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参加者

三田佳子(女優)

嶋田親一(元フジテレビプロデューサー・演出家)

中村克史(元NHKプロデューサー・演出家)

山田太一(脚本家・小説家)

司会

岡室美奈子(早稲田大学演劇博物館館長)

岡室 最初に、登壇者の皆さまを紹介させていた だきます。嶋田親一さんは、フジテレビの開局時 からプロデューサー・ディレクターを務められ、名作

「6羽のかもめ」(1974年放送)など多数のテレ ビドラマを制作し、映画や舞台のプロデュースで も活躍し、新国劇の最後の社長も務められました。

女優の三田佳子さんは、テレビ以外にも映画や 舞台など数多くの作品に出演され、国民的大女優 と申し上げるにふさわしい活躍をされています。

ご自身が出演された膨大な作品の脚本をほとんど 保存してこられ、それらのうち800冊を2009年に 脚本アーカイブズに寄贈されました。

中村克史さんは、NHKで多くのドラマを手掛 けられ、ディレクター時代は山田太一さんとコン ビを組み、土曜ドラマ「男たちの旅路」(1976年〜

82年放送)、大河ドラマ「獅子の時代」(1980年放 送)などを制作し、多くの賞を受賞されています。

山田太一さんは、日本を代表する脚本家のお一 人で、「岸辺のアルバム」(1977年放送)、「ふ ぞろいの林檎たち」「早春スケッチブック」(共 に1983年放送)など、みなさんご存じの数多くの 名作を手がけてこられました。本日はこのような 素晴らしい方々にご登壇いただき、脚本の魅力に ついて語っていただきたいと思います。

では最初に、嶋田さんからお話を伺います。

1958年にフジテレビで放送されたドラマ「執刀」

の脚本(国立国会図書館へ寄贈)のお話から伺っ ていきます。これはフジテレビが開局するときの 試験放送で流れた作品で、わずかな方しかご覧に

なってない「幻のテレビドラマ」と言えますね。

嶋田 当時はフジテレビが市ヶ谷の河田町にあり、

隣の東京女子医大に心臓外科の世界的権威である 榊原仟先生がいらっしゃったので、医療部分は榊 原先生にご指導いただきました。脚本は劇作家の 北条秀司の高弟だった山本雪夫という方が書いた のですが、彼もテレビに憧れていて、きちっと台 本を仕上げました。

「執刀」を題材に選んだのは、スーパーイン ポーズ(字幕)入りの映像を作りたかった。「映 像を撮るなら映画みたいなものを作りたい」とい う願望があって、「スーパーインポーズを入れて、

かっこよく見せたい」と考えたわけです(笑)。

医療ドラマなら医者の会話の中にドイツ語が出て くるので、スーパーインポーズを入れられますか ら。映画に憧れていたテレビ屋のささやかな夢で した。

その台本が今、国立国会図書館にこういう形で 展示されるとは、感激ですね。関係者が生きてい たらみんな喜んだと思います。

「執刀」の脚本とテロップ

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岡室 では次に、三田さんにお話を伺いたいと思 います。実は嶋田さんは、三田さんの芸名の名付 け親でいらっしゃるんですよね。

三田 そうなんです。私は東映で映画女優として デビューする前から、これから旗あげする劇団に 迷い込みまして。そこに嶋田さんと、脚本家の松 木ひろしさんがいらっしゃったんです。私は当時、

本名の「石黒嘉子」という名前でお芝居に出たり していたんですが、お二人に「もう少しやさしい 名前のほうがいいんじゃないの」と言われまして。

そこで「じゃあ名前をつけてください」とお願い したんです。

嶋田 (名字のほうは)慶應大学が好きだったん だよね。

三田 そう(笑)。私のいた女子美術大学の附属 高校の文化祭に来るのは慶應大学の学生が多かっ たから、お二人に「大学はどこが好き?」って聞 かれて「慶應です」って言ったんです。それで

「慶應だと三田だな」なんて言ってるうちに、私 が「み」って音がきれいだなって思い始めて、そ れで「三田佳子」って名前をつけていただきまし た。その節はありがとうございました、今日まで

「三田佳子」でやっております(笑)。

岡室 その嶋田さんがプロデュースを担当し、松 木さんが脚本を手がけ、三田さんが出演して、

1969年から70年にかけてフジテレビ系で放送され

たドラマが「アーラわが君」ですね。この脚本も 三田さんが所蔵されていたものですが、もう46年 前の本ですから、たいへん貴重ですね。

三田 私は当時27、8歳だったんですが、このド ラマに出たときは、町を歩くと「三田さん」では なく、役名の「綾乃さん」って呼ばれるようにな りました。それが印象的で、テレビはあの頃から ものすごい力があったんだなと記憶しています。

