本論文の目的は、コラボレーションに関し、「ニュアンス」の実践を主軸としながら、「多元的複 数的アイデンティティ」を目指したコレクティブとアーカイブの可能性について考察することであっ た。コラボレーションについて述べるには、美術史の文脈だけではなく、属する社会や伝統の継承を 踏まえつつ、自己の他者性の問題に関しても検討することが重要であり、日本を含むアジアや欧米で のコラボレーションのあり方を究明する必要があった。そこで本章では、研究仮説で挙げた創造の可 能性についての検証結果を以下の順に記す。すなわち、①コラボレーションの芸術創造―複眼的思考 で生み出される作品、②芸術創造主体としてのアーティスト・コレクティブ―異質なものの協力で引 き出される潜在能力、③芸術創造におけるアーカイブ―未来に出会う他者との喜びの共有、である。
最後に論文の結論を述べる。なお、「ニュアンス」の固定メンバーでもアーカイブに関する捉え方が 異なるため、本章では「ニュアンス」が制作した「映画」に対し、筆者の「アーカイブ」としての映 像作品を「映像」と表現する。
第 1 節 コ ラ ボ レ ー シ ョ ン の 芸 術 創 造 ― 複 眼 的 思 考 で 生 み 出 さ れ る 作 品
仮 説 1 コラボレーションの芸術創造は、「異なる文化」や「コレクティブ」によってアーティ ストのアイデンティティが危機にさらされながらも、新しい環境で他者を受容し、社会との新しい関 係性を結び、喜びを見いだすことができるのではないか。
第4章で述べたシチリアから始まった一連の実験で再認識したことをまとめると、40 頁記載の表 3「アーティスト・コレクティブの実践とアーカイブ」の通りである。シチリアでは、対話と映像言 語モンタージュに焦点を当てた。現地に行く前の構想からダイナミックに発展し、具体的な対話へと 変化していった。モチーフとなる小道具、演じるものの動きは、どれも舞台の置かれた環境と密接に 結びついたものであった。当初は複雑に絡み合う動きであったが、やがて土地柄に溶け込むコラボ レーションへと変化していった。イスタンブールでは、アーティストの日常生活について考察した。
混沌としたイスタンブールの社会においては、主体の多様性をより意識して独自の角度からアプロー チをすることができた。複数のアーティストによる痕跡や場の記録を生み出し、最終的に「多元的複 数的アイデンティティ」を実現することができた。東京では、日本史と関わる歴史的建造物と既に美 術史となったコスースの作品への訪問者の理解についてであった。厳粛な空間で繰り広げられる特別 な時間として、非日常的な感覚を紡ぎ出すことが出来たということである。ドイツ・デュッセルドル フのプロジェクトは、人間以外の自然や動物との交感、映画とアーティスト・ブックの編集、様々な 組み合わせの可能性についてであった。
こうしたことから言えることは、展覧会・パフォーマンス・ブックローンチ、「ニュアンス」とプ ロジェクト参加者・鑑賞者を結びつけるためには、映像とアーティスト・ブックが不可欠であったこ とである。ベルリンでは、制作過程の記録について考察することになった。このような環境で生まれ る芸術があり、コレクティブ「ニュアンス」と個人アーティストという主体の二重性があり、そして 新しい知識の蓄積があった。コラボレーションによってこそ、新しい環境からの複雑な動きのプロ ジェクトを実現させることが出来た。一連のプロジェクトは、一人のアーティストが中心になるので はなく、複数のアーティストが中心となって複眼的思考で推進した結果であるといえる。
次に、日本とドイツの違い、日本人アーティストとドイツ人アーティストの受け止め方の違いとそ の複雑さについて述べておく。例えば、次の点では筆者と他のメンバーとの意見は一致していた。コ ラボレーションと関わるアーティストは、アーカイブの制作者あるいは言説をとおしてアーカイブを 伝える主体として存在するとともに、コレクティブ・メンバーやプロジェクト参加者と個人の調査で は獲得出来ない情報やネットワークを共有することができる。また、アーティストにより差異のある 世界を構築し、新しい理解をもたらすということである。しかし、コラボレーションの芸術的な役割 と機能については、必ずしも一致していたわけではなかった。筆者にとっても、そのことは意外とも 思えた。すなわち、「ニュアンス」の他の固定メンバーは、あるコンセプトのもとに作品制作を行う ことが重要であると考えるが、ドイツと歴史的に関係の深い一部の国を除いて、プロジェクトが行わ れる土地の文化や社会環境にはあまり気にかけていないようであった。彼らにとっては、プロジェク トが行われる場所は、映画制作成立のための視覚的な背景のようであった。また、多くのアーティス トの参加は、プロジェクト推進のための助成金を獲得するには有利であることも確かであった。そう したことから他のメンバーは、アーティストとして生きていくうえで、コラボレーションに取り組む ことがより得策であるというのであった。
