P,B 轟.12.
69 ノ)TS, V, P.172.
70 @P78, V, P.xxxviii. 卜 一.・
71@PTS, V, P.183.
72ボザンケ自身は,ホブハウスの批判を学問的に無視していた。Morrow,(〜p.eit.,1982, p.386.
事実、ボザンケは、1919年1月26日の書簡の中で次のように述べている。「わたしは彼〔ホ ブハウス〕の書物を読むつもりはありませんし、また彼から多くを学ぶとも思いません。
戦争〔第一次世界大戦〕が始まって以来、本の値段は高くなっておりますし、時間もまた
安くはありません。」BBF, XX, p.203.
73 gobhouse, op. cit.,1918, pp.20−23,Collini, op.cit.,1976, p.105.G. D. H. Cole, Loyalities, , Proceedings(〜fthe Aristotelian Socieりy, Vo126,1925−6, p.153,164, Lacock,(〜p. cit.,1967, p.80.
74 bf., Sweet,(〜p. cit,,1997, p.162. , 75 leadowcroft,()p. cit.,1995, p.lI6.
76 q, M. Maclver, Society and State , Philos()phical Review, Vol.20,1911,p,35.
77 @Harris,(〜p. cit.,1944, p.65.
7sパーカー,前掲書,1954年、57−58頁。
79Meadowcroft, op. cit.,1995, p.116.
80 /b id., p.127
81 rimhony,()p.cit.,1991,p.521.
82 gobhouse,(〜p.cit.,1918, pp.75−80,ベイ、前掲書、1979年、87頁。ラスキ、前掲書、1974 年、67頁、R.・M・マッキーヴァー、中久郎・松本通晴訳『コミュニティ:社会学的研究』
(ミネルヴァ書房、1975年)454−464頁、特に459−464頁。なお、マッキーヴァーは、「ボ ーザンケト〔翻訳ママ〕教授はわれわれ二人の間で交わされた私信のなかで、社会と国家
との区別は重要であるという見解を述べられ」た、として、ボザンケが両者の区別を重視 していたことを短く付記している。マッキーヴァー、前掲書、1979年、464頁。また、ボ ザンケとマッキーヴァーとの往復書簡は以下に収録されている。SE,1, pp.261−290.
83 SE,1, p.261,
84 Sweet,()p.cit.,1997, p.ユ77.
85 AC・1・,・p.・it.,・1925−6, PP.154−157,・A.・D.・Li・dsay, Th・St・t・Recent P・litical・Th…y , Th・・P・−
litical guarterlJノ, Vo1.1,1914, p.133.
86 @1)TS, V, p.175.
87 PTS, V, P.172.
88 Sweet, oρ. cit., P.164.
89パーカー、前掲書、1954年、64−65頁。
go コ上信一郎「知識人と政治」、馬場康雄・岡沢憲芙編『イタリアの政治』(早稲田大学出 版部、1999年)220−221頁。ジェンティーレは、ムッソリー二内閣で文部大臣を務め、フ
ァシスト国家のイデオロギー的な正当化を図った 御用学者 といわれている。
91 b, E. M, Joad, Liberty Today(London:Watts,1938), p.182.
92 Jール・ライマンド・ポッパー、武田弘道訳『自由社会の哲学とその論敵』(世界思想 社19フ3年)243−244頁。 Q
93 g・マルクーゼ,桝田啓三郎他訳『理性と革命』(岩波書店,1961年)440頁。
94 b6cil Laborde, The Concept ofthe State in Britain and French Poiitical Thought ,f)oliticol Studies, Vo1.48, No.3,2000, P.551.
95 Nicholson,(4フ.cit.,1990, p.220.
Thomas, op.cit.,2000, p.110.96
97 goem16,0p.cit.,1919, p.614.
98 Jones,(〜ρ. cit.,2000, p.93.
99 bole, op. cit.,1925−6, p.153,Hobhouse, op.cit.,1918, p.20. H. J. Laski, tThe Pluralistic State ,
Ph ilos oph ical Revie iv, VoL28,1919, p.562.ラスキ,前掲書,1952年、35頁、 H・J・ラスキ、
飯坂良明訳『近代国家における自由』(岩波書店、1974年)67頁。
CE. M. Joad, G㍑∫4ε80伽Pん1050吻ッ(〜fMorais and Politics(London:Victor Gollancz,1947),100 PP.759−765, Hobhouse, op.cit.,1918, PP.68−69.
