本章は、米国O*NETプログラムが作成した職務の遂行に必要なスキル・知識のチェック リストについて、その邦訳版を作成し、大規模データに基づいて因子構造を検討した結果を 報告するものである。以下、背景と問題、目的、方法、結果、考察の順に詳述する。
1. 背景と問題
職務の遂行におけるパフォーマンスを向上させる要因を検討することは重要である。単に 組織の維持や経済的な利益のためだけではなく、個人がより良く生きようとした場合、一日 の活動の大半を占めることになる職業活動において成功することは大きな自己実現の機会と なり得る。したがって人々が職務の遂行において自らの能力を存分に発揮し、それによって 社会全体が円滑に維持・発展されていくことは、社会にとっても個人にとっても利益が大き いものと考えられる。
職務の遂行におけるパフォーマンスを向上させる要因には様々な種類があるが、中でも個 人が後天的に獲得した能力がパフォーマンスに及ぼす影響を検討することには大きな意義が ある。たとえば基本的な問題解決能力としての知能指数や、視力・身長・容姿といった身体 的特徴、あるいは子ども時代の望ましい教育・生活を支える親の経済力といった要因は、確 かに職業によってはパフォーマンスに大きな影響を及ぼすことが予測される。こうした個人 の努力では変えることが難しい要因がパフォーマンスに与える影響を明らかにする研究は、
確かに政策決定や企業の人材管理には貢献するかもしれないが、個人にとって利益となるか どうかは疑問である。むしろ、帰属理論(attribution theories)の観点から考えれば、このよ うな個人内で安定した要因への注目は人々に無力感を与えることになりかねない。それに対 して後天的に学習を通して獲得された能力が職務遂行上のパフォーマンスに及ぼす影響に注 目することは、それによって人々が自発的に努力し成長していくこと、より良く生きようと する向上心を促すことに繋がるという点で意義があると考えられるのである。
後天的に獲得される能力の中でも、今日の職業訓練や能力開発といった文脈で代表的なの はスキルと知識である。スキルとは、記憶研究における手続き的記憶(procedural memory) に該当する後天的能力である。手続き的記憶は意図的に想起することが難しい知識であり、
また遂行中にも意識されていない場合が多いと言われており(伊東, 1994)、たとえば自転車の 操縦スキルを言葉で説明せよと言われても、「右折時にはブレーキをかけて速度を落としつつ、
右手側のハンドルを手前に引き……」といった個別場面ごとの冗長な説明にならざるを得な い。また、仮に言葉を尽くして説明したとして、それが本当に自転車の操縦スキルを反映し ているのかどうかは疑問である。それよりもむしろ、個人が自転車の操縦スキルを持ってい るかどうかは、実際に自転車を運転させてみた方が早い。スキルとはこのように、「できる」
ことによって確認される特徴があるといえる。
一方、一般的に知識と呼ばれるものは、宣言的記憶(declarative memory)の中でも、意味 記憶(semantic memory)に該当すると考えられている。宣言的記憶とは手続き的記憶とは異 なり言葉によって記述できる事実についての記憶を指すものであり、その中には一般的な知 識としての意味記憶と、生起した時間や場所といった文脈と共に蓄積される個人的な経験に 関する記憶としてのエピソード記憶(episodic memory)の二つに分けられる(Tulving, 1972)。
手続き的記憶と比較して宣言的記憶に関しては認知心理学の領域において研究の蓄積が豊富 であり、意味記憶に関していえばその概念的表象に関するモデルや、語彙的表象に関するモ デルがいくつも提案され、妥当性が評価されてきている(森・井上・松井, 2005)。たとえば犬 に関する意味記憶(知識)を持っているかどうかは、言葉によって「犬とは何か?」を尋ね て回答できるかどうかによって確認が可能であり、このように知識とは「わかる」ことによ って確認される特徴があるといえる。
さて、前述のように職務遂行上のパフォーマンスを向上させる主要な後天的要因と考えら れるスキルと知識だが、その因子構造を検討することは重要な研究課題である。個人が効率 よく自らの職務に必要なスキルや知識を獲得しようとした時に、あるいは組織がその構成員 の能力を効率的に伸ばしたいと考えた時に、一体どのような範囲・順序で学習を進めれば良 いのか、大まかな因子構造が分かっていれば判断が容易になると考えられるためである。た とえば教育上のカリキュラムを作成するという行為は、正にスキル・知識の因子構造を暗黙 のうちに想定して行われる。また記憶における検索の手がかりという観点から考えても、同 一の因子に含まれるスキル・知識をまとめて体系的に学ぶことによって記憶情報同士が関連 付けられ、思い出すための手がかりを増やす効果が期待できる。したがってスキル・知識の 因子構造を明らかにすることには、職業訓練や能力開発といった場面で効率的な体系的学習 を促進するという利点が認められるのである。
