はじめに
一八七四年(明治七)一〇月二二日にリグーリア州にあるラ・スペツィアにおいてコル ベット艦「ガリバルディ号」での世界一周旅行を終了した後、ジェノヴァ公トンマーゾ・
ディ・サヴォイア王子はイタリア王立海軍でのキャリアを続行した。様々な軍艦に乗って 訓練教育を受け、乗組員の指揮監督をはじめとする重要な諸任務にも就いた上で、一八七 八年(明治一一)一月二三日にジェノヴァ公は中佐に任命され、軍艦の完全な指揮権を握 ることとなった383。その間、同年一月九日にヴィットーリオ・エマヌエーレ二世が亡くな り、ジェノヴァ公の従兄弟および義理の兄であったウンベルト(Umberto di Savoia、一八 四四―一九〇〇)はウンベルト一世(在位:一八七八―一九〇〇)としてイタリア王国の 第二代国王に即位することとなった。そのため、ジェノヴァ公はイタリア王国の上院議員
(一八七五年に得た肩書)として新主権者の前で宣誓を行うため、ローマへ赴いた。そし て、新国王ウンベルト一世の命によりジェノヴァ公はリスボンに向け航海し、イタリア王 国の王位継承についてポルトガル国王に報告した384。
その後、ジェノヴァ公は大佐に任命されるために必要であった、東アジアにおける大洋 横断航海に加わることとなった。そのため、一八七九年(明治一二)二月一七日にイタリ ア王国の海軍省は蒸気コルベット艦「ヴェットル・ピサーニ号」上の完全な指揮権および 責任をまだわずか二五歳の青年であったジェノヴァ公に与えた。軍艦「ガリバルディ号」
での世界一周旅行と同様に、蒸気コルベット艦「ヴェットル・ピサーニ号」の大洋横断航 海も、サヴォイア家の海軍士官候補生向けの長期の訓練旅行であり、イタリア王国にとっ て政治的かつ商業的利益を果たす目的もあった385。軍艦「ヴェットル・ピサーニ号」にお いてジェノヴァ公が指揮しなければならなかった使節は、何よりもまず蚕種貿易に関する 知識を深めるという商業的な目的を持っていた。そして、この使節は東アジアにおいてさ らなる商業交流を促進する役目も担っていた。前述の目的は、一八七九年二月一八日に当 時の海軍大臣ニッコロ・フェッラッチュウ(Niccolò Ferracciù, 一八一五―一八九二)の名 で海軍省官房長によって作成されたジェノヴァ公宛の指示書(Memoria Istruttoria)386に 示されている。この公式な文書によると、ジェノヴァ公は、その航海の目的地や日程など に関しては海軍省から受け取った一般的な指示に準拠するべきであったが、それ以外の点 において、軍艦「ヴェットル・ピサーニ号」の艦長として彼は広く行動の裁量権を享受す ることになったようである。特に、海軍省官房長による指示書において、蚕種市場の交易 の時期に訪問するべき、横浜港をはじめとするいくつかの必須の目的地が示されていたが、
詳しい旅程は決定されていなかった。一八八一年三月に海軍省によって計画された、帰国 前に上陸する地点の選択はジェノヴァ公の裁量に委ねられていた387。
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イタリア王族の当直将校および副官として既に軍艦「ガリバルディ号」の世界一周旅行 に参加した少佐カミロ・カンディアーニをはじめ、様々な熟練の士官が艦長ジェノヴァ公 を支援することとなった。他の乗組員のうち、一八六九年から一八七一年にかけて家庭教 師および当直将校としてジェノヴァ公の教育を担当した中佐ルキーノ・ダル・ヴェルメ伯 爵(第三章の「はじめに」を参照)も軍艦「ヴェットル・ピサーニ号」の大洋横断航海に 加わることになった。ダル・ヴェルメはジェノヴァ公の率いる使節団の書記官であり、自 分の旅行書籍および記録文書をもとにして、帰国した後『日本とシベリア』(Giappone e
Siberia)388という著書を出版した。一方、軍艦「ヴェットル・ピサーニ号」の航海の際、
同時期にジェノヴァ公の部隊つきの副官であったカンディアーニは、科学調査隊派遣を指 揮し、訪問諸国でのデータを収集した。
前述の目的と乗組員をもって、一八七九年(明治一二)三月三一日に蒸気コルベット艦
「ヴェットル・ピサーニ号」はヴェネツィアから出航し、食料と燃料を補給するためにブ リンディジに着岸した上で、四月七日に東アジアに向かってその大洋横断航海を開始した
389。この航海の期間中に、ジェノヴァ公は同一八七九年八月二日から一八八一年一月一三 日にかけて、二度目の来日を果たした。その当時、在東京イタリア公使館の運営に携わる 責任者、つまり特派全権公使バルボラーニ伯爵の指導の下、ジェノヴァ公はイタリア貿易 拡大および国際舞台での積極的な役割を果たすことを目的に、イタリア王国を代表する公 式の使節として明治政府および皇室との外交関係をさらに深めることに関与した。
ジェノヴァ公による二度目の来日に関する重要性はこれまで何度か研究に紹介されてお り、この来日の公的な詳細は周知のところである。例えばイタリア側では、未完の文書や、
