲であり、大 気中に飛び込んできた。1908年6月30日から7月2日に、夜光雲の強烈な発達を引 き起こした。ベルナドスキーはフランスの研究者フェリック デ ルアの提出した提案を 支持した。
1933年
目撃者の証言を整理して、天文学者アスタポビッチは、シベリア、ペテルブルグ、スル ツクの気象台の新しい微気圧データを公表し、爆発のエネルギーを1014Jとした。
1934年〜1935年
隕石は小さい彗星であり、その尾が地球大気に捕らえられた、とイップルが予想した。
1938年〜1939年
アカデミー会員シュミトの支持のもと、クリックを隊長として、隕石落下地域で、航空
。 、 。 、
写真撮影と測地の仕事がなされた 初めて 放射状森林倒壊が記録された 1939年に クリックは、この場合には土地にクレータが形成された、と推定し、掘削の仕事が行われ た。
1941年〜1946年
戦争が目前に迫っていた事とクリックの死去が重なって、ツングース隕石の落下に関す る研究の仕事は進まなかった。
1946年
雑誌「世界一周」の1月号に、カザンチェフの空想科学小説「爆発」が掲載された。こ の小説中で、初めて、惑星間飛行船の原子爆発仮説が語られた。宇宙船はパドカメンナヤ
・ツングースカ上空で惨事にあった。
後になって、ソ連邦の地質学者ザラトフの仕事のおかげで、この仮説は科学的裏付けを 得た。
1947年
2月12日、極東に、巨大な隕石が落下した。シホテ−アリンスキー鉄隕石である。収 集されたその破片は23トンに上った。大気中の運動時、隕石の破壊に関する新しいデー タが得られた。
1948年
アメリカ人研究者ラパスが雑誌「大衆のための天文学」で、仮説を公表した。この仮説 はある科学会議で語られた物であり、ツングース隕石は反物質であるという物であった。
1949年
アカデミー会員フェセンコフが、カリフォルニアで1908年7月から8月において、
大気の混濁現象があったことを発見した。これはツングース隕石の散布によって引き起こ され、光量計で記録されていた。
1949年に、クリノフの論文「ツングース隕石」が出版された。この論文中で、隕石 の新しい軌跡−南東から北西方向−が語られた。
1950年〜1956年
ソ連邦の学者スタニュコビッチ、フェディンスキー、シチンスカ、レビンらによって、
大気中における大型の隕石物体の運動、この物体の地表との衝突、及びツングース隕石の 軌道と軌跡に関する理論研究が為された。
1951年
ソリャニクの仮説が提出された。ツングース隕石の爆発機構を、大気中における電気過 程という視点でもって考察した仮説である。
1953年
ソ連邦科学アカデミー隕石委員会の依頼を受けて、地質化学者フロレンスキーが隕石落 下地帯を訪れた。予定されている隕石落下研究の再開のための下準備であった。
1954年
ソ連邦科学アカデミー隕石委員会によって、隕石落下地へ探検隊が準備された。隊長は は天文学者ヂバリ。探検は実施されなかった。
1957年
隕石委員会の会員であるヤブネルによって、クリックが収集した土壌試料中に、磁性粒 子と鉄ニッケル粒子が発見された。ツングース隕石の飛散した物質に関係している物と予 想された。
1958年
ソ連邦科学アカデミー隕石委員会は、複合探検隊を、隕石落下地に派遣した。隊長は地 質化学者フロレンスキー。探検隊は森林倒壊領域を詳しく調べ、その境界と若干のパラメ ータを明らかにし、木々の早い成長を発見し、土壌の資料を収集した。この探検隊によっ て、隕石の地表上空での爆発の事実が明らかとなった。
1959年〜1960年
1958年の探検隊の試料の検査が行われた。爆発の規模が推定され、4×1016Jと
算出された。
空気中における物体の爆発機構の理論研究が行われた。宇宙物体の地球大気中での運動 条件の理論研究も行われた(スタニュコビッチ、シャリモフ、パクロフスキー、ブロンシ ュテン、チクリン 。)
イルクーツク天文台で記録していた磁力曲線データに、惨事の瞬間における地球磁場の 乱れが発見された。
、 、 。
1959年の夏に ツングース隕石落下地域を トムスク市の研究者グループが訪れた グループ長はプレハーノフであった。このグループはソ連邦科学アカデミー隕石委員会の プログラムに沿ったものであり、かつソ連邦科学アカデミーシベリヤ支部の探検隊の構成 員となっていた。このグループは、森林倒壊地帯の詳細な調査と、爆発の特徴の研究を行 った。
シベリアの隣り合う市の科学者と学生から編成されたこのグループは、最初の複合自主 探検隊(−1)であった。
この年に、ゾロトフと地球物理学研究所のボルガ−ウラル支局の研究者のグループが、
落下地点での放射能探査を主目的として、仕事をした。
ツングース隕石に関する総データをもとに、アカデミー会員フェセンコフはツングース 隕石の性質に関して隕石仮説を発展させた。
1959年
地質化学者フロレンスキーが、ツングース隕石の爆発は、彗星の核内に入っている不安 定な化学物質が、酸素と結合した際の崩壊によって引き起こされた、との提案を行った。
ソ連邦の学者ジゲリは次の予想を提案した。ツングース宇宙物体の爆発は、火星と木星 の間に位置している惑星ファエトンの予想される崩壊と似た原因で起こった。この惨事の 性質は、現在まで一義的に説明されないで残っている。
1961年
ソ連邦科学アカデミーの地質化学及び分析化学研究所と合同で隕石委員会は、複合探検 隊を隕石落下地に派遣した。隊長は地質化学者のフロレンスキー。
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この探検隊には 国中の多くの科学機関から研究者が参加した 探検隊の構成員として トムスク市の研究者グループもプレハノフを主管として参加した。非常の多くのボランテ アも参加した。
中心から北に位置している森林倒壊地域では、分散された物質の高い含有率が確かめら れた。最終的に、木々の早い成長は、生物学的成長条件の変化によるとして説明された。
スタニュコビッチは、惨事の原因は熱爆発である、との結論に達した。爆発は空気中 で宇宙物体の減速に伴う運動エネルギーの熱エネルギーへの転換の結果として発生した。
この年、ザラトフを隊長として探検隊が働いた。ザラトフは、タイガで核爆発が起こっ た、との結論に達した。
1961年〜1963年
地質学者ブロンスキーとモスクワの天文学者カバリの意見によれば、高々度で分裂した 岩石隕石は、盆地の北半分に破片として落下した。永久凍土層を突き抜け、熱カルスト漏 斗地形の形成を大きく促した。その大きさは、その形成を促した隕石の質量より、極めて 大きい、
1963年
天文学者アスタポビッチによって、論文「1908年6月30日のツングース隕石の地球 への落下という仮説の破綻」で、次の仮説が提案された。地球の大気圏を横切った小さい 彗星が、減速時に分裂した。爆発と同時に地球の大気と衝突し、自身の外装部を失い、そ の頭部は双曲線軌道に沿って、宇宙へと飛び去って行った。
ソ連邦の物理学者ネフスキーは、ソ連邦科学アカデミー隕石委員会のセミナーで、地球