ジョッキー・クラブは、その揺籃期に、競走後の検量や馬主の服色登録に関する指示を 出すことによって、ニューマーケットで行われる競馬に対して一定の規範を求めた。これ らの指示は、あくまでも本拠地にのみ適用されるものであり、彼らの影響力はいまだ限定 的であった。しかし、1773年における『競馬年鑑』の創刊によって、彼らが作成した独自 の規則を含めた様々な競馬情報が、全国に発信されるようになった。このクラブの初期発 展期の始まりを告げる『競馬年鑑』出版に尽力した人物が、当時のジョッキー・クラブ幹 事サー・チャールズ・バンベリーである。彼は、1768年に28歳でジョッキー・クラブの 幹事になり、クラブの終身会長、最初の「ディクテイター・オブ・ザ・ターフ」として知 られるようになった競馬改革者である1。本章第一節では、まずサー・バンベリーの改革を 分析することで、彼の時代にジョッキー・クラブが競馬統括団体として各地に影響力を拡 大させる下地を整えた点を明らかにしたい。
また、第二節では、競走の主役であるサラブレッドの創出について論じる。このサラブ レッドという品種は、18世紀末にジョッキー・クラブの『血統登録書』によって新しく規 定された種である。高貴な会員を抱えるジョッキー・クラブが、混じり気のない「純血」
の競走馬を生み出した意義の大きさを確認したい。
第一節 サー・チャールズ・バンベリーの改革
本節では、18世紀後半から19世紀前半のジョッキー・クラブ幹事で、最初の競馬改革 者として知られるサー・チャールズ・バンベリーについて分析する。彼は、ジョッキー・
クラブの影響力をニューマーケット以外の競馬場に拡大させる上で、極めて重要な役割を 担った人物である。『オックスフォード英国人名辞典』(Oxford Dictionary of National
Biography)によると、サー・バンベリーはサフォーク(Suffolk)生まれの競馬管理者、
政治家で、バンベリー家は数世紀にわたってチェシャー(Cheshire)の地主として名高く、
彼の父はミルデンホール(Mildenhall)の教会区司祭であり、準男爵の位階を有する人物 であった2。そのため、サー・バンベリーの出自は、貴族、ジェントリが集うジョッキー・
クラブの指揮を執るに足るものであったと言える。
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(図3)初期発展期のジョッキー・クラブ幹事サー・チャールズ・バンベリー
出典:John Tyrrel, Running Racing: The Jockey Club Years Since 1750 (London, 1997), p.17.
彼が活躍した時代は、1760年から1820年にかけてのジョージ3世の治世とほぼ重なり 合う形となっている。ジョージ3世が即位した当時、ジョッキー・クラブは設立後約 10 年の時を経ていたが、目立った動きは、1756年のジョッキー・クラブ・プレートにおける ヒート競走の廃止と、1758年の後検量に関する「第一の指示」くらいしかなかった。ロバ ート・ブラックの指摘によれば、ジョージ3世は、後のウィリアム4世のようにジョッキ ー・クラブの会員でもなければ、その名義上の「パトロン」でもなく、乗馬を除いて「ス ポーツ・オヴ・キングス」である競馬を個人的には奨励していなかったが、彼の治世に競 馬は並外れた発展を成し遂げた3。また、ジョージ3世の叔父であるカンバーランド公
(William Augustus, Duke of Cumberland, 1721-65)、弟のヘンリ・フレデリック(Henry Frederick, Duke of Cumberland and Strathearn, 1745-1790)、そしてついには、息子2 人もジョッキー・クラブのかなり著名なメンバーになった4。サー・チャールズ・バンベリ ーは、このように王室関係者がクラブ会員に存在するという状況下で、ジョッキー・クラ
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冒頭部で、サー・バンベリーが 1768年にクラブの幹事になったと述べたが、1771年、
それまで1名であったジョッキー・クラブの幹事を3名にする旨の指示が出された5。その 内容は、以下のとおりであった6。
「3名の会員が幹事として任命されるべきで、毎年6月4日にその職務を開始する。
その際、1名の新幹事が、出席しているジョッキー・クラブ会員たちの認可を条件とし て、毎年6月3日に退任する幹事によって任命されるべきである。現職幹事3名の最初 とその次の欠員は、くじを引くことで解決される、以後、最古参の幹事が、毎年6月3 日にその地位を退くべきである。」
この幹事の三人制は、以後長く存続することになるが、加えてジョッキー・クラブの幹 事たちは、紛争解決における決定権など、次第に様々な権限を握っていくことになる。そ の幹事の権限に関する最初の決議は、同じ 1771 年における「ニューマーケットでの競走 に関するすべての紛争は、今後、3名の幹事と当該の一団によって選ばれた2名の仲裁人 によって解決されるべきである」という注目すべきものであった7。管理するニューマーケ ットで紛争が起こった際に、ジョッキー・クラブの代表とも言える幹事たちが裁定を下す というこの決議は、上流階級の社交クラブの中に、競馬というスポーツを統括する団体と しての明確な意識が芽生えてきた証拠である。この他にも、クラブの幹事たちは、練習場 と競馬場に関して、彼らが適切と判断する規則を作成する完全な権限や、コーヒー・ハウ ス管理者などを含めたジョッキー・クラブの運営に携わる人々の任命権、ジョッキー・ク ラブの資金に対する責任、発走時刻の決定権、毎年6月3日に報告書を提出する義務とい った様々な権限と責務を併せ持つようになった8。
