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カラー印画紙に関連した出来事

図 9.1 写真ポストカード生産量と年賀状に占める比率の推移

イーストマン・コダック社は 1993 年 2 月、日本製 のカラー印画紙がアンチダンピング法に違反している として米商務省に提訴し、ダンピングの仮認定がされ た。コダックは 1980 年代後半から、創業当時からの 経営方法(競合を無理やり買収する等の強硬手段)で 独立系ラボの囲い込み政策を進めていた。これは当時 日本の感材メーカーが米国のラボ業界に進出を始めた のも背景と思われる。日本のメーカーに買収されたラ ボは日本製のカラー印画紙を使用するため、コダック の印画紙の販売量が減少するからである。一方、アメ リカ国内ではコダックの動きに反対するラボオーナー が、日本の感材メーカーにラボを売却する動きもあっ た。この提訴が正式認定されると、原材料も含め米国 製以外のカラー印画紙の米国内での販売には多額の関 税がかけられ、自社系ラボといえども日本製カラー印 画紙の使用が事実上困難となる。

コニカは 1989 年からノースカロライナ州の工場で カラー印画紙の生産を行っていたが、富士フイルムは この時点で米国でのカラー印画紙の製造を行っていな かった。このため正式認定後はアンチダンピング対象 ではない欧州の他社製品を輸入して、自社ラボに供給 せざるを得ないというところまで追い込まれた。そこ で急遽 1994 年 2 月にサウスカロライナ州にあった印 刷用の刷版製造工場敷地内に、カラー印画紙の工場を 新設する事を決定、わずか 2 年という短期間でゼロか ら工場を完成させ、1996 年 4 月に製造を開始するにい たった。この工場で生産したカラーペーパーの販売先 として、新たに米国最大のスーパーマーケットチェー ン ウォールマート(WAL ★ MART)を獲得し、米 国でのシェアを伸ばすことになったのは皮肉である。

更に 1995 年 5 月にコダックは、日本の写真フィル ム・印画紙の市場が閉鎖的であるとして、米通商代表 部(USTR)に通商法 301 条の適用を求めて提訴を 行った。コダックフィルムが世界市場の 41% もの シェアを占めているのにもかかわらず、日本国内では 10% にすぎないのは日本の排他的な商慣行が原因で あるというものであった。USTR は日本に協議を申 し入れたが、日本政府は 301 条による協議は 「一方的 措置」 につながり WTO(世界貿易機構)上問題があ るので、同上の下での二国間協議には応じられない。

また、コダックの提起した問題は、日本の独占禁止法 上の問題なので、日本の公正取引委員会に訴える事が 適切として取り合わなかった。このため米国は 1996

9.2

コダックによる二つの提訴

年 6 月に WTO に提訴した。この提訴に対し、富士フ イルムでは綿密な調査に基づく 1000 ページにもなる

「歴史の改竄」 のタイトルの反論資料を発表した。反 論は文書のみならず、急遽開設したインターネットの ホームページにも掲載したため広く知れ渡り、日本人 はこのような反論は得意でないと見られていただけ に、大きな話題を呼んだ。WTO に設置されたパネル

(紛争処理小委員会)による調査の結果、アメリカ側 の主張は認められず、1998 年 4 月に上告を断念した。

2011 年 3 月 11 日に発生した東日本大震災で、青 森・岩手・宮城・福島の各県の沿岸部は大規模津波に よる甚大な被害を受けた。津波で流された家屋・家財 道具のなかに多数の写真やアルバムが含まれていた。

写真はお宮参り・七五三・成人式・結婚式など人生の 節目となる大きな記念日や、運動会・遊園地など日常 のイベントの記録であり、持ち主にとってはかけがえ のない 「思い出」 である。被災地で見つかったアルバ ムは価値のあるものとして各自治体が保管し持ち主を 探すように、政府のガイドラインが出された。これに よりアルバムは収集されたが、プリントされずにパソ コンの HDD や CD、USB メモリーに保管された画像 データは殆ど回収されなかった。

被災地からの声に基づき、3 月 24 日富士フイルム のウェブサイトに 「水を被った時の対処法」 が掲載さ れたが、津波の場合は泥や重油の混じった海水に汚染 されており、現実に即した対処方法が必要であった。

社内での泥海水による再現実験結果に基づき、洗浄乾 燥方法を確立しウェブで公開するとともに、洗浄作業 に使う道具を集めた救済キット等を準備し、4 月 26 日以降被災地でボランティアに情報提供と洗浄作業の 指導を始めた。

写真のプリントはゼラチン膜であるため、濡れたま まだと海水中のバクテリアによってゼラチンの架橋が 切れ、乳剤層が支持体から脱落してしまうため、取り 扱いには細心の注意が必要であった。幸いアルバムに 収められたプリントは、中心部がラミネートフィルム と密着していたため、画像の周囲は損なわれても中心 に写っている主要被写体は残す事が出来る場合がかな りあった。アルバムには銀塩写真プリントのみなら ず、増えつつあったインクジェットによるプリントも 含まれていたが、濡れたことにより画像が滲んだり、

全く消失している場合が殆どであり、図らずも銀塩プ リントの堅牢性が証明された形となった。

9.3

東日本大震災(2011.3.11)に伴う 津波により被災した写真の救済1)

図 9.2 被災したアルバムの一例1)

被災地でのボランティアによる救済作業を進めると 共に、6 月下旬から約 1 カ月で工場の体育館で社員・

家族・OB のボランティア延べ 1,500 人の手により約 17 万枚の救済作業を行った。この後、場所を東京に 移し一般のボランティア 1,500 人による救済活動が 8 〜11 月に行われた。さらにこれらを通じて洗浄方 法を身に付けた人が新たな洗浄ボランティアを立ち上 げるなど、各地に活動の輪が広がり、2013 年時点で も活動を続けているグループが多数ある。

図 9.3 ボランティアによる救済作業の一例1)

救済作業に続き、洗浄の終わった写真を現地に戻し 持ち主に返却する活動が行われた。集会所などでの展 示には多数の人が訪れ、自分や家族・親戚の貴重な写 真を見つける事が出来た場合も多い。この返却活動も 継続中で、検索用にデジタル化するなどの工夫も加え られている。

引用文献

1) 鎌田桂成:「東日本大震災による被災写真の救済」、

日本写真学会誌、74(4)、181-186(2011)

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