これに対し筆者は、一般に一人のアーティストが社会の中で生きていくうえでコラボレーションが 少なくない力になると考える。しかしながら、それは社会で認知されるためだけではなく、むしろ芸 術を介し他者や環境と特別な関係を結ぶコラボレーションの価値にこそ大きな意味があると言えるの ではないだろうか。コラボレーションをとおした関係者の意見の衝突をも含むコミュニケーションに よって獲得できる感動があるとすれば、それこそがプロジェクトの特徴となる。そのような感動、す なわち創造的な活動のクオリティは、コラボレーションの面白さではないかと考えるのである。
美術の分野でも、先端技術を駆使した科学やITなどの分野を取り入れたものでは、長期的な共同 研究が顕著に見られる。テクノロジーの発達により複雑化、専門化、細分化したさまざまな知識、経 験、技術の領域を繋ぎながら、個人のアーティストでは到達できない領域にコラボレーションによっ て到達することが可能となっている。異なる文化や分野におけるコラボレーションの芸術創造は、共 通理解の接点を見い出すために、決して単純とは言えないコミュニケーションの過程を経ることにな る。その結果、体験をとおした複雑かつ多様な認識が身体の中に入り込むことになる。そのような状
況の下、他者の影響を受け、人間の生の営みにとって不可欠な思索をすることになる。
コレクティブによるコラボレーションの表現媒体は、コラボレーションの性質やプロジェクトの設 定にもよるが、複数人で実現可能となる共著書、公演、映画制作などが適している。実践においては、
個人アーティストの作品の場合、独自の構想を実現することが可能である。コレクティブの作品の場 合、コレクティブ・メンバーやプロジェクト参加者の意見によっては譲歩しなければならいことや、
想定外の結果を招くこともある。個人のアーティストの作品と比較し、異なるアイデンティティを 持ったメンバーで構成されるコラボレーション作品は、一般に人々から商品としては理解されにくい 側面がある。その一方で、社会のさまざまな文脈の中で総合的に流通するような価値を持つ場合もあ る。コラボレーションのネットワークでつながったコレクティブという特異な場を自ら生成すること は、アーティストとして生きる一つの方法であり、たとえコラボレーションに伴うアイデンティティ の危機を前提としても、他者との関係性を長期的に構築するコレクティブの実践には意義があると考 える。
第 2 節 芸 術 創 造 主 体 と し て の ア ー テ ィ ス ト ・ コ レ ク テ ィ ブ
― 異 質 な も の の 協 力 で 引 き 出 さ れ る 潜 在 能 力
仮 説 2 芸術創造主体としてのコレクティブは、他者の批評の視線から、個人という存在を脅か され、批評の痛みを伴う。そうであるからこそ、新しい思考へ向かってゆくエネルギーと存在価値が 生まれるのではないか。創造によって見えてくるコレクティブの潜在意識とは、主体が他者との差異 を乗り越えて共感へと到達するような、もう一人の自分になることの可能性を意味しているのではな いだろうか。
コレクティブにおいて、個人のアイデンティティが「多元的複数的アイデンティティ」を保ちなが らも、異質なものの協力により潜在能力が引き出されたことをまとめてみたい。シチリアでは、共同 制作の実践では、各自が持つ能力の特徴を生かすことから出発することで、他の能力を持つ人に次の 行為の連鎖を促し、異質なものが協力する形となり、最終的にきわめて特殊な対話の成立に繋がるこ とを見いだすことができた。各自が他者の異分野の知識を学び、他者の興味を自己の興味へと引き寄 せた結果、言語や行為の対話から潜在能力が引き出されるという感覚を認識した。イスタンブールで は、直接的なコラボレーションの取り組みはなくても、異質なものが許容される場を創出し、その場 を自己と他者とが共有し、間接的に「多元的複数的アイデンティティ」を共有しているとも言える。
そこでのグループ展は、プロジェクト参加者個人の考える物語の主人公(参加者自身)の居住地につ いてであり、そこを拠点として制作された個々の作品は、異なった時に滞在したにも関わらず、調和 の取れた互いに関与し合う内容であった。東京では、「ニュアンス」とミュージシャンによる音色が 絡み合う和洋折衷のコラボレーションがあった。ミュージシャンは普段行う仕事とは異なる仕事を迫