……あら、台本に「にょっきり顔を出して笑う」

「あーら、と言え」なんて書き込みがある(笑)

嶋田 でも、三田さんはこの脚本をよく保存して いましたね。

三田 はい、私にとって脚本は命ですから。出演 作品の脚本は1000冊近く、すべて保存してきまし た。その中から少し手元に残したものもあります が、ほとんどは2009年に脚本アーカイブズに寄贈 しました。そのときは自分の命をはぎ取られるよ うな、ものすごく淋しい思いがして、「これは絶 対に私の心、私の命なんだ」と感じました。今で はこうして国の保存機関である国立国会図書館と いう場所に、私のつたない書き込みなども一緒に 脚本を残すことができて、本当にありがたいと 思っています。

岡室 三田さんの脚本にはたくさんの書き込みが あり、この書き込みがまた、たいへん貴重な資料 となっています。脚本の中には書籍などの形で出 版されたものもありますが、こういった書き込み による情報は唯一無二のものですので、その意味 でも(現場で使われていた)脚本の保存というの は、非常に重要なことだと思います。

中村さん所蔵の脚本にも几帳面な書き込みがた くさんあって、ある種の演出ノートになっていま すね。中村さん、これらの作品についてお話をお 聞かせいただけますか? 

中村 まず鶴田浩二さん主演のシリーズ「男たち の旅路」ですが、脚本の表紙にタイトルが別の紙 で貼りつけてあるんですね。実は最初に山田さん 三田佳子氏

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と企画を立てたときのタイトルは「俺たちの旅 路」だったんです。ところが準備中に、民放で

「俺たちの旅」というドラマ(脚本・鎌田敏夫、

主演・中村雅俊、1975〜76年放送)が始まってし まった。それでこちらは「男たちの旅路」に変え たんです(笑)。

岡室 (写真を見て)この脚本の書き込みは、演 出ノートのような形で書かれているんですか? 

中村 この書き込みの部分は、僕がちょっとイタ ズラして書き足したものです。ここは、ガードマ ン会社に新人として入社してきた水谷豊さんや 森田健作さんらの若者の研修期間のシーンで、グラ ウンドで走ってしごかれた後、前田吟さん演じる中 間管理職の先輩に座講で絞られるシーンです。先 輩が「ガードマンは忍耐が大事だ、忍とは心の上 に刃と書く」と説教している中、若者達はその話を ぜんぜん聞かないで、ノートにハートマークの上 にナイフのイタズラ描きしている。それで最後に先 輩が「一に忍耐、二に忍耐、三四がなくて」と言う と、脚本では生徒たちが「五に忍耐」と答えるんで すが、そこを僕は「五は肉体」と変えてしまったと いう、そんなイタズラをしてるんですね。単純なダ ジャレ、これは山田さんが一番嫌うことです(笑)。

岡室 山田さん、この演出はいかがでしたか。

山田 いや、面白いと思いましたよ(笑)。

岡室 でも、そういったことがわかるのも脚本が 残っていればこそですね。私たちは「山田さんの 脚本は現場で変更されないものだ」と思い込んで

いますが、実際はこのような変更もあったわけで す。加えて中村さんがどのように演出をなさった かもつぶさにわかりますから、これは本当に貴重 な資料であり、お宝だと思います。

では山田さん、今お話に出たような三田さんや 中村さんとご一緒のお仕事について、何か思い出 がありましたらお聞かせいただけますか。

山田 そうですね、三田さん主演の作品では、ま ず「花の森台地」(1974年放送)。これは当時流 行り始めた「建売住宅」を舞台にしたドラマです。

社運を賭けて売り出した建売住宅がなかなか売れ ないので、社長が社員を家族ごとモデルルームに 住まわせて見学に来たお客さんに「この家でこん なに楽しく暮らしてます」というのを見せて、家 を売ろうと考えるわけです。だからそこに住む家 族は、ものすごいケンカをして険悪になっても、

お客さんが来たらハッピーな家族を演じなきゃな らないという、コメディ仕立てのドラマです。そ れから「緑の夢を見ませんか?」は、津川雅彦さ ん演じる亭主が仕事でミスして破産して、首吊っ て死んじゃって、残された妻の三田さんが義母や 友人たちと一緒に「男は頼りにならないから、女 だけでペンションをやろう」と決意して、伊豆高 原でペンションを経営するという、女たちが努力 する話を書いたものです。

三田 先生の台本は、台詞とト書きがいっぱいな んです。登場人物の所作が「目を上げる」とか

「ちょっと気にして右手を見る」とか書いてある 山田太一氏

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