このように、1771年以降、幹事の権限が強化されたが、それ以前からクラブの幹事を務 めていたサー・バンベリーは初期発展期における中心的人物として名高い。それには、大 きく分けて3つの理由がある。サー・バンベリー1つ目の功績は、1769年、ニューカッス ル(Newcastle)の事務弁護士であったジェイムズ・ウェザビー(James Weatherby)に 対して、『競馬年鑑』を出版するよう勧誘したことである9。
ジョッキー・クラブが『競馬年鑑』を創刊する以前から、ジョン・チェニー、ジョン・
ポンド、B・ウォーカーやウィリアム・テューティングとトマス・フォーコナーの共著と
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いった競馬記録集が存在していたことは、第一章第二節で述べたとおりである。こうした 記録編纂事業は、栄枯盛衰が極めて激しかった。事実、ウォーカーが市場から撤退した後、
記録書管理者(keeper of the match book)としてテューティングに、ジョッキー・クラ ブ秘書としてフォーコナーに取って代わっていたウェザビーは、彼らの書物を奪い取る計 画に取り掛かった10。その際、ウェザビーは、フォーコナーを見捨てるようテューティン グを説得し、彼らの記録集1,600部が世に出る前に、差し押さえて隠匿してしまったので ある11。『競馬年鑑』出版に伴う5年の法的論争は、競馬開催の日付を載せる権利以上のも のが巻き込まれていることを示しているが、ウェザビーの『競馬年鑑』は入念な競馬規則 の宝庫であり、彼の地位はジョッキー・クラブの秘書、事務弁護士、会計係、そして特に、
賭け金の保管人といった様々な分野に発展した12。そして、以後200年以上もの間、ジョ ッキー・クラブは、彼らが代理人として雇った「公務員」のようなウェザビー商会によっ て、代々支えられることになる13。このように、『競馬年鑑』の発行を含めた様々な業務を こなすことのできるウェザビーをクラブに引き入れたサー・チャールズ・バンベリーの功 績は計り知れず、これにより、ジョッキー・クラブはより一層統括団体としての機能を意 識するようになったと言える。
(図4)ウェザビーズ(Weatherbys)所有のニューマーケット記録集(1718~1788)
出典:国立競馬博物館(The National Horseracing Museum)ホームページより。
http://www.nhrm.co.uk/What's_On/Some_Museum_Highlights/The_18thC_Match_Book.aspx
(2015年11月17日閲覧)
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サー・バンベリーによる功績の2つ目は、後に人気を博すことになるクラシック・レー スの創設にまつわるものである。クラシック・レースとは、3歳馬のみが参戦可能な競走 で、1776年創設のセントレジャー(St. Leger)、1779年創設のオークス、1780年創設の ダービー、1809年創設の2,000ギニー(Two Thousand Guineas)、1814年創設の1,000 ギニー(One Thousand Guineas)の5つを指す14。現代でも、特に所有馬からダービー の勝ち馬を出すことは、馬主にとっての最大の名誉と言われている。その第1回ダービー は、1780年5月4日に行われた。これは、セントレジャー、オークスの設立とともに、ジ ョージ3世の治世における記憶すべき出来事であったと、19世紀末に馬のブリーダーでワ イン商人でもあったウォルター・ギルビー(Walter Gilbey)が指摘しているように15、こ れらの競走は、後に権威あるナショナルな行事として成長してゆく。
そうしたダービーおよびセントレジャーの設立には、サー・チャールズ・バンベリーが 多大なる影響を及ぼしたと言われているし16、最初の1780年のダービーに勝利したのは、
まさに彼の所有馬ダイオメド(Diomed)であった17。このダービーとオークスはエプソム 競馬場で、セントレジャーはドンカスター(Doncaster)競馬場で行われる競走であり、
18世紀の段階では、ジョッキー・クラブの拠点であるニューマーケットに、これらに匹敵 する大きな3歳馬限定競走は存在していなかった。しかし、特にダービーとセントレジャ ーの創設に深くかかわったサー・バンベリーと、彼の仲間の幹事たちの主導で、2つのギ ニー・レースが導入された18。この2つのギニー・レースこそ、1809年に設立された2,000 ギニーと1814年に設立された1,000ギニーである19。ニューマーケットにおいて、3歳馬 によるクラシック・レースが導入されるまでには少し時間を要したが、サー・バンベリー はクラシック・レースの生みの親とも言える存在であり、エプソムやドンカスターといっ た当時の有力競馬場との繋がりを通して、ジョッキー・クラブの存在価値を高めたことは、
まさに彼の功績であった。
サー・チャールズ・バンベリーの3つ目の功績は、1791 年に起きたエスケープ事件
(Escape Affair)に際して披露した対応力である。エスケープ事件は、1791年10月20 日と 21 日にかけて起きた、プリンス・オブ・ウェールズ(後のジョージ4世)の所有馬 エスケープによる不正競走疑惑事件である20。まずは、この事件の概要を確認しておく。
1791年10月20日、名血馬エスケープは4頭立ての競走に出走したが、自分より実力 の劣る3頭の馬に敗北し4着という結果に終わった。大敗の翌日、エスケープは6頭立て の競走に出走することになったが、この6頭の中には、エスケープが前日に敗れた2頭に