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ドキュメント内 門 朋 (ページ 35-42)

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ル ト 匡 コ

孔 能 凸 市属

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嗣 大構造 ●試料 1̲15P%

60‑3次調査下層遺構出土主要花粉組成図

線 昔 襴

! L F 匡 峠

―‑ 54 ‑―

ま と め

今 回 の調 査 に お い て、 上 層 で 藤 原 宮 期 に属 す る建 物 や井 戸 な どを検 出 し、 下 層 で は弥 生 時 代 後 期 に属 す る とみ られ る水 田 を確 認 した。 上 層 で は、 調 査 区 を 横 断 す る十 条 条 間 路 の検 出 が 期 待 され た が 、 これ を み つ け る こ と はで き な か っ た。 た だ し第

54‑8次

調 査 (概報18)で検 出 した九 条 大 路 の南 側 溝 とみ られ る遺 構 と1989年 度 の奈 良 県 の調 査 で検 出 した十 条 大 路 の位 置 か ら、 十 条 条 間 路 を 割 り付 け る と、 今 回 検 出 した遺 構 は これ に きわ め て整 合 す る。 ま た花 粉 分 析 の成 果 と下 層 の遺 構 の あ り方 か ら、 周 辺 の環 境 の変 化 の一 端 を解 明 す るた め の糸 口 を得 た。 今 後 の周 辺 地 域 で の調 査 が待 た れ る。

SD2411出土土器 (1:4)・琴 (1:10)

―‑ 55 ‑一

西二坊大路 の調査 (第

60‑8次

)

(1989年 7月8月)

この調 査 は住宅新築 に伴 う事 前調査 と して、橿 原市 四分 町で行 った もので あ る。調 査地 は鷺栖神社 の南方約120m、 飛 鳥 川 提 防 の す ぐ東 側 の水 田 で、 藤 原 京左 京 六 条 三 坊 東 南 坪 東 側 の西 二 坊 大 路推 定 地 にあた る。 この た め、 西二 坊 大 路 の検 出 を 目的 と して、 東 西29.5m・ 南北

6mの

調 査 区 を設 定 した。 な お、 当 地 の東北方約

50mに

あ る第34次調 査地 (概報12)で は、藤原宮西南 隅 の大垣 。内 濠 を検 出 して い る。

遺構

 

調 査 区 の層 序 は、上 か ら耕 土・ 床 土・ 暗灰 褐色 砂 質 土 (平安時代包含層)・

暗褐 色 砂 質 土 (弥生時代包含層)。 灰 褐 色 砂 質 土 (地

)が

あ り、 遺 構 は暗褐 色 砂 質 土 の上 面 で検 出 した。 調 査前 に は、飛 鳥 川 の氾 濫 で藤原 宮 期 の遺 構 が削平 さ れて い る可能性 を考 えて いたが、遺構 の残存 状態 は比較 的良好 で あ った。

検 出 した主 な遺 構 は、 藤 原 宮期 の溝

2条

、平 安 時代後 半 の溝

3条

・ 土坑

1基

で あ る。SD 6570・ 6565は藤 原宮 期 に属 す。 SD 6570は 幅

07〜

1.3m・ 深 さ

0.3m

の素 掘 り南北溝 で、堆積土 は

3層

あ り、

7世

紀 代 の土 師器・ 須恵器 が出上 した。

SD 6565は 幅0.9〜1.2m・ 深 さ

014〜

0.3mの 素 掘 り南 北 溝 で、 堆 積 土 は

2層

あ る。堆 積土 か ら遺物 は出上 しなか ったが、 SD 6570の 堆 積 土 と類 似 す る こ とか ら、藤原宮期 と推定 す る。

SD 6575・ 6579・ 6580・ SK 6560は 平安 時代後半 に属 す。 SD 6575は 幅0.6〜0.6

5mの

素 掘 り南北 溝 で、堆 積 層 は

2層

あ り、10世紀 の土 師 器 。11世紀 の瓦 器 な どが 出土 した。 SD 6579は 幅

1〜

1.lm・ 深 さ0.3〜0.4mの素 掘 り南 北 溝 で 、 堆 積土 は

2層

あ り、 中世 の土 師器・ 11世紀 の瓦器 な どが 出土 した。SD 6580は 幅0.

