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〇帰還の一歩を記したまち、舞鶴

昭和 20 年(1945)8月 15 日、第2次世界大戦が終結した。

国内では、戦後の混乱の中、復興に向けて歩きはじめていたが、旧満州(現中国東北部)や朝鮮半島 をはじめ、海外には、多くの日本人が取り残されていた。その数、約 660 万人ともいわれている。

その人々を速やかに日本へ帰国させるため、引き揚げが開始された。舞鶴も引揚港(全 18 港)の 1つとして選定され、主に旧満州や朝鮮半島、シベリアからの引揚者・復員兵を迎え入れた。

舞鶴では、昭和 20 年(1945)10 月7日、今の韓国釜山から、陸軍兵士を乗せた最初の引揚船が入 港し、昭和 25 年(1950)に、函館、佐世保の引揚港が受け入れを終了してからは、舞鶴だけが引揚 船を受け入れる港になった。昭和 33 年(1958)9月、最後の船である白山丸を受け入れ、その役目 を終えるまでの 13 年の間で、延べ 346 隻の引揚船を受け入れ、66 万人余りの引揚者と、1 万 6 千 269 柱の遺骨を迎え入れた。

舞鶴西港や平にかかる引揚桟橋は、多くの引揚者が、夢にまで見た祖国への最初の一歩を印した場 所であり、五条海岸は、夫の帰りを待つ妻や子どもたちが入港してきた引揚船を見守る場所であった。

引揚者を待つ家族が感激の再会をした喜びの場所であるとともに、帰らぬわが子、わが夫との再会を 果たせず、はるか北方の空を仰ぎ、落胆と失望とともに「岸壁の母・妻」と呼ばれる家族が待ちわび た場所でもあった。平成6年(1994)、平引揚桟橋が復元され、忘れてはならない引き揚げの記憶を、

後世に継ぐ場となっている。

〇引揚者へのおもてなしの心

引揚者の多くは、家財を失い、抑留生活での重労働や飢えによって、精神的、肉体的に耐えがたい 苦痛を味わっていた。そのような人々の心が、少しでも癒えるように、舞鶴市民と行政が一丸となっ て、心に灯りがともるように、いたわりの心をもって出迎えた。

舞鶴湾内の蛇島、平引揚桟橋、三条大門角、東舞鶴駅には、帰国歓迎の看板や塔が建てられ、五条 桟橋から東舞鶴駅まで続く三条通に国旗を掲げて、引揚者を温かく出迎え、故郷へと続く国鉄沿線上 には、労をねぎらう看板を建てて、引揚者を見送った。

引揚者が上陸する埠頭や東・西舞鶴駅などでは、空腹に耐えて帰還した人々のために、温かいお茶、

蒸かした芋、炊き出しなどをふるまい、着の身着のままで引き揚げてきた女性には、衣料品を支給し た。引揚者の一時収容所では菓子や果物をふるまったほか、入院患者には花束や果物を送り慰問を行 った。こうした温かく出迎える市民のおもてなしの心は、辛い経験を味わった人々の心に灯りをとも すものであった。引揚者からは、深い感謝の意が表わされた。感動で涙する引揚者もいたという。

