他者の心についての予測・説明は、あたかも理論を用いた推論 とアナロジカルにとらえることができ るとい う前提のもとで、本論文は心について科学的探求を企てている。 しか し、他者の心について私た
45実際、 プロック (B10ck,Ned。)はデネ ッ トに道具主義者 と言明す るよ う勧めた ことがある (Dennett 1993 p.210)。
46ただ し「実在」 と呼ぶか どうかが本質的な問題ではないのは
NOAに
同意 してい るメンバーの うちでは とい う限定がつ く。形而上学的な意味を込 めて「実在」 と呼ぶかは本質的な問題 といえる。
ちが予測・説明する際に用いるもっと簡単な方法があるのではないか と感 じた人 もいるだろう。小説や 映画の中の登場人物 に「共感」すると私たちはい う。私たちが他者の心を共感を通 じて知 りうるのであ れば、共感に基づいて他者の行動を予測・説明することはできないだろうか。デネ ッ トは、共感にもと づいた心についての探求を二人称視点か らの探求 と呼ぶ。 (Dennett 2006,p.29)。 共感を通 じて心につ いての科学的探求立場が可能である と主張する人々を「共感主義者」 と本論文では呼ぶ ことに しよう。
結論か ら言 うな らば、残念なが ら共感主義は うま くいかない。ヘテロ現象学を説明する前に、まずその 点 について説明 したい。共感主義には二つのバー ジ ョンが存在 し、共感が′際の理論の探究方法 として優 れていると主張する点は同 じであるが、その根拠は異なっている。ではまず第一の種類の共感主義者か
ら見てみよう。
第一の種類の共感主義者 は科学的探求において実際には共感がノいの理論の探究方法 となっている と指 摘する。共感主義者によると認知心理学者 は実質的には経験主体の発話を手がか りに探求を進めてい く。
それゆえ、認知心理学の探求は実際には経験主体の発話行為に左右されてお り、それを中立的かつ不可 知論的に取 り扱 うことはできない と彼 らは主張する。後ほ ど説明するが、ヘテロ現象学においては経験 主体の発話内容を中立的に取 り扱 う。ヘテロ現象学における中立性 とは、経験主体の発話内容を鵜呑み にせず、第三者である私たちの視点か ら可能な限 リー貫性がある形で経験主体の発話内容を物語 として 再構成するとい う意味である
(Dennett 1991a,p。
81/邦 訳p.105)ヘ
テロ現象学において、経験主体の 発話内容 は全面的に正 しい として受け入れるのではな く、批判的に検証 される47。 しか し、認知科学に おいて探求は実際には発話主体の発話に左右されているため、発話主体が 自分 自身の心のついて知 り得 ない可能性を考慮 した探求、すなわち不可知論的な探求が行われていない と第一の種類の共感主義者は 考 える。認知科学のスター ト地点は、経験主体の内観であ り、ヘテロ現象学が目指す中立的探求では経 験主体が内観 で誤 った としても第三者 はそれを検証することはできないのだ と共感主義者 は指摘する。その結果、彼 らは経験主体の発話を中立的に取 り扱 うことは不可能であ り、ヘテロ現象学は認知心理学 者がノむの理論を探求するために実践 している科学的探求を正確に記述 していない と批判する (Goldman
1997,pp。 532‑533)。
これに対 してデネッ トは「不可知論の採用は今 日の科学的実践のなかにきわめて堅固に組み込 まれて いる」と反論 し、実際の心理実験において、被験者の発話内容を検証する過程が存在することを指摘する
(Dennett 2006,p.50)。
デネッ トが取 り上げるのは、シェフアー ド (Shephard Roger.)に よって行われ た、立体のイメージを人間が頭の中で回転させる速 さに関する実験である (Dennett 2006,pp.51‑52)。彼 は図4のよ うな二つの立体を被験者に見せ、 これ らが同 じ立体を別の角度か ら見たものか、別の立体 か とたずねる。
図
4(Dennett 2006 p。
51)どのよ うに してこの問いに回答 したかを尋ね ると多 くの被験者は心の中で二つの立体をイメージ し、
その一方を回転させて他方に重ねあわせた と主張する。シェフアー ドは、回転量の異なる立体の絵をい くつか用意 し、被験者が回答するまでの速さを測 ることによって、被験者の発話行為の内容を客観的に 検証 した。その結果、人間が立体のイメー ジを脳のなかで回転 させる速 さがだいたい毎秒60度である
47この中立性については後ほど再び説明する。
37
とシェファー ドは主張 した。 しか し、ピリシン (Pylyshyn zenon。
)は
被験者の内観による信念や発話内 容 を合理的に説明する別の仮説を主張 し、さ らなる検証 と分析が現在でも続いている。 このような検証 は時には経験主体の発話内容が誤 っていることを明 らかにする。検証 自体が経験主体の発話な しに始 ま らない とい う点に関 して共感主義者は正 しい。 しか し、経験主体の発話 は検証される。 これは科学的実 践 に不可知論が組み込 まれていて、私 たちが経験主体の発話を全面的に受け入れることな く、批判的に 扱 っていることをあ らわ している。つ ま り中立的に私たちは経験主体の発話を扱 っているのである。そ れゆえ共感主義者のヘテロ現象学に対する批判はあたっていない48。 次に第二の種類の共感主義者を見 てみよう。第二の種類の共感主義者 は、意図