7〜 1.2m・ 深 さ0,2〜0.25mの 素掘 り南北溝 で、堆積層 は

3層

あ り、11世紀 の土 師器 が 出土 した。 SK 6560は 方 形 の上坑 で、 南 北 長 2.4m・ 東 西 長

2m以

上 。深 さ0.25mで あ る。埋土 か ら土 師器・ 須恵器・11〜 12世紀 の瓦 器 が ま と ま って 出 土 した。 この ほか、縦横 に走 る中世 の素 掘 り細溝 や包含層 か ら、土 師器・ 須恵 器・11〜 13世紀 の瓦器 が比 較 的多 く出上 して い る。

―‑ 56 ‑一

まとめ

 

当調 査 の 目的 は西二 坊 大 路 の検 出で あ った。 大 路 の東 側 溝 想 定 位 置 付 近 に はSD 6570 0 6565が あ る。 SD 6570が 藤原宮期 の遺 構 と見 て よ い の に対 し、

SD 6565は 出土 遺 物 か ら時期 を決定 す る ことがで きな い。 したが って、 SD 6570 を東側溝 とすべ きか も知 れ な い。 しか し当調査地 区で平安 時代 に下 る遺構 か ら は少 なか らず瓦器 が 出土 す るため、 それ を全 く含 まぬ SD 6565を 新 しい と断 定 す る こと もで きな い。 このため、西二坊大路東側溝 の確定 は今後 の課題 と して お く。 なお東側溝 は第54‑18次調査 (概報18)で も検 出 した。 その成果 を用 いて 東 側 溝 の振 れ を求 め る と、東 側溝 が SD 6565で あれ ば北 で西 に 3′ 45″

S

D6570であれ ば北 で西 に 13′ 36″ の振 れ とな り、従来 知 られて いた左 京 域 で の条坊 の振 れ (20〜40′ 前後

)よ

り大 き くな る。 したが って、 第

54‑18次

調 査 で 検 出 した溝 が東 側 溝 で あ るのか ど うか も、今 後 の検 討 を要 す る。

西側 溝 の想定 位 置付 近 に はSD 6579・ 6580があ るが 、 いず れ も平 安 時 代 後 半 の溝 で あ る。西側溝 は削平 された可能性 が大 きいが、SD 6579・ 6580の ど ち ら か と全 く重複 して消滅 した と も考 え られ る。 か りに後者 の考 え に立 ち西二坊大 路 の幅 員 を求 め よ う。 東 西 両 側 溝 の位 置 につ い て 候 補 が 二 つ ず つ あ る の で 、

南 面 大 垣

商 面 外 豫    29‐6次 調 査 区 宮 南 面 外 周 帯

西 西

西

37‐6次 調 査 区

│       │ 1      0m

60‑8次調査位置図・ 遺構配置図(1:250)

六 条 大 路

X167070

X 167076

Y179401       m

48‐4次 調 査 区

―‑ 57 ‑―

四つ の組 み合 わせ が で き る。(6565‑6579、 6565‑6580、 6570‑6579、 6570‑6580)。 そ れ ぞ れ につ いて幅員 (溝心々

)を

求 め る と、14.7・ 16.1・ 13.2・ 14.6mと な る。 また道 路心 と宮 西 面 大垣 との距離 を求 め る と、順 に69,70m(196大 尺)。 70,40m(198大 尺)・ 70.50m(198大 尺)・ 71.20m(200大 尺)と な る。 また、 西側溝 は第54次調 査