〇引き揚げの歴史を後世に伝えるために

昭和 33 年(1958)に引き揚げが終了した。引き揚げとシベリア抑留の歴史を後世に語り継ぐため、

昭和 45 年(1970)、岸壁の母の舞台となった引揚桟橋を見下ろす丘陵地に引揚記念公園が整備された。

公園内には、異国の地で命を落とした方々への哀悼の意を表し、世界平和を願う碑が建立されている。

「あゝ母なる国」碑は、引揚者の有志によって建てられ、引き揚げに携わった人々の愛情に感謝す るとともに、今も帰らぬ同胞の望郷の御霊を慰めるものである。

「平和の群像」には、異境に倒れた御霊に対する哀悼の気持と世界平和の願いが込められている。

「異国の丘」の歌碑は、極寒のシベリアの地で遙か祖国に想いを馳せる望郷の心を表現しており、

「岸壁の母」の歌碑は、わが子の帰りを信じて待ちわびた母の深い愛情と悲痛な思いを表している。

また、ソ連引揚者で組織する朔北会によって、「望郷慰霊之碑」とナホトカの方位を示す方位盤が 設置されており、この地を訪れる人々の往時を偲ぶよすがとなっている。

昭和 63 年(1988)、その公園の中に「舞鶴引揚記念館」が開館した。引き揚げに関わる一連の資料 を展示する日本唯一の施設であり、再び繰り返してはならない引き揚げの史実を未来に伝え、「平和 の尊さ、平和への祈り」を発信する施設として、その役割を果たしている。収蔵されている資料の一 部は、特に希少性が高く、世界的にも重要性をもち、広く世界の人々が共有すべき資料として、平成 27 年(2015)10 月 10 日、ユネスコ世界記憶遺産に登録された。人々に平和の尊さを語り継ぐ場所と して、平和への祈りを捧げる場所として今も多くの方が訪れている。

〇引揚者を迎え入れた歴史文化

戦後 70 年を超え、戦争を知らない世代の増加とともに引き揚げの史実は過去の出来事として、年々 薄れつつある。引き揚げの史実を末永く後世に継承し、また平和の尊さを発信していく役割を担って いるのである。

表 3- 6 主な歴史文化遺産の概要(引揚者を迎え入れた歴史文化)

舞鶴引揚記念館

昭和 20 年(1945) 第2次世界大戦後、海外に残された日本人を帰国させるために、引き揚げが開始された。舞鶴港も 引揚港の1つとしてその役割を担い、13 年間、約 66 万人もの引揚者(主に旧満州や朝鮮半島、シベリアからの引揚者・

復員兵)を迎え入れた。当施設では、舞鶴の引き揚げの歴史を学び、シベリアでの過酷な抑留生活の史実など後世に語 り継いでいくため、1000 点を超える貴重な資料を展示している。

[出典:舞鶴引揚記念館 HP]

引揚記念公園

昭和 44 年(1969)、舞鶴引揚援護局跡地を見下ろす丘陵地に公園が整備された。引揚桟橋を見下ろす展望広場には、

戦没者への弔意と世界の恒久平和を訴える「平和の群像」や、当地と深い関わりのある「異国の丘」「岸壁の母」の歌詞 を刻んだ歌碑などが建てられている。

平引揚桟橋

(復元)

引揚者は、舞鶴湾口に近い大丹生沖の検疫錨地で船上検疫後、引揚船からはしけ(小舟)に乗り換えて平桟橋に上陸し、

祖国への第一歩をしるした場所である。平成6年(1994)、舞鶴引揚記念館の「屋外資料」として、長さ 15m、幅 4 mの平引揚浅橋が復元されている。

引き揚げの記録

舞鶴引揚記念館に収蔵するシベリア抑留と引き揚げ関係資料「舞鶴への生還 1945-1956 シベリア抑留等日本人の本 国への引き揚げの記録」が、平成 27 年 10 月 10 日にユネスコ世界記憶遺産に登録された。

[出典:舞鶴引揚記念館 HP]

五条桟橋 引揚救護局からの引揚者着船場であった。引揚者の帰郷の際は、この場所で舞鶴市民による湯茶の接待と歓送が行われ、

歓迎のための国旗が掲げられた。

三条通 昭和 20 年(1945) 第2次世界大戦後、引揚者は舞鶴港に上陸し、故郷へ帰るために東舞鶴駅へと向かった。その道筋 であった三条通には、帰国歓迎の看板が建てられ、国旗が掲げられた。

舞鶴引揚記念館:外観 舞鶴引揚記念館:展示室内

万国戦没追悼式:引揚記念公園 平和を象徴するカリヨン:引揚記念公園

平引揚桟橋(復元) 桟橋のそばに建てられた歓迎塔

引揚船を迎える舞鶴市民 引き揚げの記憶:白樺日誌・千人針

図 3- 15 引揚者を迎え入れた歴史文化

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