印刷物、私的な所管などの資料に基づいて、ジェノヴァ公の二度目の訪日というテーマを 取り上げた注目すべき研究として、ディ・ルッソ390の功績が挙げられる。また、ジェノヴ ァ公の訪日の際の日伊関係の状況を検討したウゴリーニ391、そしてザヴァレーゼ392の論 文がある。日本側では、ディ・ルッソの研究の他に、明治宮廷の外交儀礼の変化を中心に して宮中におけるジェノヴァ公の公式訪問を扱った中山和芳の功績393が挙げられる。
しかしながら、イタリア側と日本側の一次史料を両方とも使って、ジェノヴァ公による 二度目の来日を詳細に検討した研究は現在のところまだ行われていない。その結果、この テーマに関する明治政府の姿勢などはまだ明らかにされていない。そこで、本章では、両 国側の姿勢を考慮した上で当時の日伊関係の変遷を理解するため、イタリア側資料に加え、
主に日本にある公文書館で収集した未刊の一次史料(書簡と公文書)、公刊されている史料
(『明治天皇紀』394を含む)を中心に活用しながら、一八七九から一八八一年におけるジ ェノヴァ公の来日について可能な限り包括的な検討を試みたい。特に、本章の主要な目的 は、バルボラーニ伯爵の対日外交政策においてはもちろん、明治政府の対外方針において もジェノヴァ公による二度目の来日が持っていた戦略的重要性を解明することである。こ の目的を達成すべく、ディ・ルッソや中山和芳などの優れた先行研究において紹介された 要点を押さえた上で、主にイタリア外務省歴史外交資料館395、外務省外交史料館396、そ
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して宮内公文書館397に保存されている記録文書を基にし、以下の側面を検討したい。
まず、第一節では、明治政府がジェノヴァ公の歓迎をどのように、また、どの程度まで 行おうとしたのかを説明した上で、その来日のために駐日イタリア公使バルボラーニ伯爵 が行った準備を詳細に検証する。次に、第二節においては、ジェノヴァ公による東京での 二度目の公式訪問は、どのような成果をもたらしたのかを明らかにする。そして、第三節 においては、朝鮮におけるジェノヴァ公の「秘密使節」から見る日伊関係の暗い側面を浮 き彫りにする。最後に、第四節では、明治初期における日伊間の外交・貿易関係を中心に、
ジェノヴァ公による二度目の来日が残した様々な外交的効果について考察する。以上の検 証からジェノヴァ公による二度目の来日の経緯を明らかにすることで、結論へと導きたい。
第一節 イタリア王族ジェノヴァ公による二度目の来日とその準備
これまでに述べたように、ジェノヴァ公トンマーゾ・ディ・サヴォイア王子は一八七九 年三月三一日に軍艦「ヴェットル・ピサーニ号」に乗船し、ヴェネツィアから出航した。
主な目的地であった日本に到着する前に、軍艦「ヴェットル・ピサーニ号」は、エジプト でポートサイドへ出航し、そこからスエズ運河を経由して紅海へ入った。紅海を渡った後、
五月八日にジェノヴァ公はイエメンのアデンに到着した。その後、ソマリアの様々な港に 寄港してから、蒸気コルベット艦はインド洋に渡ってモルディブとスリランカを越え、六 月二八日にマラッカ海峡を経由してマレーシアにあるイギリスのペナン植民地に到着した。
それから、シンガポールと香港に到達した後、八月二日に「ヴェットル・ピサーニ号」は 福江島に上陸し、八日に長崎港で日本の当局により手厚く歓迎された。日本までのその大 洋航海に関して、駐伊日本臨時代理公使中村博愛は以下のように述べている。
[前略] 「プリンス、トーマス」殿下ハ世界巡廻航ノ為「コルウェット」艦「ウエット
ルピザ二―」号ヲ指揮シ、三月卅一日「ウエニース」港ヲ觧纜セリ同軍艦ハ「ジユエ ス」堀割河ヲ航過シ、紅海ニ出デ「バペルマレデブ」海峽ヲ経テ「アーデン」港ヘ寄 リ、石炭ヲ積ミ夫ヨリ「せーロン」島ヘ向テ數日繫泊シ、島内諸所ヲ巡視シ後「シン ガポール」并ニ支那海ヘ回航シ、来ル八月中旬頃横浜ヘ到着ノ日積リ。 [後略]398 すでに一八七九年一月、つまり「ヴェットル・ピサーニ号」の出発の約三ヶ月前、駐日 イタリア公使バルボラーニ伯爵はジェノヴァ公による来日を明治政府に知らせた。一八七 三年に代理公使リッタ伯爵が決定したのと同じように、バルボラーニ伯爵もジェノヴァ公 の来日に公式な性格を与えることにした。特に、バルボラーニは「皇族ハ先年御国へ渡来 ノ節我政府(日本政府)於テ御懇待ヲ被受候ニ付、右ヲ拜謝ノ為メ出京謁見ヲ企望可被致 旨」399を当時の外務卿寺島宗則に通告した。バルボラーニの希望に応え、一月六日に寺島 外務卿はジェノヴァ公向けに「更ニ明治六年中御接遇被為在候礼典ニ照準シ御接遇相成可 然」400ということを当時の太政大臣三条実美に述べた。かくして、八月四日、寺島は宮内 卿徳大寺実則と共に改めて三条太政大臣宛ての書簡で、以下のような接遇次第を提案した。