(概報18)で も検 出 して い る。 そ の成 果 を用 いて西 側 溝 の振 れ を求 め る と、 西 側 溝 が SD 6579の 位 置 で あれ ば北 で西 に 41′ 31〃 、 SD 6580の 位 置 で あ れ ば北 で西 に 37′ 17″ の振 れ とな る。繰 り返 す まで もな くSD 6579・ 6580は西 側 溝 そ の もので はな いか ら、以上 の数値 はあ くまで参考値 で あ る。

今 回検 出 した西 二 坊 大 路東 側 溝 (SD6565な いし6570)と34次調 査 で 検 出 した 藤原 宮西 面 大垣・ 外 濠 との位 置 関係 を調 べ よ う。 西面 大 垣 の南 延 長 線 と SD 65

65・ 6570と の心 々距離 を求 め ると、 それぞれ62.35m(210小尺)・ 63.85m(215小 尺)と な る。 また、西面 外周帯 の幅 を西面外濠 とSD 6565・ 6570と の心 々距 離 と

して求 め る と、 それ ぞれ39.9 (135小尺)・ 41.4m(140小尺

)と

な る。 これ らの 数値 を、 第

29‑6。 29‑7次

調 査 で判 明 した宮 南面 の状況 (概報11)と 比 較 す る と、南面 大垣 と六条大路北側溝 との距離 が56.75m(190小 尺

)な

い し60。

75m(205

小尺

)で

、 西 面 大 垣 と西 二坊 大 路 東 側溝 との距離 よ り小 さ い。 ま た南 面 外 周 帯 の幅 が

32mな

い し

36mで

あ るか ら、 西 面 外 周帯 の方 が か な り幅 が広 い こと に な る。これ は六条大 路 路 心 と南 面 大 垣 との距 離 が70.8m(200大尺

)な

い し72.55m

(205大

)で

西 面 大 垣 と西 二 坊大 路路 心 との推 定距 離 と大 差 な い こ とか らみ て、

西二 坊 大 路 が六 条 大 路 よ り狭 い ことに起 因 す る。

当調 査 区 で は平 安 時代 後 半 の遺 構 。遺 物 が多 か った。 付 近 に集 落 が あ った と 考 え られ る。 SD 6575は 比 較 的規模 が大 きい溝 で、 集 落 の環 濠 の可 能 性 が あ る。

中世 集 落 の環 濠 は、

27‑6次

(概10)・ 浄 御 原推 定 地 (概11)・

41‑15次

(概

16)・ 47次 (概報17)で も検 出 して お り、 廃 都 後 の土 地 利 用 の重 要 な資 料 で あ る。 また第34次 (概報12)・ 36次 (概報14)・ 37次 (概報14)で 、 宮 西面 外 濠 が11世 紀 頃 まで存 続 して い た と想 定 され て お り、 この地 域 の平安 時代 後 半 の景 観 につ

いて は、今後 の調 査 の進展 を待 って検討 した い。

―‑ 58 ‑―

本薬師 寺の調査 (1989‑1次)

(1989年 2月)

この調査 は個人住 宅 の車庫建設 に伴 う事前調査 と して、橿 原市城 殿 町 で行 っ た もので あ る。調査地 は、本薬 師寺金堂跡 の西端 か ら西 へ約

30mの

所 に あ る。

本 薬 師寺 の伽 藍 規 模 が平 城 京薬 師寺 とほぼ等 しい と仮 定 す れ ば、 西面 回廊 のす ぐ東 側 にあ た る。

調 査 は、 東 西 約8.8m・ 南北 約

2mの

調 査 区 を設 け て行 った。 調 査 区 の層 序 は、上 か ら現代 置土・ 耕土・ 床土・ 灰褐色砂質 土・ 褐灰色砂質土 (弥生時代包含 層)・ 灰緑色細砂質 土 (地