職務の遂行に必要なスキル・知識の構造について、我が国ではこれまで主として特定の業 界ごとに職能団体や官公庁の主導の下で整理が行われてきた。まずスキル寄りの先行事例と して、我が国ではバブル崩壊後の就職氷河期・超氷河期を受けて、若年者の就職を支援する ために仕事に関する能力を特定しようとする動きが見られた。その一つの「社会人基礎力」
は、経済産業省の「社会人基礎力に関する研究会」においてまとめられたものであり、学校 等で学んだ知識を社会での実践に活用するために必要となる力を示している。社会人基礎力 は三つの能力と12の要素で構成され、その内容は①前に踏み出す力(主体性、働きかけ力、
実行力)、②考え抜く力(課題発見力、計画力、想像力)、③チームで働く力(発信力、傾聴 力、柔軟性、情況把握力、規律性、ストレスコントロール力)である。
も う 一 つ の ス キ ル 寄 り の 先 行 事 例 と し て 「YES プ ロ グ ラ ム 」 が あ る 。 こ れ は Youth Employability Support Program(若年者就職基礎能力支援事業)の略称であり、若年者が企 業側の求める就職基礎能力を獲得できるよう支援する事業である。その中で、就職基礎能力 として7領域が設定されており、その内容は①コミュニケーション能力、②職業人意識、③
基礎学力(読み書き)、④基礎学力(計算・計数・数学的思考力)、⑤基礎学力(社会人常識)、
⑥ビジネスマナー、⑦資格取得、である。
一方、知識寄りの先行事例に関しては、大規模な調査に基づき仕事に関係する能力の検討 を行った、高齢・障害・求職者雇用支援機構の「生涯職業能力開発体系」がある。この調査 は、「仕事を行うために必要な職業能力である知識及び技能・技術を明らかにし、さらにこの 職業能力の開発及び向上のため、教育訓練をどのように進めるかについて段階的かつ体系的 に整理したもの」とされている。また同様に、中央職業能力開発協会においても「職業能力 評価基準」として、各業界、各職種に必要な能力を詳細にリストアップしている。
この他、知識の構造に関しては高等学校の学習指導要領についても参考とすることができ る。学習指導要領では国語や数学といった普通教育とは別に、農業、工業、商業、水産等、
13の領域ごとに学習目標と内容の取り扱いを定めており、例えば農業では農業科学基礎,環 境科学基礎、農業経営、農業機械等、30の科目が設定されている。前述のように教育におけ るカリキュラム作成は、その背景に学習内容の因子構造を想定した体系化という側面がある ため、こうした文部科学省による科目の設定は、そのまま職務の遂行に必要な知識に関する 一つの構造整理事例と見なすことができる。
こうした業界ごとのスキル・知識の構造を整理し体系化してゆくことは、具体的な職業訓 練や能力開発という文脈で見た場合、極めて有用である。なぜなら、スキルや知識を獲得し たいという個人、あるいは獲得させたい組織は、高いパフォーマンスを達成したい/させたい 職務の存在が初めに念頭にあった上で、その達成のためにスキル・知識を学習しよう/させよ うと考える場合が一般的であるためである。このような場合、学習目標である職務の種類に 応じて必要なスキル・知識を体系化することが、何よりも現場で役立つ知見を提供すること に繋がると考えられる。したがって、我が国においてこのような視点で先行事例が蓄積され ていることは大いに価値あるものと考えられる。
しかし一方で、あらゆる業界・職種に共通するスキル・知識の構造について検討すること もまた異なる利点がある。たとえば、ある職業でスキル・知識を獲得した個人が転職しよう とする場合、これまでのスキル・知識を活かせる新たな職業に就きたいと考えるのはごく自 然な発想である。この時、同一業界内で同じような職務で構成される職業に就けるのであれ ば、前述の業界単位のスキル・知識の構造体系が有用であるが、現実にはそのように上手く はいかず、業界を超えて新たな職業を探索しなければならないケースもある。その際に、業 界ごとに独自の構造体系を持ち互いに断絶している状態では、一体どのような業界のどのよ うな職業が自らの既存スキル・知識を発揮できる選択肢として考えられるのかわからず、途 方にくれることになってしまう。このような転職のケースに限らず、たとえば新卒学生が既 に獲得しているスキル・知識を活かせる就職先を検討する場合などにも、あらゆる業界を探 索対象として統一的な視点で比較検討できることには価値があるであろう。したがって、業 界固有の現場の感覚と直結したスキル・知識の構造を検討することとは別に、ある程度抽象