(intention)が
持つ性質を根拠に共感を心の探究方法 として採用 し ようとする (Dennett 2006,pp.54‑55)。 彼 らは経験主体の発話行為に対 して、中立的な視点を とるこ とが可能であることを認める。また、そのような視点を採用することの意義を認める。 この点について 第二の種類の共感主義者 はヘテロ現象学 と近 く、第一の種類の共感主義者 とは異 なっている。 しか し、ある一点に関 して彼 らは経験主体の発話に対 して批判的な視点を採用するべきではな く、経験主体に全 面的に共感すべ きだ と主張する。その一点 とは意図である。第二の種類の共感主義者によると、意図は
「経験の領域に浸透する媒介者」であ り、それを土台にして私たちは同 じ基盤を持つ もの として、同 じ種 として出会 う (Verela,nancisco,and Jonathan 1999,p.10)。 ところで、彼 らのい う意図や「経験の 領域に浸透する媒介者」 とはい ったい何なのだろうか。 トンプソン (ThOmpson Ettn。
)に
よる と、そ れは「肉体感覚的共感 (sensual empathy)」 である (Thompson 2001,p.18)。 そ して、第二の種類の 共感主義者は、体の構造が類似 していることによって「感覚的共感」が可能になると考えている。彼 ら が主張 していることは、要するに志向性を共有するためには身体の構造や感覚器官の しくみがある程度 類似 している必要がある とい うことである。同時にこれは身体の構造が異なっているもの同士は異なる 主観的経験を持つため、相手の主観的経験が どのようなものか理解できない とい うことでもある。 この 主張は心について経験主体の特権的なアクセスを認める本質主義 とあま りかわ らない49。 このような経 験主体の経験への特権的アクセスを前提 とする立場の問題点は、「クオ リアの消去」の説で述べた通 りで ある。すなわち、第三者によって検証することができない対象が存在するとい う主張は、遠回 しに科学 的探求を拒絶 しているに過 ぎない。共感主義者の主張が正 しいな らば経験主体が「これが私の意図であ る」 と主張 した とき、第三者はその主張に疑間を呈することができない。 このような制約のある探求方 法を科学的な探求 と認めることはできない。以上のように共感を用いて心について科学的探求を しよ うとい う提案には問題がある。以下では共感ではな く三人称アプローチ と呼ぶ ことができる心の探究が ど のようなものであるのかを見てい こう。
知的な火星人が地球にや ってきて人間の行動 について説明 しようとした としよ う。火星人たちが とり うる説明方法は二通 りある。ひ とつは人間の観察データのみを元に一切の内的状態に言及することのな い理論を構築する方法であ り、 もうひ とつは欲求や信念 とい った内的状態を行為主体に帰属させ、それ が行動をひきお こす とい う考えに基づいて理論を組み立てる方法である。前者の方法を私たちは行動主
48第一の種類の共感主義者に対 して、さらなる反論を付け加えることができる。たしかに、私たちは発話行為が行われた時 点においては、その発話内容を疑 う理由を持ち合わせていない ことが多い。実験室に入ってきたところの被験者に最初に刺激 を加えたときに、なんらかの発話行為があればその内容をひとまず受け入れるしかないだろう。 しかし、実験を継続すれば事 情が変わってくる。第二の刺激に対する反応や、刺激を与えなかった時の反応などデータが蓄積されれば、個々のデータをよ り批判的な視点から検証することができる。第一の種類の共感主義者は被験者の反応を全体の文脈から切 り離 し、個々の反応 を原子論的に検証 しようとする。それゆえ、彼 らは被験者の発話内容を疑 うことができない と考えて しまう。 しか し、被験者 の反応をコミュニケーション全体からとらえたとき、ある特定の反応が文脈のなかでどのように解釈されるべきか とい う視点 が生 じる。それゆえ、私たちは経験主体の発話行為を中立的に取 り扱 うことが可能なのである。
49特にこの主張はネーゲルの主張とよく似ている。ネーゲルは「われわれが行う想像の基本的な素材は自分自身の体験であ る(Nagel 1974,p.2/邦訳p.263)」 と述べる。その上で「コウモリのソナーは、明らかに知覚の一形態であるにもかかわら ず、その機能においては、われわれのもつどの感覚器官にも似ていない(Nagel 1974,p.2/邦 訳p.263)」 という根拠から、
コウモリの主観的体験がどのようなものであるかはわれわれにはまったくわからないという結論を導く(Nagel 1974,p.3/邦
訳,p.265)。 ネーゲルのいう想像とは、つまり第二の種類の共感主義者がいう共感と同じ概念であることが分かる。