)が

あ り、遺構 は褐灰色砂質土上面 で検 出 した。 検 出 した遺構 は、 幅20〜60 cmの南北 溝11条 。東 西溝

1条

で 、 いず れ も中世 の も ので あ る。本薬 師寺 の境 内舗装面 な どは検 出で きなか った。

今 回 の遺 構 検 出面 は、 西塔 土 壇 上 に現 存 す る心 礎 の上 面 か ら約

2.3m下

が っ た所 にあ る。平 城京薬 師寺西塔 の復原基壇高 (1.4m)や 飛鳥 地 域 主 要 寺 院 の塔 の復原基壇高 (奥山・ 久米寺145m、 川原寺1.5m、 山田寺

18m)を

参 考 にす れ ば、 調 査地 周辺 にお いて、本薬 師寺 の伽藍 に伴 う境 内面 は削平 されて残 って いな い と 考 え られ る。

本薬師寺周辺図(112500)

一‑ 59 ‑―

そ の他 の調 査

60‑4次

調 査

(1989年 5月)

この調 査 は市 道 建 設 に伴 う事 前 調 査 と して、 橿 原 市 下 八 釣 町 で行 った もの で あ る。 調 査 地 は当調 査 部 庁 舎 敷 の東 北 に接 す る位 置 で 、 香 具 山 の西 裾 を北 流 す す る中 の川 の西 岸 に あ た る。 東 北 方 の膳 夫 寺 方 面 に 向か って緩 や か に傾斜 す る。

南 北18.lm。 東 西2.lmの調 査 区 を設 定 して調 査 した。

南 半 で は、 床 上 の下 の瓦 器 を含 む灰 褐 色 砂 質 上 を 除 去 す る と、 す ぐに暗 青 灰 色 粘 質 上 の地 山 とな り、 北 へ 向 か って 徐 々 に下 が る。 北 半 で は、 地 山 の上 に赤 褐 色 砂 質 上 が か ぶ り、 北 端

4mほ

ど の と こ ろで この層 を切 って北 へ 広 が る沼 状

の掘 り込 み とな る こ とを確 認 した。 遺 物 は出土 せ ず、 年 代 は決 め難 い。

60‑9次

調 査

(1989年8月)

この調 査 は住 宅新 築 に伴 う事 前 調 査 と して、 橿 原 市 木 之 本 町 で行 った もの で あ る。 調 査 地 は藤 原 京 左 京 七 条 三 坊 東 南 坪 と西 南 坪 の 間 に あ た り、 東 三 坊 坊 間 路 の存 在 が 予 想 され た。 坊 間 路 の検 出 を 目的 と して 東 西 約20m。 南 北 約

4mの

調 査 区 を設 定 した。 調 査 区 の層 序 は耕 土 直 下 に地 山 の バ ラス層 が あ り、 遺 構 検 出 はバ ラ ス層 上 面 で 行 った。 検 出 した遺 構 は南 北 溝

1条

。土 坑

1基

の ほか 、 小 溝 数 条 で あ る。 南 北 溝SD 205は 幅 約

4m・

深 さ約0.6mで、 北 で 若 干 東 に振 れ る。

7世

紀 後 半 〜 平 安 時 代 まで の 土 師 器・ 須 恵 器 が 少 量 出 上 した 。 SD 205以 外 の遺 構 はす べ て 中世 に属 す 。 当 調 査 区 の 北 約

250mの

第 53次 調 査 区 (概18) で 検 出 した東 三 坊 坊 間 路 は確 認 で きな か った。東 三 坊坊 間路 につ いて は、第

60‑

6次

調 査 (概報20)で一 条 大 路 との交 差 点 を検 出 した。 第53・

60‑6次

調 査 の 成 果 に よ って、 東 三 坊 坊 間 路 の振 れ は北 で 西 に 6′ 42″ と判 明 して い る。 こ の 振 れ で 第 53次 調 査 区 か ら南 へ 坊 間 路 を延 長 し、 今 調 査 区 で の想 定 位 置 を求 め る

と、 調 査 区 西 端 よ り4.8mに路 心 、SD 205の す ぐ西 側 に東 側 溝 が くる。

一‑ 60 ‑―

ドキュメント内 門 朋 (ページ 35-42)

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