101 沒c歓一「公私問題の政治哲学的基本問題」、佐々木毅・金泰昌編『公と私の社会科学・
公共哲学2』(岩波書店、2001年)9−11頁。
102 痰ヲば,河合栄治郎はボザンケの本領をその「国家論」に求め,理想主義の「代表的な 国家論」を供した,理想主義の最後の「代表者」としてボザンケを高く評価している。詳 細は拙稿、前掲論文、2002年、209−234頁。
Metz, op.cit,1935, p.339.103
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第5章ボザンケの権利・刑罰論 1.「権利」(1)一国家干渉と「権利」一
ボザンケは、前出のように「障害物を妨害すること」の原理を提示し、それに則りなが ら様々な国家活動を提唱しているが、なかでも彼にとってとりわけ重要なのものは、「個人」
が「最善の生活」や「共通善」の実現のために発する要求を「国家」が満たすという活動 である。ボザンケによれば、「魂の卓越」や「共通善」が「現実のものであるのは諸自己の 中においてである」1ことから、「国家」は以下のような活動を展開しなければならない。
「国家の目的が現実のもの(real)となるのはこうした諸自己においてであり,また,国 家が,それがそのために存在するところの目的を促進しうるのは,障害物の除去への彼ら 諸自己の諸要求を維持し,かっ調整することによってである。j 2
つまり、「個入」各人は「最善の生活」や「共通善」あるいは「魂の卓越」を実現するた めに、前述のような「批判」、すなわち「現実意志」と「実在意志」との間の内的な意志作 用に留まらず、外的世界に向かって様々な要求を発する。それゆえ、このような要求に応 え、その諸要求を「強制力」を行使して調節するのが、ボザンケのいう「国家」の「障害 物を妨害すること」の原理に則った具体的な国家活動のひとつである。ボザンケはいう。
「国家の特徴的な属性は,諸要求の究極的裁定者(ultimate arbiter)であること,少なく とも具体的世界(the b。dily world)において作用し得る体系としての生活の保護者である こと,である。」3(強調一ボザンケ)
しかし、このような調整はあるひとつの機関によって系統的・調和的・統合的に為され なければならない。言い換えれば、「最善の生活」の実現のために、一方ではあることが為 され、他方では別のことが為されるのでは「相反する諸調整」が為され、種々の人間の「最 善の生活」を実現するための要求は満たされ得ない。それゆえ、ボザンケによれば、「最善 の生活」を実現するために行われる各人の諸要求の総合的調整は、各人が唯一の「国家」
のにのみ所属することによってはじめて可能となる。ボザンケはいう。
「明白なことは,一人の人間との関係においてただ一つのこうした〔国家の保持する〕
絶対的権力が存在している,ということ,そして世の中(the world)が組織される限りに おいて,一つの絶対的権力が存在しなければならない,ということである。」4
ボザンケがただ単に「国家」に人間は属すべきとするのではなく、「我々各々は、国家、
それも唯一の国家に属さねばならず」(強調一引用者)5、かつ「文明生活の中にあるあら ゆる個人は一つの国家に,そしてそれのみに属すべき」(強調一引用者)6と論ずるのは、
「国家」が「実在意志」「一般意志」の具体化であるという理由に加え、「最善の生活」実 現のための各人の諸要求を調節するという作用が「唯一」の「国家」によって可能となる、
という、より現実的な理由にもよっている。
ところで、各人の「共通善」を叶えることに国家活動の実質的作用を見出すこうしたボ ザンケの議論は、直ちに彼の「権利」論へとつながっている。なぜならば、ボザンケの考 える「権利」とは、すでに示されたように「人権」や「自然権」の類のものではなく、む
しろ社会的に承認された「共通善」の実現のための個天の要求を意味するものだからであ る。ボザンケによれば、「共通善」といった究極目標は「自己」において実現するが、それ を具体化するための手段は「コミュニティを構成する明確な諸関係の中に存する諸自己に 付着している 権利 」に求められる。ボザンケは,各人の「権利」が「最善の生活」とい う究極目標の手段であると論究し、「国家」により維持される「権利の体系」を,「合理的
生活に必要な外的諸条件の有機的全体」ないし「人間の人格の存在及び完成に本質的な物 質的条件の維持にとって,真に必要なもの」と規定レて、国家活動と「権利」との関係を 以下のように記している。
「もし、我々が一般に国家活動それ自体の限界について問われるなら,その答えは,国 家活動は権利の維持(rnaintenance ofrights)に符合する,となる。」7.
「すべての国家活動は,たとえその詳細において特殊的あるいはむしろ具体的だとして も,その趣旨(bearing)及び正当化において一般的である。それは権利の体系に具体化さ れ,そこには公益との関係によっては決定されないような要素は存在しない。」8
しかし,前述のように、ここでボザンケによって論ぜられる「権利」は、「人権」あるい は「自然権」のような,生来的に各人に付着している権利ではない。ボザンケによれば,
人間の権利を「社会」や「国家」とは無関係なもの、つまり「個人がその孤立の局面にお いて,つまり目的との関係と無関係にある局面において賦与されるもの」と理解する自然 権的見解は,「的外れの概念」,「幻想」,そして「誤った特殊化」である9。むしろ、真の「権 利」とは、「外的諸条件」として「国家」により「維持」され,F承認」された各人の要求 である。ボザンケは言う。
「そして権利は,国家によって承認された,すなわち,究極的権威として行動する社会 によって承認された,最善の隼活に好ましい諸条件の維持への諸要求である。」tO また、ボザンケは「法」と「権利」の関係を次のように述べる。
「すべての権利は,法によって強制され,かつそうされるべき要求として,よき生活に 参画する目的とそれらとの関係から,それらの命令的な権威を抽出する。そしてすべての 権利は燗の諸能力の最善をなすために鱗する権力であり,この根拠で承認され,かつ,
行使されるのみである。」11 i
っまり、ボザンケによれば,前出の「自然権」は、社会や国家の成立以前に人間に付着 しているとされるもの、すなわち「社会的承認ないし調節」によって「変換されてはいな い」ものであることから12,、それは真の「権利」ではないのである。では、ボザンケにあ って・「人権」や噛然権」ではない「権利」とは具体的にどのようなものであろうか。 、 この点について、ボザンケは,「権利」は各人の「立場」(poSltion)に帰結すると論ずる。
ボザンケは言う。
「この点から,権利は,まず第一に,法一言わば権威的な体裁である一によって維持さ れる限り,彼のコミュニティの世界におけるある人の立場に関する外的な事柄である。」]3 っまり,ボザンケによれば,「法によって決定される、秩序における場所(place),立場」